7話目 アーランにとっての「留学」

 アンドルース教授は真っ白な髪と長い髭が目立つ、小柄でやや猫背な老人だった。大柄で姿勢も良い学長とは好対比だった。


「それではお話致しましょうか。さて貴女方は、学問に対する希求の念に溢れてこの募集に応じたことだと思います」


 別にそういう訳ではないのだけど。


 アーランにとって、「留学」は何よりもまず、あの施設から出て独立するための手段だった。

 施設には長いこと居て、世間一般では「辛い」と言われていることも、当たり前になっている。だがその中でアーランは、まだましな待遇を受けていた。

 それはつまり、アーランの頭が少なくとも周りよりはよく回ったことが原因だった。

 比べてはいけない、と言うかもしれない。誰もがそれぞれに良いところがあるから、そんな勉強のことだけにその言葉を使うなど、と。


 だけどその言葉にすがりつくしかない奴だって居るのよ。


 アーランは時々したり顔でたしなめる者に会うたび、そう考える。

 もともとは、そうではなかった。

 施設では、様々な役が与えられてきた。

 その殆どが家事に近い。建物の掃除、買い物の当番、施設の人々の衣類の洗濯、衣類管理、小さい子供の世話、付属農園や家畜の管理…… 様々だ。

 ところがアーランときたら、それらのことには本当に不器用だった。

 悲しいくらい不器用だった。

 一生懸命やっても、どれだけ努力しても、不器用だった。

 特に衣類の縫い物は悲しかった。自分の仕事がまるで終わらない。夕食時間の間に合わず、自分の分を食べられてしまったこともたびたびあった。

 もちろんそこで文句は言えない。言わない。何たって彼女は「自分の義務を怠っている」らしいので。

 別にアーランは怠っている訳ではなかった。ただひたすら不器用なのだ。

 まっすぐ、細かく縫うべきところを、上手く手が動かせずに大きな針目になってしまって、やり直しを指摘されるのだ。

 繰り返すたびに、はじめはしゃんとしていた布地がくたくたになって、余計に縫いにくくなっていく。


 多少針目が大きくたって着ている側に大して違いはないじゃないの。


 次第に大きくなる思い。苛立ち。

 腹の中でそう反駁するたびに、手は余計不器用になっていくような気がした。

 夕食を食べられてしまったことを報告すると、たいていの寮母は言った。


「言われたことが時間内にできない子が悪いのですよ」


 アーランは泣きたくなった。だが泣かなかった。そしてより努力はした。だがそしてそれは空回りする。唇を噛みしめても壁を殴りつけても事態は変わらなかった。

 たまにはそれでも自分の食事を確保してくれる親切な寮母もいた。だが一部に過ぎなかった。大半は自分の味方ではないような気がしていた。

 あきらめそうになっていた。自分は所詮そういうものだからと。


 ところが。その状況が変わった。小学校の高等科の時だった。

 担任の教師がアーランの成績と、頭の回転の良さを誉めだした。義務でもない中等学校への進学をすすめた。

 実際、アーランの成績は市内の小学校の同年代の子全体と比べても飛び抜けて良かった。本当に基礎の基礎であった初等科とは違い、応用や暗記が入ってくる高等科の授業はアーランに味方した。


 そして施設の園長や寮母の対応が変わった。

 飛び抜けた子が出れば、その施設全体のイメージが上がる。国からの援助も多くなる。そう踏んだのだろう。

 アーランは中等学校初等科へ進学した。学都へ行くことを許されたのである。新設の、第八中等学校だった。

 そこでも彼女はいつも首席だった。

 女子中等だから、家政科というものもあったが、お針子であることを求められる施設の劣等生も、このお嬢さん達が集まる学校では中の上程度になる。それは悪くない感覚だった。

 だがたった一つの条件が、全ての優越感を破壊する。入学の際に条件を出された。施設の制服を着用しろ、と園長は言ったのだ。

 第八中等というところは、まだ開設されたばかりで、制服すらも決まっていなかった。少女達は思い思いの恰好をしていた。

 そんなところへわざわざ新しい「私服」を与えることなど出来なかったのだろう。

 まあそれは当然だったろう。アーランも思う。

 仕方ない。何せ行かせてもらえるだけでも他の子供に比べ、破格の待遇なのだ。それはよく判っている。思惑はともかく、事実には感謝することもできる。

 だが明らかにその制服は差別の対象となったのだ。多かれ少なかれ。


 ちなみにアーランがオゼルンの父姓をもらったのはこの入学の時だった。

 小学校のうちは、父姓なしで通した。その意味が判るような子供はそういなかったせいもある。

 だが中等学校となるとそうもいかない。普通のそういう境遇の子は、同じ位の歳で、独立して施設を出る際に父姓を与えられる。

 オゼルンというのは、酒で身を持ち崩してのたれ死にした男の姓だ、とアーランは聞いた。そのことをわざわざ告げて下すった方々へはアーランは今でも非常に、とてもとても大層に「感謝」している。

 何はともあれ父姓がついていること自体には感謝しているのだ。

 だがその出所をわざわざ告げることはないとは思うのだ。「そうならないように」つけているのか、「せいぜいお前はそんなものだよ」と言われているのか。いずれにせよ、ろくな想像が湧かない。

 まあそんなことはどうでもいい。アーランは想像を侮蔑とともに奥へ押し込んで「ありがとうございます」と完璧な礼をした。


 中等学校の間中六年間、その制服で通った。他の服はなかった。

 貴族の娘はもちろん、辺境地の「留学生」までがその意味を知っていた。

 何気ない顔をしながら言葉の端々に込められたものにアーランは引っかかったが、いちいち傷つく程に柔な神経はしていなかった。

 何しろどんな恰好をしていようと、自分は首席なのだ。それはアーランにとって全ての誇りだった。

 それだけは、生まれも育ちも性格も外見も関係ないのだ。どれだけ父親が偉い貴族さまさま、高官であろうが、この一点においては、自分に勝てる者はいないのだ。


 気分が良かった。


 もちろんそういう態度は自ずと行動に表れてくる。

 結果として、彼女には学校の六年間、友人と名がつく者は全く無かった。

 人当たりはそれなりに良かっし、孤児の優等生ということで、夏休みなどに「ご招待」されることは多かったが、親密な関係まで近付こうとする者はしなかった。

 そもそもアーラン自身、友人を持とうという気がなかった。

 彼女は学問が好きだった。そのために学校へ行ったのだ。学問の内容ではない。学問というものがこの小さな社会で持つ価値が好きだった。

 怖かったのは、その学問をする環境にピリオドを打つことだった。

 だからアーランは持ち込まれた「留学」話に飛びついた。

 何でも、官立の女子中等の首席全員に話はあったらしい。だが結局ここには三人しかいない。


 アーランにとっての「留学」はそんなものだった。別に学問への何とやらというこ難しい理想ではないのだ。

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