19話目 「私達が風を入れるのよ」
山吹がカエンを学校の宿舎へ連れて来たのは、アーランが届けられてから半時間程経った頃だった。
更に一時間程してカラシュが朱と共に戻ってきた。
蒼と山吹は、二人を部屋に入れるや否や一礼し、夜の中へ姿を消した。
薬が効いたままのアーランは、ベッドに上半身だけもたれさせた形で休まされていた。
頭の方ははっきりしているのだが、身体が動かない。
即効性の麻酔薬のようだ、とカエンはアーランに説明した。アーランは小さくうなづく。言葉がまだはっきりしない。
「どうしてそんなものを」
「んー…」
カエンは何か気付いている、とアーランは思った。
「仮説は一つあるんだが…… あまり確証のないことをワタシは言いたくないんだな」
だろうな、とアーランは思う。
この人は正直だから、後で弁解を加えるようなことを言いたくないのだろう、と。
と、窓が開く音がした。
「ただいま」
「カラシュ!」
「御苦労様、朱。後のことお願い」
「判りましたカラシュ。なるべく早く茜の方と連絡を付けて下さい。我々もそうしなくては動けませんから」
「ええ出来るだけ早く」
短い会話だった。殆ど口が動いていない。
カラシュはふっと一息つくと、ベッドの上のアーランに近付く。
「ごめんねアーラン、でもその薬は明日の朝には切れるから」
「……!」
「ちょっと、ね」
疑惑はあった。ありすぎる程あった。それはカエンも同じだろう、とアーランは思う。
だが今聞くことはできない。
確かに頭ははっきりしていたが、やはり逃げ出した時のびっくりするようなやり方を思い出すとまだ胸がどきどきする。とにかく今は休みたかった。
それにしても。
唇を軽くなめながら彼女は思う。
あの飲ませ方はないんじゃないの?
別にお茶の時間を壊されたから、という訳ではないのだろうが、カラシュはまたお茶を入れ始めた。
乳茶ではなく、通常の黒茶を入れるつもりらしい。沸かしているのはミルクではなく、ただの湯のようだった。
時計の針は、既に夜明け間近なことを示していた。
「目が覚めるわ」
カラシュは黒茶を勧めながらそう言った。
「今から寝ても大して寝つけないと思うの。どうせなら起きていましょ」
「そうだな、さっき寝させられたしな」
ベッド脇に椅子を持ち出して座っていたカエンは、カップを一つ取り、持てるかとアーランに問いかけた。
軽く身体を動かしてみる。少しは動くようになっていた。
「じゃしっかり持って」
そう言ってカエンは両手で持たせてやる。
「ありがと」
「友達ならそのくらいするでしょう?」
は、とアーランは急に記憶がよみがえる。そしてせっかく持たせられたカップを取り落としそうになってしまった。すんでの所でカエンが支えたので間に合ったが。
「友達って、あの」
「忘れたの? 君が言ったんだよ」
「あ、あれは言葉の」
まだ舌がもつれているせいだけでない。アーランはしどろもどろになる。あの時はどうしてそう叫んでしまったのか、彼女自身にもよく判らないのだ。
「でもワタシは嬉しかったけれど」
「カエン?」
「これから結構長い間一緒にやっていく相手だし。仲良くやっていきたいじゃないか。ま、リュイファ様が選んだくらいだから、結構やっていけるとは思っていたし」
「……」
「何困った顔してるの」
アーランはうつむき――― しばらく顔を上げられなかった。
なおその間に、カラシュがこっそり部屋から出ていったことにカエンは気付いていたが、あえて気付かない振りをすることにした。
「あのさアーラン、ワタシは君のこと結構好きですよ」
だからそういう言葉をやすやすと使わないでほしい、とアーランは思う。
「聞いている?」
カエンはふう、と息をつく。金の髪からのぞく耳まで真っ赤になっていては、顔を上げられまい。
「ではそのままで聞いていて下さいよ。おそらく留学生というのは、ワタシと君だ。それだけだ。最初からそれは決まっていたと思う」
ゆっくりと、アーランは顔を上げる。まだ頬にも耳にも赤みが残っていた。
「何故」
「何故って。あれが留学生に行く人に見えるか?」
あれ、と示したのが誰であるかくらいは、アーランにも見当がついた。
「挙動不審だとは思っていたけど。だけど私にはそれ以上は予想がつかないわよ。カエンには予想がつくの?」
「全くじゃないんですがね。彼女が朱とか蒼とか呼んだあの連中のことなら」
「何」
「『残桜衆』のことを聞いたことがありますかね? アーラン」
「知らない。でも桜の真名がつくなら、昔の藩国『桜』と何か関係あるの?」
「おそらくあれはそれだ」
「ちょっと待ってよ」
うなづきながら明言するカエンに、慌ててアーランは口をはさむ。
「だったら尚更よ。その『残桜衆』をどうしてカラシュが使えるのよ」
「これは父の話を聞いた分だから、確かなこととは言えないんだが」
カエンはそう前置きをしてから、
「『残桜衆』ってのは確かにもともと『桜』の残党だったんだ」
「でも『桜』が滅びたのは三代の陛下の頃よ。無茶苦茶昔じゃない。今の今上の陛下は六代の方よ」
カエンは首を横に振る。
「『桜』は伝統のある国だったんだ。はっきり言ってそこの君主の歴史は、当時の帝国よりもずっと長かったらしい。ワタシは歴史は詳しくないから断片的にしか言えないが…… そこには『
「ああいう職業」
「何と言ったらいいのかな」
実際カエンが説明しにくいのも無理はない。
彼女が説明しにくい、朱や蒼の様な人間は、分かりやすく言えば、攻撃力を持った間者である。だがやや微妙な意味合いの差を持ち出すなら、一番近いものはやはり「間者」「忍び」である。
帝国一般臣民の間には、当時の藩国「桜」の擁していた「忍び」のような人間に値する言葉が無いのだ。
もちろん元「桜」の枝垂桜市あたりには残っているが、アーランやカエンのような帝都直轄区に住んでいる者には縁が無い言葉である。
「まあ、ああいう者だ。身軽で、強くて…… 何か調べ物もするという感じの」
アーランもカエンにしては歯切れが悪いな、と思った。
「で、そこの人間が『桜』の戦役の時に生き残った仲間と結集したらしい」
「ということは、反帝国派なの?」
「そこまで言えないから、よく判らない。実際ちょろちょろと四代帝陛下の頃から、先代の陛下の頃にも顔を出しているらしいんだが、何を目的として行動しているのかが、今ひとつはっきりしない。まあこれも、父上の受けうりだが」
「でも、何となく雰囲気は判る。うん、だって、あの恰好はあまり見たことがないものだったじゃない。あれって枝垂桜様式なんだ」
アーランは思い出す。現在の女性の襟の袷が枝垂桜の服に影響を受けている、ということは彼女も雑学の一つとして聞いたことがあるのだ。
「でも」
アーランはようやく赤みが薄れた顔をカエンに向ける。
「それがどうしてカラシュと関係あるのよ」
ふう、とカエンはため息をつく。
「確証の無いことは言いたくないんだ」
「確証確証って、だって今言ったことだって確証が無いじゃない!」
「違うんだ」
カエンは毛布の上に置かれたアーランの手に自分の手を重ねる。
アーランは驚く。視線が絡まる。ひどく真剣な眼差しだった。
「これ以上は言えない。だけど約束してくれ。何が起こってもこの先驚かないって」
「カエン」
「約束して」
本当に、真剣だ、とアーランは思う。
何だか凄く居心地が悪い感じがして、目を逸らしたくもなる。だが外せない。
そのくらい相手が真剣なのが判るのだ。
「判った」
だから手を外して、と言いたいのだが、アーランはそのタイミングが掴めない。
外すところか、カエンは更に強く彼女の手を掴んでいるのだ。何もそれ以上、何かをしようという訳ではないらしい。
アーランは気がついた。カエンは震えている。
「ねえカエン、寒いの?」
この季節に聞く言葉ではない。それは判っている。だがアーランはそんな言葉しか浮かばなかったのだ。
「寒くはない」
カエンは短く答える。
「おかしいな。今になって妙に震えが来る。いや違う、さっきの脱出劇のことじゃない。ワタシ達のこれから行こうとする方角は、何か大きな力が背中を押しているような気がするんだ」
「うん」
「ワタシはその力に潰されずに乗ることができるだろうか?」
珍しい。カエンが弱音を吐いているのだ。
「気付いたんだ。思っていたよりもっと大きな力がこの留学の件には働いている。おそらくワタシ達はその先鋒をかつがされているんだ。―――ワタシは彼女の期待に応えられるだろうか?」
彼女? それは学長のコンデルハン夫人のことだろうか。だがそれとはやや違うような気もする。
疑問はある。カエンが一体何に気付いて、何に恐れているのか。
アーランにはまるで見当がつかない。それが彼女にも不安を起こさせる。
だけど。
「大丈夫」
アーランはカエンの手をぎゅっと握り返した。
「何とかなるわよ」
「アーラン」
「あんたが言ったんじゃないの。風を起こしたかったら窓を開けなくちゃならないって」
「ワタシではなくカラシュだと思ったが」
「どっちだっていいわよ。あんただってそう思うでしょ?」
カップを置いて、両手で、強く握りしめる。
「風に押されることを恐れるより、私達が風を入れるのよ」
アーランは自分がこんなことを言ってるのがひどく不思議だった。だが、言わずにはいられないのだ。
「だから、一緒に行こう」
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