第39話

「いいかい、あんたはね、玉楼どころか、吉原一だった夕霧や佳乃と並び立つ花魁になる特別な新造なんだ。だからこそ水揚げも、あんたと紫を描いてもらったあの四季の間でできるんだよ。千歳屋様に気に入られたあんたは本当に幸せ者だよ!」

「…」


 上機嫌で話し続けるお吉の言葉に不快感を覚えながら、お凛は、このまま大火事でも起きて水揚げなどできなくなればいいと願う。しかし当然、そんな事態は訪れず、お凛はあっという間に四季の間に辿り着いてしまった。 

 分かっていたこととはいえ、毅尚に絵を習ったこの部屋で千歳屋と寝るなどお凛にとって拷問でしかなく、全ての思い出が汚されていくようで暗澹とする。


「千歳屋様、お待たせ致しました」


 中では留袖新造の環が名代を務めていたが、お凛を見るや、千歳屋はぞんざいに環を追いはらい、酒に酔った赤ら顔で嬉しそうに手招きをしてきた。


「花里、待ち望んでいたぞ」


 思わず立ち竦む背中をお吉に押され、お凛は、断崖絶壁から飛び降りるような心持ちで部屋に入る。


「わっちの水揚げ引き受けてくれてありがとうございんす」


 源一郎に教えられた通り、三つ指をついて心にもないお礼を口にした途端、涙が溢れそうになった。


「礼はいいから、早くこっちへ来い」


 千歳屋の呼びかけに、返事をすることも、顔をあげることもできずにいるお凛の尻を、お吉が小突くように叩いてくる。緩慢な動きで身体をお越し、諦めるように千歳屋の側に腰を下ろすと、千歳屋は気色の悪い目でお凛を見つめ、肩を抱き寄せながら言った。


「緊張しているのか?」


 生理的な悪寒と身震いを意志の力でどうにか抑え、お凛は毅然とした表情で首を横にふる。ただの意地だが、この鳥肌が立つほど大嫌いな男に、自分が怖がっていると思われたくなかったのだ。


「千歳屋様、どうか花里のことよろしく頼みます」

「ああ、任せておいてくれ、楼主が亡くなり、お前も今朝から辛かったろう。ご苦労だったな」

「優しいお言葉痛み入ります。楼主も今日の花里の水揚げ、千歳屋様ならと安心して旅立ったんでしょう」


 千歳屋は満足気に頷き、もういいからおまえは下がれと言い放つ。お吉は満面の笑みで微笑み、部屋から出て行ってしまった。 

 お吉がいなくなったことを、こんなにも心細く思ったことはない。千歳屋と二人きりになってしまった緊張と恐怖で、お凛は身体の震えを抑えることができなくなる。


「花里、わたしはお前が禿の頃から、ずっとこの日を夢見てきたんだ。ほら、こっちへおいで」


 源一郎には、暫く酒を飲み話の相手をしてから床入れになると聞いていたが、千歳屋は、即座にお凛の手を引き、自らが送った真新しい寝具の側へ連れて行く。


「ここで見ていてやるから、早く準備をしなさい」


 千歳屋の悪趣味に、嫌悪感で吐きそうになりながらも、お凛は淡々と、きつく絞められた帯をほどき、着ていた着物を衣紋掛けに掛けた。


(この後また三つ指をつき礼を述べ、楚々とした仕草で布団に入る)


 だが、心を殺し、次にすることを作業のように自分に言い聞かせ振り向こうとしたその時、千歳屋は突然、襦袢姿になったお凛の手を乱暴に掴み、布団の上に押し倒してきた。酒臭い息を吐きながら、頑なに閉じた唇をこじ開けるように接吻され、こみ上げてくる吐き気に目眩がする。


(気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い)


 このまま気を失えたらどんなに楽だろうと思ったが、生々しい感触に意識ははっきりとしたまま、絶望感が心に広がっていく。千歳屋の手が荒々しくお凛の胸を揉みしだき、太腿の狭間に入り込んだ。


「お凛、これからたっぷりかわいがってやるぞ」


 お凛の苦しみなど一切気にもとめぬ千歳屋は、ねっとりとした視線でお凛を見つめ、自らの下帯をゆるめた。そこから覗く起立した千歳屋のまらは、ぬめりをおびて赤黒く、昔佳乃の部屋で見た男女のまぐわいをまざまざと思い出させる。


「嫌!!」


 瞬間、お凛は自分に再び覆い被さろうとする千歳屋を力いっぱい蹴飛ばす。その足は、この期に及んでまさか抵抗してくるなどと思っていなかったまらを直撃し、千歳屋はその場に屈み込んだ。


「…ッ花里!」


 痛みと怒りをはらんだ千歳屋の声と腕を振り払い、お凛は迷わず開かずの間に向かって走りだす。


『会えるよ!だってお凛ちゃんはちゃんと指切って約束したんだもの、きっとまた、どんなに遅くなったとしても会いにきて、お凛ちゃんの絵描いてくれる!』


 不意に浮かんだ、あの日お凛の命を留めた梅の言葉も、今はただ、虚しく脳裏を掠めるだけだった。

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