8話目 「知っていれば、恥をかかないですむ、ということもあるのですよ、私のようにね」

 アンドルース教授は、ちょっと騒がしい教室だったら聞き取れないくらいの声で話す。そういう声だからこそ、彼女達は必死に耳を傾けなくてはならない。


「貴女方は、これから行こうと目指している『連合』のことをどれだけ御存知ですかな?」


 アーランは首をかしげる。おや、と教授はその態度を見てアーランを指す。


「君はどの程度知っていますか?」

「学校で習う程度には」


 あいまいに答える。


「そうですね」


 にっこりと教授は微笑む。次にカエンを指して、君はどうか、と再び訊ねる。カエンはさらりと答える。


「ほとんど知りません」


 ほお、と教授は長いひげを撫でる。


「しかし貴女は学校では学んでは来なかったのかね?」


 カエンは首を横に振る。


「学校で学んだことは、所詮かけらに過ぎません。あれは紙の上に書かれた別の国のようなものであって、本当の『連合』とはやや違うんではないでしょうか?」

「そうとも言えるし、そうとも言えない」


 教授は伸縮指示棒で地図の赤の部分を指す。


「帝国は広いですね」


 そして次に黄色の部分を指す。


「だが連合も広い。この西の国は、我々の帝国とほぼ同じくらいの広さを持つ。貴女方はこの帝国に住んでいながら、おそらくは自分の暮らしてきた地域くらいしか知らないでしょう。他の地域については、殆ど知らないに等しい」


 確かにそうだ。生まれた町、育った町程度にしか、本当に「知ってる」所なんてない。アーランはうなづく。


「そういう意味では、確かに、連合については、我々は殆ど知らない、と言っていい訳なのです」


 アーランはちらり、とカエンを横目で見る。真剣に教授の話を聞いている。

 この人は真面目だ、と改めてアーランは思った。そして黒と判断していた瞳が実は濃い緑であったことに気付く。真っ直ぐ黒板の地図に向けられたそれは。


「我々は彼の国について結局殆ど知りません。知らないからこそ興味に値するのです」


 カエンは何度も大きくうなづく。


「それはどんな学問にも共通します。いえ、全てのものごとに共通するのです。学問をする人間は等しく『知らない』ものごとを追求し、『知る』までそれを続けるのです」

「では私達はその取りかかりを見つけに行くと言うのですね?」


 高くも低くもない声が右隣から聞こえた。カラシュが口をはさんでいた。教授はうなづく。


「そうです。何しろ、この国にはそもそも女子のための取りかかりが全くないのです」

「連合にはあるのですか?」


 ようやくアーランにもできる質問が見つかった。どうやらこの教授は口をはさまれるのが好きらしい。


「そうですね。まあ貴女方の一人は、既にその取りかかりは見つけているようですが。ですが、向こうにはもっとたくさんの取りかかりがあります。その中から選ぶということもまた大切なことです」

「例えばどういうものがありますか?」

「貴女はコズルカ・アーランでしたね?」

「はい」

「それではアーラン、貴女の周りにはどんな職業の人が今までいましたか?」

「学校の先生、施設の先生、寮母さん達に……」

「それでは、例えば貴女が施設の先生になりたいと思ったとします」

「なれません」


 アーランは即座に答える。


「どうしてですか?」

「施設では、先生は男の人だけです。女は寮母にしかなれません」

「どうしてそう思いますか?」


 アーランは口ごもった。アンドルース教授は続けて問う。貴女はどうしてそう思いますか?


「見たことがありません」

「見たことないものは可能性が無いと言いますか?」

「いいえ、言われたのです。施設の園長先生に将来を聞かれました。私は学校の成績が良かったからので。その時言われました。『お前は女だから無理だよ』と。どうしてそうなのか、とあたしは訊ねました。そうしたら、『法律でそうなっているんだ』と」

「ふむ。まあ半分は当たっていますね」


 半分? アーランは目を大きく広げた。全部ではない、ということか?


「さて、アーランの言ったこともまあ本当です。何故なら、そういう職に就くための資格を取ることが、現行の法律では出来ません」

「何故ですか?」

「それはおいおい貴女方が調べていくことです」


 さらりと教授はカエンの問いを受け流した。


「だけどその法律にも多少の抜け道はあります」

「抜け道」


 アーランとカエンの言葉がユニゾンになった。

 思わずアーランは彼女の方を見てしまったが、彼女はそんなことにも気付かないように、食い入るように教授を見ている。


 抜け道! こんな教授からそういう言葉が出るなんて!


 何となくアーランは嬉しくなっていた。


「帝国では連合の有識者を度々招いて、学都で教鞭を取ってもらっています。その中には時々女性の専門家もいるのは知っていますね、カエンラグジュ?」

「はい」


 カエンはうなづく。


「去年一年、究理学を教わりました」

「そうですね。残念ながら、わが国は究理学関係においては、格段に向こうに立ち後れています。現在の偉大なる六代の陛下は、そのことに気付かれるや否や、すぐに留学生を向こうに送り込まれた。まだ大陸横断列車が今のように速くは走れなかった頃ですよ。何しろその列車にしろ、向こうの技術でなかったら作れはしなかったでしょう。当代の陛下は、その素晴らしい見地をもって、多くの留学生を送り出され、その成果が現在、次第に実をつけつつあるのです…」


 なるほどね。


 アーランはうなづく。

 この教授はどうやら現在の皇帝を、その点において非常に尊敬しているらしい。

 アーランにしてみたら、「皇帝陛下」というのは全くもって雲の上のお方で、はっきり言えば、実在しているのかすらよく判らない。

 確かにそういう人が居る、というのは彼女達も小さい頃から聞かされてる。学校でも習う。位にあるうちは不老長寿の、神のような方だとかどうとか。

 だけどそこまで強調されてしまうと、ついつい彼女は存在を疑ってしまうのだ。

 姿だって見たことがない。絵姿の皇帝は、何年たっても変わらない姿である。それも出てきたのは最近らしい。現在の皇后が位についてからのことである。それまでは絵姿すら一般には出回らなかってなかった。

 皇后については、今ですら絵姿は無い。

 そういうものだ、と言われればそうかもしれない。だがアーランの中では、何となく胸の奥でわだかまるものがある。


 あれ?


 ふと横のカラシュを見ると、何か変だ。口に手を当てて、頬がぴくぴくしている。

 笑いをこらえている顔だ。そんなに笑いたくなるようなことがあるのか?

 それは一瞬のことで、すぐにまたカラシュは穏やかな表情に戻ったが。


「究理学の講師の方は如何でしたか? カエンラグジュ」

「素晴らしい方でした。知識も、教え方も」

「そうでしたか。さて、アーラン、そういう方も居る訳です。女性だから高等学問を全く教授できないという訳ではないですね。問題は資格です。向こうの資格を持っていればこちらでも教授できる訳ですよ」


 あ、とアーランは声を立てた。


「つまり、こちらでなることができない職業でも、向こうで何らかの資格を留学して手に入れれば」

「そう、可能です。それが法の抜け道です。そうしてはいけない、とは帝国法大全の何処にも載っていません」


 まあそうだろうな。

 彼女は思う。成立が「連合」と出会う前のものでは。


「ですが、その『抜け道』を塞ごうとする者もあるのです」

「反対派、ということですか?」


 カエンは訊ねる。教授はうなづく。


「女性がそのように男性が全て仕切っていた職業につくことは、現在の社会を転覆させようといる思想だ、と考える者も居る訳です」

「そんな物騒な」

「主張する者が物騒なら、どんな思想にしても物騒になってしまうものです」


 教授はやや人の悪い笑みを浮かべる。


「まあしかし、今回の留学については、偉大なる皇帝陛下の許可が下りている訳ですから、その点は安心してよろしい。ただ、その位、初めてのものには神経を尖らす者が居る、ということは貴女方も考えていてよいでしょう」


 では本題に入りましょう、とアンドルース教授は言った。


「確かに我々は連合について無知ではありますが、無知なりに知っておかなくてはならないことは山ほどあります。ノートは取らなくともよろしい。頭に刻み込みなさい」


 アーラン達は三時間ぶっ通しで「連合」についての地理・歴史のおさらいをさせられた。

 三人が三人とも、公平に質問の雨を浴びせられ、頭はひっきりなしに回転し、ノートはともかく、メモを取る手はどんどん下手になっていった。

 その間も学長はその場から離れなかった。

 ふっと気を抜いた瞬間に見た彼女の姿がどれだけアーランにとってうるおいだったか!

 教授は退出する際に言った。


「知っていれば、恥をかかないですむ、ということもあるのですよ、私のようにね」


 にやりと笑って出て言った彼は。どうやら留学経験者だったらしい、とアーランは気付いた。

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