第21話

 なぜだろう?心から夢見ていた、喉から手が出るほど欲しかったものが確かに今手の中にあるのに、心底喜ぶことができない。幸せを感じられない。 

 違う、違うのだ。自分はこんな方法で、それを手に入れたかったわけじゃない。


「おまえ、何をそんなにいつまでも固まってるんだ?せっかく吉原に連れてきてやったというのに。ほら、遠慮せずに飲め、今日は全部わたしのおごりだ」

「あ、はい、ありがとうございます」


 蔦屋に勧められるまま酒を受け取り口に運ぶも、極度の緊張のため味が全くわからない。そのせいか、喉ではないところに酒が入り思わず咳き込むと、蔦屋はさもおかしくてたまらないというように大笑いをし、蔦屋を囲む女達もクスクスと笑い出す。


「こいつは何しろ遊び方ってもんを知らないんだ。お前達も俺にばかりついてないで、こいつに手ほどきしてやってくれ」


 すると、蔦屋の隣に座っていた色っぽい女が、徳利を持って毅尚を誘うように囁く。


「どうか緊張しないで、楽しく飲んでいってくださいな」

「あ、はい」


 遠慮がちに頷き、お猪口に酒を注いでもらっていると、女が突然感嘆の声をあげた。


「まあ、毅尚様は綺麗な手をしていますね」

「いえ、そんな」

「こいつは手だけは綺麗なんだよ、何しろこの手で沢山の女を泣かせてきたからな」

「えー!!」


 蔦屋の冗談に、誰よりも驚きの声をあげる毅尚に、またもや一斉に笑いが起こる。


「蔦屋様、あんまりからかっちゃかわいそうよ」

「いやいや、でもこいつの絵の腕は本当に大したものなんだ。こんな気弱そうに振る舞っているが、光楽に負けずとも劣らない、世にも美しい女を描くのさ」


 蔦谷から光楽の名が出た途端、毅尚は、小刀で心の臓を抉られるような胸の痛みを覚える。


「まあ、私も是非描いてもらいたいわ!」

「私も!」

「駄目駄目、こいつは本当に美人な花魁しか描かないんだから」

「蔦屋様ひどい!意地悪!そりゃ私達は紫花魁ほど美人じゃないけど」

「いやいや、お前達も十分可愛いぞ」


 皆が楽しげに盛り上がるなか、毅尚は一人作り笑顔を張り付かせながら、はやくこの時間が過ぎ去ってくれることを願う。



 武士とはいえ、決して裕福ではない旗本の長男だった毅尚が絵師になるまでには、長い道のりがあった。うちは三河の時代から続く名家なのだというのが口癖の母親と、仕事熱心だが出世にさほど興味のない寡黙な父親との間に産まれた毅尚の人生は、父の密かな趣味である歌舞伎に連れて行かれ、そこで目にした絵看板に魅了されたことから大きく転換する。


 父にせがんで買ってもらった役者絵を見よう見真似で模写し、勉学の合間をぬっては毎日のように自己流で絵を描くようになった毅尚は、元服をむかえた15の時、相当の覚悟を持って絵師になりたい旨を両親に伝えた。母は半狂乱になって反対し、父はただ黙って毅尚の話しを聴いているだけだったが、次の日、二人だけで話がしたいと毅尚を呼び出すと、真剣な面持ちで毅尚に問いかけてきた。


『絵師になりたいのならばなっても構わない。だが、なれなかったら戻って家を継げばいいという甘い考えでは駄目だ。どうしてもと言うのなら、おまえをこの家から勘当する、つまり絶縁だ。家を捨て、武士であることも捨てる覚悟がお前にあるか?」


 父から出た言葉は厳しく過酷なものだったが、若さゆえの浅はかさと、絵師になる夢を諦めることがどうしてもできなかった毅尚は、その日家を捨てることを選んだ。


 幸い妹の一人が婿をとり、仲沢家は断絶せずにすんだのだが、思えば仲沢家唯一の男子で長男だった毅尚を、厳しくも送り出してくれた父親は、度量の大きい人だったのかもしれない。

 そして、共に暮らしている時は煩わしいと思うことのほうが多かったが、絶縁になってからも、今だに年数回は手紙と共に、僅かながらお金を仕送りしてくれる母親にも、毅尚は心から感謝している。



 その後毅尚は、役者の似顔絵などで人気を博していた勝鹿派の門下に弟子入りし、師匠の身の回りの世話をしながら、ひたすら絵を描く修行の日々が始まった。そこで同じ師匠についていた仲間の一人が光楽だ。

 中々日の目をみない日々の中、同じ夢を持ってここへ来た二人は、正反対の性格でありながらなぜか気が合い、いつの間にか最も親しい友人になっていた。


 光楽は出会った頃から、数いる弟子達のなかでも異質な存在だった。光楽の描く絵は、一見大胆でありながら彼独自の繊細さがちりばめられており、正統派を好む師匠や仲間達は、彼の絵を過激で趣がないと嫌っていたが、毅尚は光楽の絵に密かに魅了されていた。

 しかし、いくら個性的でいいと思う人間がいたところで、世間に受け入れられなければただの変わった絵を描く絵師でしかない。


 そんな光楽の燻っていた才能を開花させたのが、版元である蔦屋だった。光楽の描く絵に惚れ込んだ蔦谷は光楽を一流の絵師にしようと奔走し、見事江戸町民達の心を奪った光楽の絵は、飛ぶように売れるようになる。


 毅尚は一抹の寂しさを感じながらも、光楽の成功を友人として喜んだが、その影で、それまで頂点にいたはずの絵師が隅に追いやられる姿を目の当たりにし、この世界が弱肉強食であることも痛感した。成功すれば、富と名声が待っているが、有名になればなっただけ飽きられた時の転落は大きい。


 幕府お抱えの御用絵師ならまた話は別かもしれないが、自分達のような町絵師なんて、江戸には掃いて捨てるほどいる。だったら、このままずっと自分の身の丈にあった位置で、たまにおこぼれのように与えられる仕事を淡々とこなしながら生きていったほうが楽なのかもしれない。


 いつか自分の描いた絵が、歌舞伎の看板として飾られ売れっ子になることを夢見ていた毅尚だったが、その夢に靄がかかり始めていたある時、毅尚は、自分の運命を変える一人の女性と出会うのだ。

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