さよならヒーロー
夏永遊楽
さよならヒーロー
『次は東京を獲ります』
鋭く宣言したあいつは、有言実行の男。
危なげなくその切符を手に入れたことを、僕はラジオの音に知らされる。
水泳は今回も期待できそうですね。
嬉し気なパーソナリティの声をぶっち切るようにエンジンを切り、車を降りた。
そう大きくもない自動車ディーラーの裏口に回り、中に入ってぱきっとあいさつする。バックは、日本水泳界のホープ、
上半身裸のヒーローは、4年前もこうして国を元気にしたものだ。
昨夜の選考戦をリアルタイムで見ていたらしい所長が、早朝からいきいきとシマダシマダシマダ。
余計な話を振られないうちに退散しよう。おざなりに相槌を打ち、さっさと業務にかかる。
カーテンを開けた店内に入れば、どっしりとフロアに立つ車たちが朝日を受けて輝いている。
床をつかみきれない僕の足は、ふらふらと朝日を通すウィンドウに近づいた。
一歩歩くたびに、着込んだスーツが身を締め付けた。
タイミング悪く日は陰り、ウィンドウは覇気のない顔を映した。
情けない男を、じとっと眺めて息をこぼす。
嶋田美弘は同じ大学の同期で、僕と同じ水泳部に所属していた。
同じ学校に通ったのは大学での4年間だけだが、ランドセルを背負っていた頃からお互いを知っていた。
というか、かなり仲が良かった。所属クラブどころか県まで違ったが、強化合宿や遠征で何度も顔を突き合わせ、互いに認め合い競い合った好敵手だった。
気の合う友人であり、ライバル。
言葉にすると少々チープに感じるが、僕にとって美弘は唯一の特別な存在だった。
美弘は実に色んなことを気づかせてくれた。
青春時代の大部分を水泳に懸ける者として、互いにしか分からない心境があった。
何に代えても勝ちたいと思わせてくれる力が漲った。
そして、才能には”差”が存在することを。
なあ美弘。おまえには本当に感謝してる。
僕の人生において最も幸運だったのは___あの時点で、僕は世界で戦えないと気づけたことかも知れないのだから。
*
毎回、美弘の出場する決勝だけは、家のテレビでリアルタイム観戦がお決まりだった。
が、今日に限って仕事が長引き、駆け足で職場を出て車に乗り込む。
水泳ファンの所長は、共用のテレビで観るからと悠長なものだったが、4年に1度、並々ならぬ気持ちを抱えて画面に見入る僕は、自分のそんな姿を人前でさらすのはごめんだ。
しかし、ワンセグ画面に浮き出た時刻はすでに試合開始間際。飛ばしても間に合うはずがなく、シフトレバーにかけた手を浮かせてチャンネルを変えた。
画素の荒い画面が今夜の僕の目だ。
激励のメッセージを送った携帯端末には、昨日返信がきていた。
奴は今年も勝つだろう。
そう信じてはいるものの、いざ試合になると気がざわついて落ち着かない。
僕は、美弘の勝負の行方だけを気にしているわけではないからだ。
手元にあると信じて疑わなかった僕の核みたいなものが、美弘の形をして今、水を掻く。
何度もペダルを蹴りそうになった。
がんばれ美弘。
勝ってくれ。
そのままぶっちぎれ。
お前ならできるだろ。
そうだ。
そうだ!
勝ってほしい。
……ただ、鳩尾のあたりが痛い。
美弘を見ていると、へんなところが痛みだす。
なぜだろう。なんだか今年は、君が代を聴いていられない。
気のせいか、少しばかり目玉が濡れて温かい。
首元を絞めるネクタイを引き抜いて放り投げる。
ガコンとレバーを引き、アクセルを踏み込むと車が大きく啼いた。
強ばった肩が痛み出すまで走って、走って。ひたすら車道を飛ばした。
気がつけば、対向車もいなくなっていた。
こんなに重い乗り物を駆ってるのに、重さはまるで感じない。
僕だけ宙に浮いたまま移動してるみたいだ。
僕の足は、いつ地に立てるんだろう。
水から出れば、地面踏みしめて歩いて行けるって、思ったのになあ。
*
平常運転を再開した僕は、今日も今日とて冴えない顔をウィンドウに映していた。
そんな中、車を買いに来たと言ってふらりと現れた島田美弘に、店内の誰もが驚きを隠せなかった。
しかも、僕を指名したものだから余計驚かれた。
久々に顔を合わせた美弘は、記憶よりも少しでかくなっているが、相変わらず、晴れやかに笑う奴だ。
ひとまず美弘をテーブルに通し、コーヒーを出す。
「おれ、引退するよ」
常識的に、再会の喜びを分かち合い、健闘を称えるという流れを、奴はぶった切った。
「はあ?」
営業マンらしからぬ発言だが、気にしていられない。
なんで。なんで。
だってお前は、まだ……。
「もう寿命なんだ。ピークは東京までだったんだよ」
いや……それは、年齢的にもそうかもしれないけどさ。
「ピークが過ぎたから寿命なんてわけあるか。まだまだ現役でやれるだろ?」
手のひらに敷いた資料が湿気ってくる。
「おれがそう感じたからやめる。もう国を背負えない」
「そんなもん……まだ、下の世代だって育ってな」「いま、理由を探したろ」
ネクタイを締めた首が苦しい。
「単純に、お前が、おれに辞めてほしくないと思ってる」
「そりゃ、俺ずっと応援して……子供のころからずっとだぞ」
「いや、お前が応援してくれるようになったのは、お前が辞めてからだろ」
なんだそれ。どういうことだ。
「それまでは、闘争心ギラギラで”勝てよ”なんて絶対言わなかったもん」
「あのときは……!」
「また昔の話するか?」
鋭い眼光に、思わずたじろいだ。
美弘はあのときの話をしたがらない。
突然辞めてしまった僕を、大学生の美弘は”置いてくのか”と泣いて責めた。
言葉の真意は、わからないままだ。
よくわからない感情が腹の底でぐるぐる巡って、出すべき言葉が思いつかない。
「なあ。お前が辞めたのは、おれのせいじゃない。おれはお前を責めたけど、それもやっぱりお前のせいじゃないんだ」
あの日の美弘を思い出す。
戦友を失うさみしさに、泣いているわけではないことだけが確かだった。
「なんでおれを止めるのか、わかってるつもりだよ。でもな……お前のために、おれが泳ぐのか?」
鳩尾が痛み出した。
視点が定まらない。
「おれはおれのために、お前はお前のために選択した。そうだろ」
美弘が生まれ持ったものは美弘のものでしかなくて。
僕のそれを―――形を変えて、一方的に託してた。
それを、僕は羨望って呼ぶんだ。
「おれは……泳ぐしか能がなくて、花盛りなんて一瞬だった。それでも、これしかなかった」
「は」
美弘の顔を見やると、珍しくしんみりしていた。
「お前はさ、これからなんだろ」
大学1年のとき、自分に見切りをつけて方向転換した。
行けない世界に行こうとするより、地に足つけて生きていこう。
そう決めた。逃げでもなんでもなかった。
「水泳辞めてから、急に勉強とかしだしてさ。まあ、もともと出来たけど……そんでこんな大企業に新卒で入るわ、いい車乗ってるわ……なんかつまり普通にエリートじゃん。かっけえじゃん。成功への道を歩んじゃってるわけじゃん」
「……いやおまえが言うな」
「おれは成功を”掴んだ”。お前の成功は続くだろ。しかも曲がり角あり。方向転換できる。おれはできなかった」
「それは思い込みだな」
「おまえが言うな!」
笑った。
声出して笑った。
僕たちは本物の阿呆だ。
「ああ……これでおれ、ただのおじさんになっちゃうよ」
美弘はパンフレットをぺらぺら捲って口を尖らせる。
「つうか、引退の話なんてこんなとこでしていいのか?」
「聞かれてなきゃいいだろ?」
「おまえ、ほんと適当な」
世間の予想より少し早く、ヒーローは道を譲った。
僕が長いこと憧れ続けた美弘は、2度のオリンピック優勝を経て去った。
寿命は尽きた。あいつはそう言ったけど、ヒーローを引退しただけだと、僕は思う。
僕が偶像のヒーローにさよならしたのと同時に、美弘は美弘になった。
共用のテレビから、美弘の頑なな声がきこえる。
そのうち、自分の中に飼ってたヒーローにさよならできる日がくるだろう。
そしたら、美弘も初めて自分を見てやれる。
首に馴染んだネクタイを締め直し、フロアに踏み出す。
ぱりっとアイロンがかったスーツは、力強く身を包む。
日の差すウィンドウに映った僕が、しっかりとそこに立っていた。
さよならヒーロー 夏永遊楽 @yura_hassenka
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