20話目 伏兵あらわる

 それから何日か、平穏な日々が続いた。

 尤も、それはあの一日と比べれば、ということであって、連日の講義自体は決して平穏無事という訳ではない。

 だがとりあえず、朝起きては濃いコーヒーを囲み、他の生徒と一緒に朝ごはんをし、授業を受け、昼ごはんを食べ、講義を受け、晩ごはんを食べ、寝る前にはお茶の時間をもう一度迎える。

 平穏と言えば平穏である。


 アーランはその合間を縫って、アンドルース教授の所へ通った。教授の言うところの法の「抜け道」というものに興味を持ったのである。

 悪い見方を教えてしまいましたかねえ、と教授は苦笑しながらも、「可能性」の幾つかを見せてくれた。


「ですがアーラン、何故そんなことに興味を持ちましたか?」


 アーランは何となく、と答えた。


「判らないんです。だけど、妙に気になったんです。私は今まで学問に対しては『真面目』に取り組んできました。それは確かに私を勤勉にさせ、理路整然としたものの見方、というものをある程度形作ってきました。だけど、一度としてその中に『何だが判らないけれど面白そう』というものはなかったんです」

「で、その最初が私の講義の中で見つかった? それはなかなか嬉しいことですねえ。ですが、あまり当局からは誉められた見方ではないのですよ?」


 アーランはうなづく。何となくそんな気はしていた。


「ですが、そういう部分にこそ学問の楽しみがある、というのもまた我々の中の常識でもある訳ですからね」

「何故でしょう?」

「それは簡単です。国は国である以上、秩序を守ろうとします。一方、我々学問の徒は、古い知識に敬意を払い、守りもしますが、同時にそこから、それ以上といった『新しいもの』を発見してしまう者の集団でもあるからです」

「『新しいもの』ですか」

「はい。それは常に、既存のものを覆そう、崩そうとするエネルギーを持っています。また、そのエネルギーがあるからこそ、それは『新しいもの』なのです」

「私達が連合へ留学しようとすることも、そうなんでしょうか」

「はっきり言えば、そうです」

「だから、私達の行動を阻止しようとする人が居るんですね?」

「そうです」

「先日教授は物騒な考え、とおっしゃいました」

「はい」

「何故、私達女子学生がそうすることが、物騒につながるのでしょう?」

「あまり私は詳しくはありません。それに、それは貴女方の課題でもあります。ですから私は詳しく自分の考えを述べるのも良いとは思えません。ただ、何故女性が学問をする、ひいては政治をすることが忌まれているのか、それを突き詰めることは、とてもこの国にとっては重要なことだと思います」

「重要」

「はい。ですからそれは私の口からは話せません。少なくとも、あなたが私の生徒であるうちは、話せないのです」

「私がもっと学ぶべきことを学んだ後なら」

「そう。あなたが私と対等に話せるくらいになったなら、そのことについて、もっとみっちりお話しましょう」  


 アーランははい、と言いながらうなづいた。


 ―――尤も、その後彼女は教授とその件について話すことはできなかったのだが。


「そうですね、究理学もそうですが、彼の国は法学についてもわが国とは格段の差があります」

「そうなんですか」

「何しろこの国は、確かに法は存在する訳ですが、それ以上の位置に皇帝陛下があらせられる。どんな法よりも巨大な存在というものがあるのです。何はともあれ、我々はそういう国に生まれ育っている、ということは忘れない方がいいですよ、アーラン」


 たとえ話ですが、と彼は前打ってから、


「この国のかたちをどうこうしよう、なんていうのは一朝一夕ではできません。とりあえずは、自分が『そういう国』に生まれ育ち、生き続けていくことを念頭に置かなくてはならないのです。それを忘れてしまうと、間違うことが往々にありますからね」

「足元には気をつけなくてはならないのですね」

「そういうことです」


 見すかされたような気がした。


「そう、連合は、我々の帝国よりも法については複雑です。ですが、法をその手で扱ってきたという歴史があります。複雑さは運用による積み重ねです。我々帝国の人間が、それこそ一朝一夕では身につけることができないことです。ではそれは何故なのか。それが判らない限り、決して変わることはないのですから」

「教授は、帝国が変わる日が来ると思われるのですか?」

「さあ」


 アンドルース教授は、白いあごひげを撫でる。


「変化しないものなど、無いのですよ」


 そうですね、とアーランは答えた。


***


 約束の期間が半分程過ぎたある夜のことだった。


 いつものように三人は、夜のお茶の時間を過ごしていた。部屋の真ん中のテーブルに、いつもの席順で三人は座る。

 カラシュは持ち込んだ固茶を削っては乳茶を煮出し、カエンは図書室から借りたきた本をテーブルの上に積み上げては、カップを片手に読んでいる。

 その習慣はアーランにも伝染してしたらしい。本だらけのテーブルの何処にお茶を置いたらいいのか、カラシュが悩む始末だった。

 缶一杯のビスケットもクッキーも、次第に底を尽きつつある。次の休みに仕入れに行きましょうね、とカラシュはざらざらと中身を空けながら言う。

 そう、いつもの様な時間だった。昼間の怒涛のような勉強の後には確かに心休まる時間だった。最初は貴族趣味だ、と内心軽蔑していたアーランも。

 ずっと続くような気までしていた。

 忘れかけていたのだ。自分達が「候補」であり、三人の内の誰かが欠けるのだ、ということも。


「皆さんまだ起きてる?」


 張りがあり、よく通る声。三人が三人とも、すぐにそれが学長のものだと判った。


「カラシュ、ちょっと」


 学長は手招きをして戸口までカラシュを呼ぶ。

 私? とカラシュは自分を指す。学長はうなづく。

 

 と。


 学長のえんじ色のスカートが、一瞬ふわりと踊った。

 え、とアーランは小さく声を上げた。


「母様!」


 十歳ばかりの少年が、学長の後ろから走り出てきて、―――カラシュに飛びついた。

 アーランは耳を疑った。「かあさま」?

 それは自分にはあまり縁はないが、母親を示す言葉であることは、さすがにアーランもよく知っている。知らない訳が無い。

 だがその対象が。


「えーと…… カラシュ、あたしは止めたのよ。でもねえ」


 腕組みをしたまま、学長は呆れ半分困惑半分の苦笑を浮かべる。


「判ってるわ」


 カラシュの表情にも軽く苦笑が浮かぶ。

 少年は「母親」にかじりついて泣きじゃくる。

 カラシュはかがみこむと、黒い髪と黒い瞳を持つ「息子」の顔を優しくぬぐってやる。


「全くあなたは、幾つになっても泣き虫なのだから」

「だって母様、こんなに長く、うちにいないの、初めてだから」

「母様はいろいろ忙しいことも多いんだから、といつも言っているでしょう? それともまた、誰かがあなたに何か変なことを言ったの?」


 少年は、答えずにまた泣き出した。

 はいはい、とカラシュは少年を優しく抱きしめた。そして苦笑しながら学長を見上げると、


「時間切れね、リュイ」

「そのようね」

「来てるの?」

「来てますのよ」

「そう」


 意味が判らない。学長とまるでカラシュが対等の友人の様ではないか。アーランは思わず両手を頬に当てる。

 少年の髪をゆったりと撫でながら、カラシュはアーランとカエンを見比べる。


「ごめんね。とても楽しかったんけど」

「カラシュ?」

「さすがに私も、子供を置いて連合にはいけないわ」

「はあ」


 子供…… ですか。


 アーランの耳にそんな乾いたカエンの声が届いた気がした。

 乾いた声はこう続けた。


「では以前、あなたが言ってた恋人とは、あなたのご夫君のことかな?」

「そうよ」

「一度お目にかかりたいものだ」

「そうね」


 少年の肩をぽんと叩いてからカラシュは立ち上がる。


「きっと、会えるわ」

「楽しみにしている」


 それでは後を頼むわ、とカラシュは学長に言うと、少年を連れて扉を出ていく。

 やれやれ、と肩を落とす学長も続いて出ていく。

 テーブルには三つ目のカップと、カラシュがいれたお茶のポットが残される。


「子供、ね」

「まあ仕方ないでしょうな」

「でもあの子、もう十歳くらいには見えたけれど。カラシュが嘘言ってるとは思えないけれど」

「だったら、カラシュが見かけより歳をとってるということではないですかね」

「馬鹿言わないでよカエン。でう見たってカラシュって、二十歳越えている様には見えないわよ」

「さてどうですか」


 その返事にアーランは微妙に腹が立つ。

 その勢いで、空になりかけているカエンのカップにポットに残った分を目一杯注いだ。


「何すんですか、もういいですよ」

「余って仕方ないのよ、残す気?」


 絶対に何かカエンは気付いている。だけど絶対に自分に言う気はないらしい。それが非常にしゃくにさわる。だから、ささやかな当てつけである。

 カエンはやや渋そうな顔をしていた(実際茶も出すぎてかなり渋くなっていた)が、何も言わずすする。

 やがてちら、とアーランの方を見ると、相手に判らない程度に笑った。

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