第38話

 今朝未明、楼主として数多くの女を目利きし、花魁に育てあげてきた父虎吉が亡くなった。享年65歳。今年に入ってからは特に健康状態が悪く、ずっと覚悟はしていたものの、死はあまりにも呆気なく唐突に訪れ、源一郎は悪い夢でも見ているような感覚に囚われる。


「まったく、何も花里の水揚げの日に死ななくてもいいのに、縁起が悪いったら」


 長年連れ添った夫が亡くなったというのに、いい迷惑だとでも言いたげなお吉の言葉に、源一郎は不快感を覚えた。随分年齢の離れた夫婦だったが、今や夫の老衰をいいことに、若い男とのまぐあいに溺れている母親も、かつては父を好いていた時があったのだろうか?

 母への嫌悪を頭から無理矢理追いやり、源一郎はお吉に提言する。

 

「なあ、親父が亡くなった日に花里の水揚げはやめた方がよくねえか?」

「はあ?今更何言ってんだい!楼主だなんだって言ったってね、私らは所詮非人なんだ。坊さんに来てもらって葬儀するわけでもないんだからそんな必要全くないだろう!

それより、今日からあんたがこの見世の正式な楼主だよ。私はね、あんたが産まれた時から、ずっとこの日を夢みてきたんだよ」

「…ああ」

「ああって、なんだいその腑抜けたざまは、あんたはね、吉原でも3本の指に入る大見世玉楼の楼主になったんだ!しっかり自覚してもらわなきゃ困るんだよ!」


 源一郎の返事に機嫌を損ね、お吉は源一郎を責めたててくる。


「わかってるよ、ただ少し、自分に本当にできるのか不安なだけだ」


 だが、ずっと抱えていた本音を思わず口にすると、お吉はすぐに表情を和らげた。


「なんだ、そんなこと思ってたのかい?大丈夫、あんたには私がついてるからね、私の言うことを素直にちゃんと聞いてればなんの心配もいらないよ」


 その言葉の裏側に、息子も見世も自分の意のままにしたい願望をはっきりと感じとり、源一郎は密かに憂鬱になる。父の体調が悪くなってから、後継息子として楼主の仕事にも度々携わってきた源一郎だったが、今のところ、源一郎の意見は何一つとして聞き入れられてはいない。不吉な予感に突き動かされるように、源一郎は再びお吉に食い下がる。


「なあ、やっぱり花里の水揚げは親父が死んだ今日じゃなくて少し先に延ばしてもらわないか?」

「まだ言うのかい?しつこいね!いったい何をそこまでこだわってるんだか知らいが、ここにいりゃどっちみち色んな男と寝ることになるんだ!いつ水揚げしたって同じだろ!」

「それはちがう!お凛はただの遊女じゃない、これから花魁になって長く働いてもらわなきゃいけない特別な女だ。最初でつまづいちまったら、お金を全てドブに捨てたのと同じことになる。今はおとなしくしているが、お凛が元来激しい性格だっていうのはお袋も知ってるだろう?千歳屋様の説得は俺がするから…」

「失礼致します」


 と、話しの腰を折るように、襖の向こうから声が聞こえ、お吉はすぐに、声の主である中郎達を部屋に招き入れる。


「ああ待ってたよ、この暑い時期に死人を長く置いとくのは良くないからね、寺には前々から話はつけてあるから、早いとこ連れてっておくれ」


 仕方なく黙って見守っていると、お吉は背中を向けたまま言い放った。


「もうこの話はおしまいだ。これ以上また何か言ってきたら、あんたにはここから出てってもらうよ」


 有無を言わせぬお吉の言葉に肩を落とし、源一郎は手を合わせ、中郎達に運ばれていく父の姿を茫然と見つめる。

 あの日も、同じ光景を目にした。いや、花魁でも楼主でもない遊女だった小春の死体は、今日よりずっと乱暴に扱われていた。源一郎にとって、決して忘れることのできない、投げ込み寺に運ぶため裸にされて薦に巻かれる、小春の無残な姿。


『全く、とんだ金食い虫を掴んじまったよ』


 源一郎の横で吐き捨てられたお吉の冷たい声を、今でもはっきりと覚えている。まだ10代だった源一郎は、お吉の心ない言葉に怒り傷つき、その日、母と吉原への侮蔑を持って家を出た。だが、幼い頃から廓で育った源一郎に、堅気として生きる術などあるはずもない。


 悪友の世話になりながらその日暮らしをしていた源一郎が、何年もしないうちにおめおめと帰ってきた時、虎吉は怒りもあらわに追い出そうとしたが、お吉は父を宥め、源一郎を温かく迎えいれてくれた。そんな母に、源一郎は今も、心から感謝している。


 しかしだからといって、自分は一生母に逆らえず、頭もあがらず、名ばかりの楼主として操り人形のように生きていかなくてはいけないのか?ならば自分は、一体なんのためにここに存在するのか?



 

 絶望的な虚無感におそわれ立ち尽くした今朝の自分と、今目の前にいるお凛の姿を重ねながら、源一郎は、これから水揚げをむかえるお凛に楼主として声をかける。


「もう覚悟はできたみたいだな」

「泣いても喚いても、ここから逃げられないことはわかってますから」


 奴島田に髪を結い、美しく着飾った姿と相反する陰鬱な表情を浮かべるお凛は、源一郎を真っ直ぐ見つめ気丈に応えたが、その声はあきらかに震えていた。


 夜見世が始まるとともに、お凛は千歳屋の待つ座敷へ向かう。先日、源一郎が床入れの作法や性技を伝えた際、お凛の身体は固く緊張し、男とまぐわうには明らかに下腹部の濡れも足りず、この状態ではかなりの苦痛を伴うだろう。


(本当に大丈夫だろうか…)


 無言のまま不安をつのらせる源一郎に、お凛がポツリと呟く。


「処刑場に連れて行かれる罪人も、こんな気持ちなのかな」

「…!馬鹿なこと言ってんじゃねえよ、お前が千歳屋を死ぬほど嫌ってるのは知ってるが、水揚げと突き出しさえおわっちまえばどうってことねえ。これから玉楼の花魁になるお前は、他の遊女とは格も待遇も違うんだ。好いた男に身請けされた佳乃のようにだってなれるかもしれない」

「私は佳乃姐さんみたいに身請けされたかったわけじゃない、ただあの人に絵を習えるだけでよかったんだ」

「…」


 重苦しい空気の中、見世開きを告げる清搔の音が聞こえ、お凛が顔を強張らせた。


「花里、千歳屋様がお待ちかねだよ」

「…はい」


 お吉の猫撫で声とともに襖が開き、お凛はゆっくりと立ちあがる。


「花里、今日であんたもついに一人前だよ。

引っ込み禿の頃から千歳屋様はあんたに夢中なんだから、絶対に楚々のないように、たっぷりと可愛がってもらうんだよ」

「…」


 お凛はお吉の言葉に返事をせず、ただ小さく頷くと、源一郎を振り返ることなく千歳屋の待つ部屋へと向かっていった。お凛の後ろ姿を見送る源一郎の脳裏に、なぜか、最後に見た小春の儚い笑顔と声が鮮明に蘇る。


『源ちゃんは優しいね』


 あの日の自分に戻っていくよう息苦しさを覚えた源一郎は、自らの着物の懐を強く握りしめ項垂れた。

 











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