第20話

「梅!なんだいその腑抜けな様は!同じ引込みでも、あんたとお凛じゃ立場が全然違うんだ!まともに踊れもしないんじゃあんたなんてただの役立たずだよ!」

「…はい」


 お吉の梅に対する罵詈雑言に、お凛は顔を歪める。昔からいつもそうだ。お吉がお凛を引き合いに出し梅を貶すたびに、梅はいつも悔しさと諦めが入り混じったような表情を浮かべていた。子どもの頃は梅を庇おうと、声を上げ反発していたが、いつしかそれすら梅を傷つけることに気づいたお凛は、ただ唇を噛みしめ黙ることしかできなくなった。


 だがここ最近の梅は、いつもと全く様子違う。お吉にどんなに貶されても、その顔には何の表情も浮かんでいない。体は確かにここにあるのに、心はどこか遠くへ行ってしまっているようだった。




「梅ちゃん!」

「なーに?」


 稽古が終わったあと、お凛は梅を呼び止める。振り向いた梅はかろうじて笑顔を浮かべているが、瞳は空虚で光がない。そして、そこまで梅が沈んでいる原因をお凛は知っている。


「大丈夫?」

「ありがとう、でも、私が踊れてないのが悪いから」


 お吉に怒られたことを慰めにきたとでも思ったのだろう。梅は心ここにあらずのままお凛に礼を言い、そそくさと開かずの間の方へ歩いていってしまった。毎日のように、少しでも時間があるとあの部屋へ出向き、すべての悲しみを背負った表情で戻ってくる梅を見ていると、どうしようもないほどの罪悪感がこみ上げてくる。 


 あの日お凛は、梅を鬼から救ったつもりになっていたが、果たして本当にそうだったのだろうか?例えあの男が梅を本気で好いていないのだとしても、梅があの男を必要としているのなら、追い出すべきではなかったのかもしれない。自分は、一人ぼっちになりたくないという身勝手な理由で、梅の希望を奪ってしまっただけなのかもしれない。


「お凛、これからおまえに紹介したい人がいるからついておいで」


 と、梅の後姿を見送っていたお凛の思考が、お吉の声に断ち切られる。


「紹介したい人?」

「そうさ、今日は紫花魁の一番の上客、蔦屋様が来ているんだが、これがまた男前で財力もあってねえ」

「はあ…」

「はあっておまえは!いいかい?これからうちはあんたと紫の二枚看板でいこうと思ってるんだから、もっとシャンとしてもらわないと困るんだよ!」

「…はい」


 苛立ちをあらわにするお吉に、お凛が形だけは素直に返事をすると、お吉はまあいいと続きを話だす。


「新造だしが終わったら、蔦屋様には紫の名代で時々おまえについてもらうこともあるだろう。その挨拶はもちろんだが、もう一つ大事な用事があるんだ。蔦谷様は吉原遊郭の案内書や遊女の評判記も版元として出していてね、実は、蔦屋様お抱えの絵師に、あんたと紫の絵を描いてもえることになったんだよ」

「絵?」


 絵と聞いて、お凛は少しだけ心が跳ねる。村にいた頃、お凛は畦道に、木の枝や石ころで落書きする遊びが好きだった。玉楼で引っ込み禿として、書道や徘徊を習うようになってからは、墨と紙を使えるのをいいことに、いつも鳥など余計な絵を書き師匠に怒られていたくらいだ。


「でも言っとくけどね、おまえは描いてもらってる間、絵師なんかと余計な話するんじゃないよ。全く、あの光楽には酷い目にあわされたよ。蔦屋様のおかげで売れてただけだってのに、たかが一介の絵師が調子にのって、あいつはろくなもんじゃなかった」


 だが、続いたお吉の言葉で、お凛の一瞬浮き足だった心がまたすぐに沈んでいく。 

 胡蝶の足抜けから数日後、江戸から数里ほど離れた川べりで、胡蝶と光楽の遺体が発見された。見つかった時には、もうすでに二人の息はなく、寄り添うように死んでいたという。


 胡蝶の悲報を聞き泣き崩れるお凛に、佐知は泣くなと言った。胡蝶にとっては、捕まって連れ戻されるよりも、好きな男と死ねることのほうが幸せだったのだからと。お凛にはわからない。遊女は好きな男と、共に生きていく幸せを望むことすらできないというのだろうか。お凛がそう聞くと、佐知はさあと言って笑った。


『年季が明けるまで身を粉にして働いて、年増でもいいって男がいてくれりゃあそれにこしたことはないが、それじゃダメなのかい?』

『年季明けってどれくらいなんですか?』

『あんたにゃたっぷり金かけてるからね、あと10年近くはかかるだろう』

『10年…』


 思わず遠い目をするお凛に、佐知は悪戯に追い討ちをかける。


『まあ佳乃花魁みたいに、一心に好いた男が自分を身請けできるくらい甲斐性があるならいいが、そうは中々いかないからね。どうしても早くここから出ていきたいんなら、本気で好いてなくても、金のある男にとっとと気に入られて身請けしてもらうか、金はなくとも一番好いた男と足抜けして心中でもするか、それか…』『それか?』

『甘い夢はとっとと捨てて、ここで生きてく覚悟を決めるか…』



「お凛、何またボーっとしてるんだい!」「え?」


 お吉のつんざくような声が、佐知との会話を思い出していたお凛を、今いる現実に引き戻す。


「何度も言うが、あんたはこれから紫と一緒に玉楼を背負ってくんだから!本当にしゃんとしておくれ!いいかい、蔦屋様にはそそのないように、上品に振舞うこと!

それから、あんたを描く絵師とは必要以上に話さないこと!今回は妻子もちの男らしいが、絵描きなんてのはスケベな女好きばかりだからね。花魁に自力で会える稼ぎもないくせに、絵が描けるってだけで高慢なのが多いんだからたちが悪い。元来あんたが相手にしてやる値打ちもない身分のものなんだから、話しかけられても軽くあしらってやりな!わかったね!」


 心から憎憎しげに話すお吉の声を聞きながら、お凛は一人心をめぐらす。確かに、胡蝶をあの世に連れて行った光楽を、お凛も恨めしく思っているが、お吉の絵師に対する言葉は納得できない。稼ぎがどうだろうと、自分の腕を生業にしている絵師は、お凛にとって十分尊敬に値する。

 しかし、そんなことを言って怒りを自分にぶつけられるのは面倒なので、お凛はただ黙ってお吉の言葉に頷いた。


 幼い頃は、不自由な中でも、自分に正直に生きてきたお凛であったが、いつしか納得できなくても、その場しのぎで頷けるようになってしまった。言いたい言葉を飲み込むくらい、今更もうどうってことはない。

 これから先お凛が我慢しなくてはならないことは、もっとずっと辛く、血反吐がでるほど屈辱的なものだろう。


(千歳屋と寝るくらいなら、自分も、好きな男と死んだほうが幸せなのかもしれない)


 理解できなかったはずなのに、お凛はふと、もうこの世にいない胡蝶を羨ましく思っていることに気づく。だが、本気で男を好きになったことすらないお凛が、まだ見ぬ男と死を望むなど、雲を掴むような夢想でしかなく、一瞬でも羨んだ自分に苦笑いを浮かべる。


(自分は死などは望まない。ただ、ここではないどこかへ…)

「逃げたい」


 叶わぬ願いを小さく呟き、お凛は緩慢な足取りで、お吉のあとに続いた

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