17話目 「豚に真珠って言うんだよ」
「カエンにカラシュに、……私の友人に向かって喋るな!」
叫び――― そしてアーランは、驚いた。心底。
「アーラン?」
驚いたのは呼ばれたカエンも同じだった。
アーランは怒りなのか緊張なのか判らないが、ふるふると震えていた。
それを見たカエンは意外な程大きく見開いていた。
「カエン、そんな奴に何も聞いちゃ駄目! 言うだけ無駄よ! 何も答える気なんて、全く、さらっさらっ、ないんだから!」
「言ってくれますねえ」
「近寄らないで!」
一歩一歩、男は近付いてくる。アーランは身震いがした。
男は手の空いている他の二人の方を見る。へい、とやや若い二人は中に入ってこようとする。
「寄らないでえええええーっ!」
アーランは思わず椅子の一つを持ち上げていた。
は? と声を上げて驚いたのはカエンの方だった。
殆ど泣きそうな顔で、そのままアーランは思いっきり、前に投げた。
「あ、アーラン!」
「近寄らないでーっ!」
悲鳴のような声を上げて、手当たり次第にアーランは物を投げつけた。
椅子だけでない。近くにあった小さな空き瓶、大きな空き瓶、木の空き箱、引き出しまで引き出して投げつける。
中に入っていたものが投げた拍子に飛び散る。何に使ったのか、使い古しの紙や、木炭のかけら。
男の頭には、木炭のかけらがばらばらと降りかかる。払う拍子に頭のセットが崩れたらしい。それまで決して崩されなかった、張り付いた笑顔がやや崩れかかっていた。
「ああ、あんたハゲだったのか」
カエンは普段の調子で、ずばりと言い切った。やばい、と二人のやや若い男達が口に手をやる。
カラシュはそれを見逃さなかった。次の投げ物を用意するアーランを羽交い締めにする。
「アーラン止して!」
「どーしてよおっ! カラシュあんな奴の言うこと聞くつもり?! そんなのやあよ!」
「そうですよねえ。それが非常に賢いことなんですよねえ? あなたはよく判ってらっしゃりますねえ?」
そして男はつかつかとカエンの前まで歩み寄った。
比べ見ると、男は本当に小さい。嫌悪感と背筋に走る寒気は変わらなかったが、カエンは見事にそれを顔に出すことはしなかった。
「私がハゲ、ですって?」
「そう」
あっさりとカエンは言った。
「もういっぺん言ってごらんなさい?」
「ハゲ」
「もういっぺん?」
次第に男の聞き方には熱がこもってくる。
食虫植物から出るねばねばした液のようだ、と施設で温室当番もしたことがあるアーランは思う。
「何度言おうがハゲはハゲだ。これだけはっきり言って聞こえないのか。あんたの耳は飾り物か?」
若い男達はさらに後ずさる。
「……私をとうとう怒らせましたねえ?」
「その安物の香水臭い頭を近づけるんじゃない」
カエンは男の脅し文句など馬耳東風、とばかりに臭いを避けるかのようにひらひらと手を振る。
「貴族のお嬢さんはいい気なもんですねえ? 香水臭い! 臭い! デリケエトですねえ。そんなことで寄るなとおっしゃるんですかねえ? 知らないんですねえ?」
「貧しいから風呂へ入れない、それで臭いのは仕方ないだろう。だがあんたは風呂へ入ってわざわざべたべたとつけてそれなのか、ということだが」
「この連合のフラジェンカ産の高級品を!」
「ああそれなら適当な言葉があるな。進呈しよう」
何だ、と言いたげに男はカエンを見る。
アーランはひどく危険を感じて声を上げそうになる。が、それは再び塞がれた。それも、今度は手ではなく、抱きしめる腕と、唇で。
「な」
何か、飲まされた。一瞬喉を熱い液体が走ったのに気付く。
「ちょっと、じっとしててね」
がくん、と力が抜ける。目も耳も意識もはっきりしている。だが身体が動かない。
カエンは続ける。
「豚に真珠って言うんだよ」
「!」
ふるふる、と男の身体は震えている。アーランには判る。
無論カラシュも気付いているだろう。
だが彼女は何も感じていないかのようだった。むしろ別のことに気をとられてるかの様だった。
くたくたと、立っていられない程力が抜けている自分を支えている彼女の身体から、そんな様子が伝わってくる。
……と。
こつん、と微かに音がした。
カラシュはアーランをそっと残っていた椅子の上に下ろし、今にもカエンにに殴り掛かりそうな男に向かって声を張り上げた。
「いい加減にしなさいな!」
「そうですよ、いい加減にした方が身のためですよねえ」
「カエンじゃないわ、あなたによ」
何、と彼はそれまではっきりと見ていなかったもう一人の姿を見た。
男の目の片方が、飛び出しそうな勢いでぎょろりと開く。
「何を……」
男が問うより早く、カラシュは上着のボタンを一つ引きちぎる。それを、天窓に向かって思いきり放り投げた。
「そんなもので!」
カラシュは聞いていなかった。投げるが早く、彼女は椅子の上で動けないアーランに覆いかぶさった。
アーランは真っ暗な視界の中で、ガラスが勢い良く割れる音がしたと思った。
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