18話目 月夜の脱出劇

「大丈夫ですかカラシュ」


 何かが落ちてきた。

 いや、「誰か」だ。そしてそう言ったのだ。


「大丈夫よ。この位。当然でしょう? それよりもシュ、この子をお願い」

「俺よりはアオの方が力が強い。奴に渡します。ここに居るのは六人だけですね?」

「見た通りよ」


 増えている。

 カラシュが退いた後の視界に、そこに居る筈のない誰か者が増えているのにアーランは息を呑んだ。

 一人ではない。

 カラシュと話している、短い髪に朱色の鉢巻をした青年、カエンの前の男を殴り飛ばした黄色の鉢巻の少女、そして、天窓からのぞいている青い鉢巻の大柄な男を合わせれば三人だった。


「結果の方は、楓に居る茜に回しました。お戻りになればすぐに判るようになっています」

「御苦労様。では悪いけど、ここで一仕事してね」

「任せてください。……蒼!」


 カラシュに朱と呼ばれた青年は、天窓の蒼と呼ぶ男に向かって合図をする。

 蒼は、見かけにも拘らず、垂らした綱をするすると伝って降りてきた。


「このお嬢さんを頼む。絶対に怪我一つつけるな」

「……」


 蒼は黙ってうなづき、動けないアーランをひょいと肩に乗せ、再び綱に手をかけた。

 どんなバランスをとっているのか、綱を両手で持っているのに、肩に乗せたアーランが落ちる心配は無かった。身体が動かないままだったの幸いだった。


 いや違う。


 アーランは次第に高くなっていく視界にやや恐怖を覚えつつ、奇妙に冷静な部分で思いついた。


 カラシュはそのために私を動けなくしたんだ。


 考えてみれば、カラシュが自分とカエンを起こしたこともおかしかった。

 あの三番目の男は、薬がないと起きないと言っていた。

 嘘は言ってないと見た。それに目が覚める時のあの強い臭い!


「……だいじょうぶ?」


 大きな背中から低い声が響いてきた。頬に風が当たる。外へ出たのだ。

 蒼はアーランを屋根の上に一度下ろした。そして取り出した帯で、今度はしっかり自分の背中へくくり付けた。


 変わった服だな。


 奇妙に冷静な部分が、そんなことを考えていた。動けない中、普段ではあり得ないことに、頭が暴走しているのだ、と自分を納得させる。

 見覚えがない服だ。帝都文化圏のそれとは異なっている。まず袖が無い。

 朱も、黄色の鉢巻の少女も、襟は立たせない右上の袷、袖無し。しかもボタンの一つもつけていない。止めているのは長い長い帯のように見えた。その下には動きやすそうな緩やかなズボン。それを強い紐で編み止めてある様だった。

 だが、何処かで見た記憶はある。現物ではなく、…………


「だいじょうぶ。だからしんぱいしないで」


 うん、大丈夫。


 アーランはその声に、内心そう応えていた。

 その間。

 蒼がアーランが連れ出たのを見計らうように、朱はその場の六人に一斉に襲いかかった。


「朱、生け捕ってちょうだい。山吹ヤマブキはカエンを」


 カラシュの声に、山吹と呼ばれた少女はうなづき、失礼、とカエンの手を取る。


「縄は上れますか?」


 無理、とカエンは短く答えた。


「ではカエンラグジュ様、私が縄ばしごを下ろします。それを昇ってください。大丈夫です。私が支えます」


 その細腕には不安もあったが、カエンは頼む、とやはり短く答えた。

 ここから出るには彼女の手助けを必要とするしかないらしい。カエンは判断が早かった。

 縄ばしごを昇るのは初めてだったので、その揺れにぞっとするものを感じたが、それは足を止める程のことではなかった。


「手を」


 山吹は囁くような声で言った。言われるままにカエンは手を伸ばした。黒髪黒目の少女が視界に大きく入る。


「あんたは」

「はい?」

「いや、いい」


 割れた天窓から出ると、褪せた赤い屋根は勾配がなかなか急であることにカエンは気付き、足もとの覚束なさに背筋が凍る。

 月明かりだけでも、結構な高さがあることはそれでも判った。


「蒼はアーラン様を下まで直接下ろすことが出来ますが、私が貴女様を抱えることはできません。申し訳ありませんが、私の言う通りに付いてきて下さいませんか?」


 カエンは黙ってうなづいた。

 山吹の言葉には実に敬語が多かったが、それは先ほどの男のような嫌悪感をもたらすようなものではなかった。

 用意してあったのか、山吹は太い縄を空に投げた。近くの尖塔に届いたそれを確かめるように引っ張る。どうやら簡単には外れないものらしい。

 彼女は縄の片方を失礼します、と一言断ってからカエンの身体に幾重にも巻き、肩を通して斜めにくぐらせた。そして帯の一本を解くと、二つに裂き、カエンの手のひらに巻き付けた。


「結構な衝撃がかかります。手を火傷してはいけませんから」

「あんたは大丈夫か?」

「私は大丈夫です。慣れています」


 そういうものじゃないのだが、とカエンは言おうとしたが、出てきたのは別の言葉だった。無論それはそれで本心なのだが。


「あんたも気をつけて」


 山吹は一瞬目を瞬かせた。だがやがてやや照れくさそうに笑った。


「ありがとうございます。壁に足をつけやすい道筋があります。私が先に出ますから、後についてきて下さい」

「判った」

「あの方が、あなたは度胸のある方とおっしゃいました。私は信じています」


 カエンは短く返事をして、うなづいた。

 遠くでふとカラシュの声が聞こえた気がした。悲鳴にも聞こえた。出て来る時に何処かガラスで傷つけたのだろうか?

 だが当座、そちらに構っている余裕はなかった。まずは自分を生かさなくてはならない。他人の心配はそれからだ。共倒れになるのは困る。

 アーランとは違う意味で、様々な経験が彼女にはあった。そしてその経験が彼女に命令する。


 悩む前に動け。


 そして彼女はそうする。

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