6話目 コンデルハン侯爵夫人

 起床時間の鐘が振られ、三人は寮舎の少女達に混じって朝食を摂る。

 その後、三人は小さな講義室に呼ばれた。

 たまたま空いている部屋から、ということだ。壁には黒板がはめられ、長卓がが一つだけ真ん中に置かれている。

 この学校―― 紅中私塾は、中等学校高等科以上、時には高等専門学校程度の者が在籍している。人数は多く無い。そしてきっかりとした学年が存在しない。自分の能力と興味関心の合う所を選ぶのだ。

 中には、本当に専門分野を深く追求しようとする者もいる。彼女達は多人数で受ける講義の他に、この様な小教室で専門の授業を受けることもある。

 だが小教室と言っても、三人で座るにはそのテーブルは長すぎた。結果、真ん中に固まってしまう羽目になる。

 やがて、扉が開いた。

 柔らかそうな巻き毛にえんじのリボンをつけた学長が、今日はかっちりとした紺の上着とスカートで現れた。その背後に一人の年配の男性が居た。

 学長は何やら大きな筒状のものを手にしていた。

 お早うこざいます、とアーラン達は揃って学長に挨拶した。

 何度も言うようだが、学長は若い。

 彼女、カン・リュイファ・コンデルハン侯爵夫人は、現在こそこの紅中私塾の学長ということが世間に知れ渡っているが、数年前までは、別の意味で有名だった。

 社交界の華と彼女の嫁いだコンデルハン侯爵が、帝国の名家であること。「侯爵」は世襲貴族の中でも二番目の地位。皇族の親戚や、建国の際の重臣の家系の「公爵」に次ぐものである。

 だが彼女の噂はそのことよりも別にあった。それは皇后の無二の友人だ、ということである。


 現在の皇后は十年前にその位についた。

 それまでの長い長い現在の皇帝の治世の間、夫人は幾人も居た。だが皇后になり得た者はいなかった。

 何故か。

 それは簡単だ。誰一人として男子を産まなかったからである。

 この帝国において皇后とは、男子―― 皇太子を産んだ女性のことなのである。

 何十年と皇帝は待った。だが来る女来る女無駄だった。身分も民族も美醜も問わず、これと見込んだ者を送り込み、試しに試した。

 だがしかし、身ごもることが希である。そして孕んだとしても、無事に出産することが少ない。なおかつ生まれてきても女子である。しかも十人に満たない。

 覚悟は周囲にもあった。皇家は男子がたった一人しか生まれない。そしてその男子が皇太子となり、皇帝の全てを引き継ぐのだ。全て。

 さすがに皆、あきらめかけていた。

 ところが十年前、しばらくの間をおいて嫁いだ少女が、男子を身ごもった。判明した途端、皇后の地位が与えられた。「帝国」女性最高の地位が。


 ではその皇后は、何処のどういう人なのか。アーラン達庶民には遠い世界の話であり、正式な名すら知らない。

 だが、その旧友コンデルハン侯爵夫人については耳に入ってきていた。「皇后陛下の正確なお名前」より社交界の噂の方が伝播力は強いのだ。妙なものだが。

 ところが、その社交界の華が、五年前、急に社交界から教育界に身を転じた。学校を建てたのである。

 それがこの紅中私塾だった。

 社交界は大騒ぎになった。

 縁は無くとも華やかな世界に憧れがある庶民にとっても同様だった。あまり堅くない方の新聞がずいぶん騒ぎ立てていた。

 だが教育界で尽力している現在でも、たいていの女性は色あせて見えるのではなかろうか。一歩身が退けてしまう程に。


 尤も、あたしの両隣に居る人達は違うようね。


 アーランはちらと横を見ながら内心つぶやく。どうも調子が狂いかけている。

 この時、彼女達はくじで座る場所を決めていた。提案したのはカエンだった。実に無造作に、当たり前のように、くじで決めよう、と言った。アーランは驚いた。

 結果、アーランが真ん中、出口に近い右にカエン、窓側の左にカラシュが座っていた。

 これでいいんだろうか、とアーランは思った。貴族のお嬢さん二人にはさまれているのに、違和感が全く無く。

 変だと思う。もの凄く変だと思う。

 そもそもアーランは基本的には貴族は嫌いなのだ。

 カエンの家は言わずと知れた名家だし、カラシュも彼女の話によれば、学長の縁に連なっているという。ならば貴族なのだろう。

 第八中等にいた頃、アーランは貴族の少女達の横に座ると、妙に居心地が悪かった。ところが今自分をはさむこの二人にはそんなことはない。

 もの凄く変だった。


 何か違う。この二人は。


 考える。何が違うのか。

 彼女達は全然派手でも滅茶苦茶な美人でもない。だが妙な存在感がある。あの滅多にいない華々しい学長と何処か似通った。

 タイプは違う。カエンのそれは、あの真っ黒なコーヒーの苦さにも似ている。カラシュは。コーヒーと比べれば乳茶なんだろうか? だけど何か違う。今までに会って来た誰とも何とも。


 でも所詮貴族よ!


 アーランの中で小さく叫ぶ声がある。力一杯苦々しい表情を浮かべ、頭を振る自分が映る。


「お早うございます。さて全員揃った所で、今回の連合への留学の詳しい説明を致します」


 学長は黒板の前に立ち、筒の中から一枚の紙を取り出した。

 大陸の地図だった。さっとそれを広げ、あざやかな手付きで黒板に貼っていった。

 地図は、大きく三色に塗り分けられていた。

 真ん中の砂漠地帯が何故か淡い緑で塗られている。その右側に「帝国」が赤、左側に「連合」がやはり黄色で塗られていた。


「これから皆さんに行って、勉強をしてもらう『連合』はこの大陸の西半分を占める大きな国です」


 知ってる。アーランはうなづく。そのくらいは、中等学校の初等科の地理で習うことだ。

 だが義務教育の小学校では教えられないことだ。


「留学が決まった方は、ここに十年間居てもらうことになります」

「十年!」


 カエンが思わず声をあげた。


「ええそう。十年です。長いと思いますか? マイヤ・カエンラグジュ?」

「……判りません」

「何故?」

「何しろ、ワタシ達には考えなくてはならないことに対する情報がまるで足りません。どの程度の学問を修めてくることが必要なのか、それに必要な時間は一般的にはどのくらい必要なのか」

「そうですね」


 学長はカエンの解答に満足そうにうなづく。アーランは驚いた。このひとはそんなことまで考えているのか。

 確かにそうだった。

 カエンがそう思うくらいだったら、自分はどうなんだろう。したいことがはっきり決まってる彼女がそう思うんなら、まだそれすらも見えていない自分は。


「ですので、その件についてアンドルース教授から御講義をいただきましょう。教授、お願いします」


 学長はそう言うと、黒板のわきに学生用の椅子を置き、黒板が見える程度の位置にかけた。

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