3-2 冬のひととき

 その年の冬は大雪だった。エクセリオはその雪の中、酷い風邪を引いて家から出られなくなってしまった。

 エクセリオが住んでいるのは、彼の両親が昔住んでいた家だ。その家はちっぽけな彼にとってはあまりに大きすぎる。時々、次期族長候補のために他のアシェラルがその大きすぎる家を手入れするらしいが、あいつもオレと同じ、基本、一人だ。

 幼くして両親を亡くして、広すぎる家に一人住む。あいつは一人で暮らし続けるオレに、自分と似た空気を感じ取ったのだろうか。

 そして今、あいつは病気だ。でも見舞ってくれる人なんてほとんどいない。次期族長候補になったのに? なんて雑な扱いなんだ。やっぱりこの村はどうかしてるよ。

 そう思った、オレ。でもオレは違う、この村の、他の無慈悲で情を持たない大人たちとは違うんだ。だから、オレはバスケットにパンや果物を入れて、大雪の中、あいつの家まで歩いた。オレは炎、火炎を操るメサイアだ。オレに限って言うならば、雪だろうがなんだろうが関係ない。降り積もる雪も、オレの歩くそばから融けた。

 やがてたどり着いたのは、大きな木造の家。誰もいない。そこには冷たい空気が漂っていた。オレはその入り口をノックするが返事がない。そういえばオレがエクセリオの家に来たのはこれが初めてだったなと思いつつ、「メサイアだ、見舞いに来た」と声を掛け、中に入った。鍵は掛かっていなかった。

 大きな家だ、造りはよくわからない。族長さまの弟、つまりエクセリオの父とやらは、それなりに資産を持っていたのだろうか。きょろきょろしながらオレは歩いた。すると、しんしんと雪の沈黙が辺りを覆う中、オレの耳に届いた微かな、しかし確かな、声。

「メルジア……?」

「エクセリオ……!」

 弱々しい声に導かれ、その声のした部屋に向かうと、火の落ちた暖炉の設置されているひと部屋のベッドの上に、エクセリオが横たわっていた。今は、冬の夜だ。その中で暖炉もつけず布団一枚で寝ているとは、身体に障る。実際、部屋の中はぞっとするくらい寒かった。体調が悪いってのにこんな部屋に寝かせるとは、つくづく村の大人たちも薄情者である。こいつは曲がりなりとも次期族長候補だぞ? ……オレを意図せずして蹴落としたことは、この際、置いておく。

 オレはエクセリオを気遣って、炎の魔法で暖炉の薪に火をつけた。いつからあったのか、手入れ係が入れたのか知らんが、暖炉の中にはたくさんの薪があった。

 暖炉に火がつけば、少しは暖かくなった部屋の中、赤くぼんやりとした光に、横たわるエクセリオの顔がうっすらと照らされる。その顔は蒼白で、額からは汗が流れているのにエクセリオはぶるぶると震えていた。オレは思わず声を掛けた。

「おい……大丈夫か?」

 その額に手を当てると、熱かった。エクセリオの瞳は涙で潤んでいた。どう考えても普通の状態ではない。

「雪を拾って冷たいタオル作ってやるから少し待ってろ」

 見てられない。オレがエクセリオにそう声を掛けて部屋を出ようとすると、オレのマントが引っ張られる感覚がした。見ると、エクセリオが必死の顔で身を起こし、オレのマントの端を掴んでいる。エクセリオはすがるように弱々しく言った。

「お願い……行かないで」

 オレはそんな聞き分けのない子供みたいな、いや実際まだ子供のエクセリオに、諭すように言った。

「すぐに戻る。いなくなるわけじゃないから安心しろ。というかお前はまだ寝てろよ。無闇に身を起こすと身体に障る。頭とか、今、すごい重いんじゃないか?」

 どうしてだろう、こうやって気遣っている時、オレのエクセリオに対する憎悪は消えていたんだ。

 オレは自分の心を省みる。今、オレの中にあるのはいたわりと心配だった。あんなに、悩んでいたのに。あんなに、葛藤していたのに。どうしてだろう、今は、今だけは、あいつを憎いと感じないんだ。

――オレにも人の心が残っていたか。

 そう思うと、安心した。オレは壊れかけているけれど、病人に、弱っている人に憎しみを抱くほど、壊れてはいないんだ。もしもこのまま状況が平和に過ぎ去れば、オレはまだきっと、戻ることができる。

 エクセリオはオレの言葉に返答する。その声もかすれてがらがらになっていて、息をするのも辛そうだ。無理するな、とオレは声を掛けた。

 エクセリオは、言う。

「重いよ、辛いよ。でもそれ以前に……怖いんだよ。だから傍にいて、メルジア」

 何が、とは言わなかった。そしてエクセリオはオレに頼んだ。

「ね、僕を暖炉の前まで運んで。そして隣にいてよ、ね」

 オレは言われたとおりにエクセリオの華奢な、羽根みたいに軽い身体を暖炉のそばまで運んでやると、その隣にそっと寄り添った。するとエクセリオはオレの肩に、その小さな頭を預けた。「お、おい……?」戸惑いながらもオレが不器用にその小さな身体を抱き締めてやると、その全身が震えているのがわかった。でも、その震えは病気のせいだけではないように感じた。エクセリオはオレにぎゅっとしがみついて、固く目を閉じて唇の隙間から声を漏らした。

「死ぬのが、怖いんだ」

 エクセリオは唐突にそんなことを言った。オレにしがみつく力が強くなる。その姿は、まるで藁にでも縋ろうとする、今まさに溺れようとしている人の姿にも見えた。

 それだけ、必死そうだったのだ。オレは心配して、エクセリオを覗きこんだ。

「エクセリオ……?」

 エクセリオは震えながらも、答えた。

「死ぬのが、怖いんだ。僕、二十まで生きられないんでしょ。今、辛いよ苦しいよ。このまま死んじゃうのかな、それは怖いよ。怖くて怖くてたまらないから、どうしても震えちゃうんだよ……」

 発されたのは、エクセリオの本音。

 エクセリオ。「神憑き」であることが判明したこの天才には、常に死の気配が付きまとうようになった。エクセリオはいつも笑い、口では気丈なことを言って強気な態度を取るけれど。本当は、怖かったのだろう、とても怖かったのだろう。

 まだ、この世界でやりたいことはたくさんあるのに。

 自分だけが誰よりも先に、誰も知らない未知の世界へ旅立たねばならないことが。

 オレはこれまで、自分の視点でしか物事を考えていなかった、考えられていなかった。エクセリオがどう思っているかなんて考えたことも無かった。オレは自己中な救世主だった。自分中心の視点でしか、物事を見ることができなかった。

 しかし、

 こうやって聞いた、エクセリオの本音。

 それはあまりにも悲しくて。

 誰だってそうだ、誰だって死は怖い。しかもエクセリオは余命が定まっている。いつ死ぬかわからないからのんびり生きている他の人たちとは違うのだ。その恐怖は、その不安は、どれだけのものか。

 オレは震えるエクセリオを強く抱き締めた。するとエクセリオもその細い身体で精一杯の力を出して、オレにしがみついてくる。オレはその頭を撫でてやりながらも、優しく慰めるように言った。

 オレは救世主じゃなかったのかもしれないけれど。

 それでも、少しでも誰かの救いになれるなら。

「大丈夫だ、エクセル。炎は命、命は燃えるもの。たとえお前の命の灯が消えそうでも、オレが燃やしてやる、オレの炎で永らえさせてやる。だってオレは『炎』のメサイアなんだ、燃やすことは得意なんだよ」

 その炎はいつしか、自分自身を焼き尽くして灰に変えるのかもしれないけれど。

 現に、オレの心はずっとずっと不安定だったんだから。

 それでも今は違う。今の炎ならば、熾火おきびみたいに優しく穏やかな炎ならば、きっと誰かを暖められる。

 オレはエクセリオに、気分転換のための話を持ち掛けることにした。

「病は気から、という。少し落ち着けよ、幻の花。

 気分転換に話をしようか。エクセル、オレたちアシェラルの民の始祖の話……知ってるか?」

 ううんとエクセリオは首を振る。そうか、とオレは頷いた。

「まだ教わってないんだな。じゃ、話をしようか。綺麗な、この大空みたいに綺麗な、どこまでも澄み渡った物語だよ」

 そしてオレは語り始める。

「昔々、それは今から二万年ほども昔。戦乱で荒れた世界に、一人の少年がいた。その名はフィレグニオ。彼は戦の日々の中でも空だけはずっと綺麗だという理由で、空に憧れて空ばかり見ていた。戦いなさい、何をぼうっとしているんだと周りは言うけれど、それでもフィレグニオ少年は空ばかり見ていた――」

 それは、神に空を願い、願いを聞き届けられて空を飛ぶ翼を得た少年の物語。未来、彼の子も背に翼を持つようになり、彼は全てのアシェラルの始祖となる。こうして翼持つ一族、アシェラルの民は誕生したんだ。

 そんなフィレグニオ少年の本名は、フィレグニオ・アシェラリム。偶然か、必然か。エクセリオの名字と同じ名字を持つ。

 オレは、語る。冬の夜、暖炉の光が複雑な陰影を生み、辺りをぼんやりとした光で照らしだした。

 気がつけば、エクセリオの震えはおさまっていた。話が終わるころには、エクセリオはオレの肩に頭を預けたまま、眠ってしまっていた。落ち着いたのだろうか、その顔にはもう恐怖がなかった。オレはそんなエクセリオを見て微笑むと、彼を起こさないようにしながら慎重に自分のマントを外し、毛布代わりにエクセリオに掛けてやった。

 久しぶりに訪れた穏やかな時間。オレの心は複雑だったけれど、この瞬間だけは確かに、満たされていた、満たされていたのだ。

 感じたのは、多幸感。

 この幸せが、この穏やかな時間が、永遠に続けばいいのに。オレはそう思っていたけれど。

 永遠なんて、存在しないんだ。

 それをどこかでわかっていて、だからこそこの時間が失われることを恐れる自分がどこかにいた。

 冬の夜はゆっくりと過ぎる。冬の夜は静かで、辺りは沈黙に包まれる。

 オレは暖炉の炎を見ていた。今、この部屋には暖炉のパチパチと爆ぜる音と、エクセリオの静かない寝息以外の音は一切存在しなかった。

 オレは炎を見ていた。オレみたいな炎を、オレそのものみたいな、鮮やかな炎を。

 ある冬の一日の夜が、静かに過ぎようとしていた。


  ◇

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