第12話

 太陽の光が微かに差し込む窓の下で、今まで見たこともないような美しい顔をした男が、梅を抱き寄せ眠っている。その光景を目にした途端、耐え難い苦しみが胸の中から込み上げ、自ずと涙が溢れてくる。 

 男の胸に頬をよせ目をつぶる梅の寝顔は、お凛の知っているあどけないものではなかった。穏やかなのに妖艶な色気を放つその顔は、今まで見たこともない女の顔。 


 もう二度と、梅が自分に歩み寄ることはないだろう。昔のように、手を繋いで眠る時など訪れない。梅もきっと、この男と一緒に行ってしまうのだ。突然死んでしまった父のように、足抜けして玉楼を去った胡蝶のように、お凛を一人置いて、いなくなってしまうのだ。


「いやだ…」


 お凛の口から漏れた言葉は、流れる涙と一緒に冷たい床に零れて消える。お凛は現実から目をそむけるように、その部屋から逃げ出していた。


(どうしよう…一体どうすれば…)


 だが、中庭が見える廊下まで駆けてきたお凛の頭は、急に冷静になっていく。今もし、自分以外の誰かが開かずの間を開け、男と梅を見つけてしまったら、梅の罰は普段の折檻などでは済まされないだろう。


(とにかく、まずは梅ちゃんをあの部屋から出してあの男から引き離さなくちゃ)


「梅ちゃん!梅ちゃん!!」


 再び開かずの間へ向かったお凛は、声をあげて梅の名を呼ぶ。すると、お凛の声に応えるように梅が部屋の中から出てきた。 

 乱れた髪に着くずれた着物。だけどその表情は、お凛のよく知るあどけない梅の顔に戻っている。やもたてもたまらず、お凛は梅のもとへ走り寄った。


「梅ちゃん!良かった」

「うん…」


 口ごもる梅をよそに、お凛は不安を打ち消そうとするかのようにとめどなくしゃべり続ける。


「大変なの!胡蝶姉さんが本当にいなくなってしまって、足抜けじゃないかって大騒ぎで」

「え?」

「胡蝶姉さんは前にも駆け落ちしようとしたことがあるから、今度見つかったらただでは済まされないだろうって、殺されるかもしれないって…」

「お前達!そんなところで突っ立って何お喋りなんてしてるんだい!」


 そこへ突然、お吉の恐ろしい剣幕が聞こえ、お凛も梅も反射的に身を竦ませる。お吉は梅を見るや、すべての苛立ちをぶつけるように怒鳴り散らした。


「おまえ、いったいどこに行ってたんだい!朝起きたら胡蝶は見つかってないし、お凛は梅がいないと騒ぎ出すし、しかもなんだいその汚ならしい格好は、せっかくの着物がよれよれじゃないか!一体いくらすると思ってるんだい!」

「ごめんなさい、あの後すごく眠くなって、布団部屋に行ってそのまま寝ちゃって、気がついたら朝になってて…」


 心の中で騒いでないしと思いながらも、お吉に早く立ち去って欲しいお凛は敢えて黙ったまま反論せず、お吉に言い訳する梅を見つめる。

 体を震わせ俯きながら必死に話している様子は明らかに不自然で、嘘をついてますと言ってるようなものだとお凛は心配したが、胡蝶のことで頭に血が上っているお吉は意に介していない。


「まったく、もうすぐ新造になるっていうのにいつまでも子供じみたこと言ってんじゃないよ!もういいからお前はとっとと風呂に入ってきな!」

「はい…」

「お凛!このへんの部屋は全部探したかい?」


 だが次に続いたお吉の言葉で、風呂へ向かおうとしていた梅が、傍目にもわかるほどビクリと肩を震わせ立ち止まった。梅の反応を見て、お凛も事態の深刻さに気がつく。

 そう、きっとまだいるのだ、自分達のすぐ後ろの部屋に、あの男が…


 「うん、この辺りの部屋全部開けて探したけど、胡蝶姉さんはいなかったよ」


 お凛は何食わぬ顔でスラスラと嘘をつく。


「そうか、やっぱりもう廓の中にはいないようだね。まったく大変なことになったよ!」


 お吉は息を荒げ一人そう言うと、足早にお凛達の前から走り去って行った。その後ろ姿を見ながら、お凛はホッと胸を撫で下ろした。

 ふと隣を見ると、梅も安心したようにため息をついて、お吉の姿を見送っている。


 ずっと隣で見てきた梅の横顔。お凛は、梅の横顔が好きだった。 

 可愛いと言うと、いつも居心地悪そうに首を振られたが、お凛は本当に、梅を可愛いと思っていた。特に横顔は、お凛が見てきたどんな女よりも綺麗だと、お凛は本気で思っていたのだ。


 しかし今、すぐ隣にあるその横顔は、まるで見たこともない他人の顔のように見える。誰かを思う、男に恋する女の顔。それでもお凛は、梅に男と出て行って欲しくない一心で言葉を紡ぐ。


「梅ちゃん、いつも一人になりたい時開かずの間に行ってたでしょう。だから、多分またそこだろうなとは思ってたんだけど、こんなに長い間戻ってこなかったのは初めてだったから心配だったんだ。でも良かった、梅ちゃんが出てきてくれて」


 お凛の思いがどう伝わったのか、梅は一瞬苦しそうに顔を歪めお凛を見つめたが、すぐにお凛から目をそらし視線を泳がせ始める。

 その表情だけで、わかってしまった。梅はさっき、あの男を守るために震えながらお吉に嘘ををついた。次はきっと、お凛が嘘をつかれる番。


「私、この辺の部屋一応全部見て確認してみるから、お凛ちゃんは他の場所を探してみなよ」「…わかった。あとでね」


 お凛の心の中に、深い闇が広がった。 




 梅と別れた後、お凛は、もしかしたら源一郎なら、梅に折檻することなく、男を追い出してくれるかもしれないと思った。昨日一瞬だけお凛に見せた笑顔と、梅が開かずの間で寝ていたのを見逃してくれた源一郎なら、どうにかしてくれるのではないかと希望を持ったのだ。


『あのなあ!今梅どころじゃねーんだよ』


 だが結果は、お凛の期待を大きく裏切るものだった。こうなったらもう、自分があの男と対峙するしかない。あの男に、梅とここから逃げる気なのか聞き、もしそうなら、自分は…


 

 開かずの間へ入ると、梅と共に寝ていた男が、小さな窓から差し込むわずかな光の下で、蹲るように膝を抱え眠っていた。お凛は音をたてないように引き戸を閉めると、男にゆっくりと近づいていく。


「誰だ!」


 気配で気づかれたのか、鋭い声とともに顔を上げた男に、お凛は手を掴まれる。一瞬声をあげそうになったが、なんとか息を飲み込み、お凛は掴まれた手の先で自分を見上げている男の顔をまっすぐに見下ろした。


「梅ではないな、美人だ」


 いたずらっぽく笑う男。立ち込める色気。乾いた空気の中に独特の匂いを感じ、お凛は思わず顔をしかめた。


「離せ」


 静かだが抑えようのない怒りを含んだ声に、男は目を丸くしてお凛を見上げる。 

 美しい男の姿をした鬼。男の顔を見ながら、お凛は高野屋の言葉を思い出していた。


「俺、お前になんかした?」


 だが、掴んでいた手を解き、眉を下げてお凛を見上げるその顔は、まるで叱られたられた子供のようで可愛らしく、思い描いていた鬼よりずっと人間らしい。もし高野屋の話を聞いてなかったら、お凛もこの男に心魅かれていたかもしれない。 

 でもこの男は危険だ。理屈ではない、この男から発せられる空気は、女の心を浮き立たせる。


「あんたは梅ちゃんの何?」


 落ち着かない心を沈め、お凛はなるべく冷静な声でその男に尋ねた。ついさっき、必死にこの男の存在をお凛達に隠そうとした梅。 

 この男はどう思ってるか知らないが、梅がこの男を好いているのは確かだ。もしこの男も梅を大切に思っているなら、自分はおとなしくひきさがるしかない。


「なにもなにも、梅とは昨日初めてここで会っただけだけど…」


 男の答えに、お凛は拍子抜けする。昨日初めて会っただけだというのに、この男はいとも簡単に梅の心を奪ったというのか?


「梅ちゃんを連れて行く気?」

「え?どこへ?」


 お凛の言葉に、男はわけがわからないというように顔をしかめる。そこでお凛は確信した。この男は、梅がこの男を思うほど、梅のことを思ってない。たまたまこの部屋で出会った梅を気まぐれに抱いただけ。 

 それがわかった時点で、お凛にとってこの男は、ただの鬼でしかなくなった。高野屋が言っていた、女を騙し食らう、美しい男の姿をした鬼。今のうちにこの男をここから追い出さなければ、きっと梅が犠牲になってしまう。


「ここから早く出てって!ここはあんたみたいな奴のいるところじゃない!!」


 突然声を荒げるお凛に、男は慌ててお凛の口を押さえようとする。しかしお凛は、その男の手をふり払い大声を上げた。


「出てけ!出てけ!おまえなんてここから出て行け!!」


 男は大声で叫ぶお凛から後退り、そのまま部屋の外へと逃げて行く。


「ハア…」 


 一人部屋に残されたお凛は、息が乱れ、膝から床にへたり込みながらも、男の姿が見えなくなった引き戸の先をジッと睨みつける。

 たった一晩で梅の心を奪ったあの男が、もう二度と、この場所に現れないようにと祈りながら。

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