第36話

「早める?」


 お吉の言葉に納得いかず、源一郎は思わず大声をあげ聞き返す。花魁紫に続く売り上げを誇っていた胡蝶が心中していなくなったことは、玉楼に大打撃を与えていた。源一郎自身、今の玉楼が大見世として窮地に立たされている事は十分に理解している。


 だからこそ、留袖新造だけでなく、振袖新造として育ててきた梅とお凛の突き出しも17まで待たず、お凛は9月9日重陽の節句の日、梅の突き出しは早速日にちを決め張見世突き出しを行うという事で話が進んでいたはずだ。しかしお吉は梅ではなく、お凛の水揚げと突き出しを、今日から十日後の満の日にすると言ってきたのだ。


「なぜ梅じゃなくて、お凛の突き出しをそんなに早めるんだよ!」

「そんなの千歳屋様が望んでるからに決まってるだろう?」

「は?」


 その解答に、源一郎はついお吉を睨み、柄の悪い声をだした。


「なんだいその顔は?あんただって、あの胡蝶のおかげで玉楼が今どんな状況かわかってるだろ?千歳屋様は今や玉楼にとって一番金払いのいい上客だよ」

「それはわかってる!だがいくらなんでも急すぎる。お凛は花魁にするべく育ててきた新造だ、もう少し心の準備をさせてやった方がいい。それに、千歳屋様は金払いはいいが遊び方が粋じゃない、胡蝶を殴ったこともあるし、なんでもかんでも言うこと聞くのは…」

「はあ?何甘い事言ってるんだい!あんなもん胡蝶が悪かったに決まってるだろう!大体もとはといえばあんたが心酔してる高野屋の隠居爺さんが胡蝶を調子に乗せたからこんなことになったんだよ!私は最初から、また胡蝶をうちに戻すのは反対だったんだ!」

「いやでもあの時は、高野屋様と胡蝶のおかげでうちも随分助けられたじゃねえか」


 吉原では時折、遊女が他の見世に移る住み替えが行われる。問題を起こした遊女を、罰として環境の悪い見世に追いやる懲罰の意味もあれば、大見世の経営が危うくなった時、売り上げの良くない遊女を大見世にいたという箔が欲しい他の見世に売ることもあり、大体格下の見世に住み替えになることが多い。


 だが胡蝶は違った。最初は他の遊女達と同じく、玉楼の若い衆と駆け落ちした罰として切見世に住み替えになったのだが、それから程なくして、高野屋の息がかかった中見世、松葉屋に買い取られたのだ。 

 松葉屋は中見世の中でも、あらゆる権力者や金持ちがお忍びでくる名店だ。その中見世で再び人気を取り戻した胡蝶は、夕霧が身請けされた後、佳乃、紫が水揚げされるまでの僅かな期間、経営が芳しくなくなった玉楼へ、破格の金額で舞い戻ることになった。その上、松葉屋からの客まで一緒に連れてきてくれたのだから、あの時期胡蝶によって玉楼にもたらされた恩恵は計り知れない。


 それもこれも全て、当時虎吉と親しかった高野屋による計らいだったのだが、思えば夕霧が身請けされた時、見世の売り上げが一気に下がったにもかかわらず、どんなにお吉に急かされても、虎吉は紫と佳乃の水揚げを決して早めようとはしなかった。


『急いては事を仕損じる。花魁は花と一緒だ。客を焦らしじっくり丁寧に育てた方が、花開いた時長く見世に貢献してくれる』


 父虎吉のかつての言葉を思いだし、源一郎は再び強く反対する。


「とにかく俺は反対だ。親父もよく言ってたじゃないか、花魁になる遊女ってのは他の遊女と格が違う。これから花魁になるお凛の突き出しを、千歳屋が望んでるからってホイホイ言うこと聞いて早めるなんて玉楼の名が廃る」

「だったらあんたが胡蝶の分まで稼いでくれるってのかい!」


 源一郎の言葉に被せるような勢いで、お吉は怒りもあらわにまくし立てる。


「この玉楼が大見世として成り立つためにどれだけの金がかかってるのかあんたわかってるのかい!胡蝶があんな恥知らずな死に方をしたせいで、うちの評判はガタ落ちなんだよ!そんな中千歳屋様は、お凛と梅の新造出しに加えて、玉楼のために心づけまでくださったんだよ!

そんな生意気な口はね、千歳屋様みたいにポンと金だすか、楼主のように花魁になって稼げる女を一人でも目利きできるようになってから言いな!大体ね、一度はこの玉楼から逃げ出そうとしたあんたに偉そうなこと言われたくないんだよ!誰のおかげであんたがまたここにいれると思ってんだい!」


 怒鳴りだしたら箍が外れたのか、お吉の悪態と剣幕はどこまでもとどまることがない。しかも、源一郎が過去に一度家出したことまで持ちだされ、何も言えなくなってしまう。


 源一郎は助けを乞うように父虎吉を見やったが、そこには、かつて花魁を何人も目利きし育てあげた名うての楼主の姿はなく、昼間でも敷きっぱなしにしている布団に身体を横たえ、弱々しく寝息を立てて眠る老人しかいなかった。源一郎は、諦めるように深いため息をつく。


「わかったよ…」


 そう言った途端、お吉はコロリと表情を変え、源一郎の頭をまるで幼い子どもにでもするように撫で回す。


「わかってくれたならいいんだよ。私もつい言い過ぎてしまって悪かったね。突き出しの準備は前々から進めてたからあんたは何も心配しなくて大丈夫。

ただ、見てのとおり楼主はあんな状態だからね、跡取り息子のあんたが花里にこのことを伝えておくれ。それから、初めての床入れでは、くれぐれも千歳屋様に粗相がないように、しっかり指南してやるんだよ」

「…」


 源一郎は返事をする代わりに小さく頷くと、悶々とした気持ちを抱えたまま、お吉の部屋を後にした。






「早める…」

「ああ、色々事情があってな、あまりにも急でおまえも心の準備が難しいかもしれないが…」

「わかりました」


 源一郎の言葉に顔色一つ変えず、落ち着き払った様子で返事をするお凛を、源一郎はまじまじと見つめる。


「なんですか?」

「いや、おまえも随分物分かりがよくなったもんだと思ってな」

「新造になったんだから、これからはもっとちゃんとしろと言ったのはあなた達じゃないですか」

「そりゃ確かにそうだが…」

「用件がそれだけなら、もう行っていいですか?夜見世が始まるまでの間少しだけ休みたいので」


 妙な胸騒ぎを覚え、源一郎は立ち上がり去ろうとするお凛の腕を強く掴む。


「お凛、前にも言ったかもしれないが、妙な気起こすんじゃねえぞ」


 源一郎の言葉に、お凛の瞳が少し揺れたように見えたが、すぐに目は伏せられ、お凛は小さく首を振った。


「源にいちゃん、私前にも行ったよね、そんなバカなことはしないよって。千歳屋の旦那は大っ嫌いだけど、とっとと金持ちの上客捕まえて、こっから出て行けばいいだけのことだし」


 いつもの口調に戻ったお凛に心持ちホッとしたが、それでも疑いを晴らせずにいる源一郎を見やり、お凛は静かに言った。


「源兄ちゃん腕痛い。もう行っていいでしょ」

「…ああ」


 源一郎は、無意識にお凛の腕を握りしめていた掌を離し、立ち去る背中を見送った。

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