第37話

(もう時間がない、はやく!はやくしないと…)


 源一郎と話し終え、襖を閉めて廊下へ出た途端、お凛は周りに注意を払いながら足早に開かずの間へ向かう。いつ行動を起こすか、ずっと機会を伺っていたがもう迷っている猶予はない。お凛は今すぐ、あの短刀で命を断つと決めたのだ。


 幸い誰にも会うことなく開かずの間にたどり着いたお凛は、急いで中へ入りこむと、引戸に耳を当て、外から誰の足音も聞こえてこないことを確認する。全速力で走ったわけでもないのに心臓は早まり、呼吸は自然と荒くなっていく。 

 がその時…


「お凛ちゃん?」


 昼間でも薄暗い開かずの間の奥から声が聞こえ、ギクリと肩を震わせ振り向いた先に、梅の姿があった。


「どうしたの?そんなに慌てて?」


 不審な表情で尋ねてくる梅に、お凛はどう答えたらいいのか一瞬迷う。ここに隠している短刀で死ににきたなどと話せるわけもなく、すっかり気勢をそがれたお凛は苦笑いを浮かべ応えた。


「ごめん、少しの間一人になりたくてここに来たんだけど、ここは梅ちゃんの場所だものね。私邪魔だから出てくね」


 梅に自分の計画や短刀の存在が悟られるのを怖れたお凛は、それだけ言うと、即座に部屋から出ていこうとする。


「待ってお凛ちゃん!」


 だが梅は大声でお凛を呼びとめ、お凛の手首を強く掴んできた。梅の珍しい行動に驚き、お凛は呆然と梅を見つめる。 

 こんな風に梅に触れられたのは一体いつぶりだろう?不思議と懐かしく、幾分穏やかな気持ちになったお凛が、次に続く梅の言葉を待っていると、梅は今にも消え入りそうな小さな声で尋ねてきた。


「あのさ、もしかしてお凛ちゃんも、海のこと待ってるの?」

「え?」

「だってお凛ちゃん、ここにすごく慌てて入ってきたから、もしかして海は、私とは約束してくれなかったけど、お凛ちゃんとは会う約束してたのかもしれないって思ったの。海だって、お凛ちゃんに会ったら、きっと私なんかより、お凛ちゃんのこと好きになると思うから…」


 最初は意味がわからなかったが、ようやく合点がいった。梅は、あの男と逢引するためにお凛がここへ来たと本気で勘違いしているのだ。お凛は、今にも泣きだしそうな梅の手に自分の手を重ね、宥めるように優しく語りかける。


「梅ちゃん、なんでそんなこと思ったのかわからないけど、私はその人と会う約束なんてしてないよ、だから心配しないで」


 言ってることは嘘ではない。しかし心の中は罪悪感でいっぱいだった。あの日、もう二度とくるなと梅の想い人を追い払ってしまったのは紛れもなく自分。会いたい人に会えないことがどれだけ辛いか、今のお凛は身をもって知っている。


「ごめんね梅ちゃん、本当にごめん…」

「海と約束してないのなら、なんでそんなふうに謝るの?」


 謝罪するお凛を見つめ、梅は涙目のまま疑わしげに問い詰めてくる。もし、お凛があの男を追い出したのだと知ったら、梅はきっと自分を心の底から恨むだろう。今日実行できなくても、千歳屋の突き出しまでにこの世を去ると決めているお凛は、梅に憎まれて死ぬのは絶対に嫌だと思った。


「ごめん梅ちゃん、でも信じて、私は本当にその人のこと知らないんだよ」


 例え白々しい嘘であったとしても、今のお凛に、真実を話す勇気などない。


「でもね、源兄ちゃんが、私に間夫ができたんじゃないかって疑ってきた時、お凛ちゃんのことも言ってたんだ。詳しくは教えてくれなかったけど、今日も海に会いたくてここに来たら、お凛ちゃんが慌てて入ってきたから、もしかしてお凛ちゃんも私と同じ人を…」

「梅ちゃん信じて、私が会いたいのは、梅ちゃんが想ってる人じゃない」

「え?」


 お凛の言葉に、梅は敏感に反応する。


「やっぱりお凛ちゃんにも、会いたい人がいるの?」


 お凛は躊躇った。自分は梅のように、毅尚と肌を合わせたわけではない。ただ、毅尚に絵を教わっていたあの時間、お凛は久しぶりに心から笑う事ができた。だからせめて、もう一度だけでも会いたくて…


「正直私は、自分の気持ちが、梅ちゃんと同じものなのかわからない。でも、その人といた時間がとても楽しかったの…もう二度と会えないんだと思ったら、凄く辛くて、苦しくて…」


 話しながら、自然と涙ぐんでいくお凛の手を、今度は梅が両手で包みこみ言った。


「同じだよ、お凛ちゃんの気持ちと、私が海を想う気持ちは、きっと同じ…」


 その瞬間、お凛の瞳から、堪えていた涙がポロリと流れ落ちる。 

 ずっと一人で抱えてきた、大切な人を失っていく悲しみ、花魁になることへの重圧。大嫌いな千歳屋に執着され、あと数日で身体を開かなくてはならない恐怖。張り詰めていた糸がプツリと切れ、溢れる感情と涙を、自分でも止めることができなくなる。


 お凛は堪らず梅に抱きつくと、小さな子どものように、梅の胸に顔を埋め泣きじゃくった。梅はそんなお凛の背中を優しく撫で、幼い子をあやす母のように、その頼りなく薄い胸で、お凛の涙を受け止め続けてくれた。






「そっか、お凛ちゃんの好いてる人にはもう、奥さんがいるんだね」


 好きなだけ泣いてようやく心が落ち着いてきたお凛は、毅尚とのことを梅に伝える。


「うん、でもそんなこと最初からわかっていたことだし、私はただ、少しでも一緒に絵を描いたり、話したりできれば充分だったんだ」

「お凛ちゃんはやっぱり優しいね」

「え?」

「私はきっと、それだけじゃ我慢できない」


 梅の声が突然仄暗い響きにかわり、お凛は驚き梅を見やる。


「お凛ちゃん覚えてる?新造出しの前、千歳屋にお礼の挨拶行った時、あいつ思い切り私のことお凛ちゃんと比べて馬鹿にしてきたでしょ。私、すごく悲しくて、悔しくて、情けなくて、自分なんてこの世から消えてしまいたいとまで思っちゃって…」


 あの日のことは、忘れられるはずがない。胡蝶が光楽と共にいなくなり、梅が初めて、開かずの間から戻ってこなかった日。


「 でもね、そんな私のこと海は可愛いって、おまえは可愛いよって何度も言ってくれたんだ。海は男の人だけど、すごく綺麗な顔をしていて、優しくて…私、そんな人に可愛いなんて言われたの初めてだったから嬉しくて… 」


 好いた男の姿を思い浮かべているのだろう。愛おしさと切なさに満ちた艶やかな笑みを溢す梅の横顔を、お凛は素直に綺麗だと思った。だが、お凛に目を向けた梅の顔は、いつの間にか苦しげに歪んでいる。


「胡蝶姉さんが居なくなった日、お凛ちゃん私のこと心配して探しに来てくれたよね。だけど私、お凛ちゃんを海に会わせたくなくて、誰にも海を見てほしくなくて、嘘をついて追い払ったの。今日だって、お凛ちゃんも海に会ってたんじゃないかと思ったら辛くて、悔しくて、聞かずにはいられなくて…」


 自らの身体を抱きしめ俯く梅の背中に、お凛はそっと手を置く。


「私、自分がこんなにも嫉妬深くて欲深いなんて知らなかった。私はお凛ちゃんみたいに、海に奥さんがいてもいいなんて思えない。私に何度も会いに来て、私だけを見て欲しい。もしこのまま海に一生会えなくなってしまったらって想像するだけで、自分がどうにかなってしまいそうで、怖くてたまらなくなるの…」

「…」


 小さく震える梅の身体を優しく撫でているうちに、梅の苦しみと自分の苦悩が混濁していき、お凛はふと、自らが短刀を隠した古びた箪笥を見やる。


「ねえ、梅ちゃん…いっそのこと、ここで一緒に死んでしまわない?」


 口をついて出てきたお凛の言葉に、梅は驚愕したように顔を上げた。


「だって私達、どんなに足掻いてもここから出ていくことはできないじゃない。千歳屋や、会ったこともない見ず知らずの男に身体を売って生きてくしかない。だったら…」  


 しかし梅は、はっきりと首を横に振る。


「私は嫌、だって死んじゃったら、本当に海に会えなくなっちゃうもん」

「でも生きてたって、ここにいたら好いた人に会いに行くことすらできないじゃない!」 


 思わず声を荒げるお凛に、梅は迷いない真っ直ぐな瞳を向けて言った。


「お凛ちゃん、私ね、馬鹿だと思われるかもしれないけど信じてるの、頑張って生きていれば、絶対にまた海に会えるって」 


 お凛は息を飲み梅を見つめる。幼い頃と今が繋がるように心が痺れ、いつかの記憶が鮮明に蘇る。あれは源一郎に、おまえらは親に捨てられたのだと告げられた日


『父ちゃんと母ちゃんは嘘つきなんかじゃない!捨てられてなんていない!絶対に迎えに行くって言ってくれた!約束してくれた!』


 あの時と同じ曇りない眼差しで、梅は言葉を続ける。


「だからお凛ちゃんも、その人にまた会えること諦めないで。私は海となんの約束もしてないけど、お凛ちゃんはもう一度お凛ちゃんの絵を描いてくれるって、ちゃんと約束したんだから!きっとその人はまた、お凛ちゃんに会いに来てくれるよ!」    


 そうだ、梅は昔から、自分よりもずっと強かった。裏切られる怖さなど恐れずに、人を信じることができる人。

 梅の熱のこもった声を聞いているうちに、お凛の胸に、えもいわれぬ感情が込み上げてくる。


(生きていれば本当に、毅尚さんに会えるだろうか?) 

『今度は花里さんが気に入ってくれた僕の絵で、花里さんを描きますよ』


 あの日毅尚が自分にしてくれた約束。指切りをした時、お凛はあまりの嬉しさに、天にも昇るような気持ちになった。胸が高鳴り、心の底から湧き上がる喜びを身体全部で感じていた。


「梅ちゃん私、やっぱりもう一度毅尚さんに会いたい。私の絵、描いて欲しい…」

「会えるよ!だってお凛ちゃんはちゃんと指切って約束したんだもの、きっとまた、どんなに遅くなったとしても会いにきて、お凛ちゃんの絵描いてくれる!」


 力強く断言する梅の言葉は、真っ黒な暗闇に支配されていたお凛の心に、小さな火を灯す。 

 本当は信じて、約束が守られることなく絶望するのは怖い。だけど、梅と一緒なら、昔のように、時々こんな風に、梅と心を通わせることができるなら、これから先何が起ころうと、耐えられるような気がした。


「ありがとう梅ちゃん、私、信じてみるよ」


 嬉しそうに頷く梅の笑顔に、お凛の心はフワリと弾む。互いに笑いあい、引き寄せ合うように自然と繋いだ掌は、幼い頃と変わらず温かかった。


 


 


 


 


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