第二章 第13話

『おまえは鬼だ!』


 女は突然そう叫ぶと、刃物をふりかざし海に襲い掛かってきた。自分を睨みつけてくる般若のような形相は、昔見たあの女の憎悪と殺意のこもった顔を思い起こさせ、海の身体は恐怖にうち震える…。


(やめろ!来るな!来るな!!)




 夜になると吉原に出かけるのは、海にとって日課のようなものだった。張見世で女を物色し、気にいった女がいれば買って一晩を共にする。相性が合えば、何度も同じ女を買うこともあるが、海はなるべくそうならないようにしていた。


 何度も寝ているうちに、女は海にお金を求めなくなる。そしてかわりに、海が絶対に与えることができないものを求めてくるようになるのだ。女は、海からそれを得ることができないとわかると、途端に海を責め始める。中には、一緒に死にたいなどと心中立てを迫り泣き喚くような女もいる。


 なぜ女がそこまで自分に固執するようになるのか、海にはわからなかった。そんな女の執着心など、海にとってはただの重荷でしかない。


 しかしそれでも、海は女を買うことをやめられなかった。女を抱いている時だけ、海は、自分が生きていることを実感することができる。見ず知らずの女の肌の匂いや熱は、海の心を満たし、自分にしがみついてくる女は、誰も皆可愛く見える。


 その遊女は玉楼の部屋持ちで、名を菊乃といった。美人というのではないが可愛いらしい顔をしていて、歯に衣着せぬ素直な物言いが気にいり常連になった。何回か会ううちに、菊乃は海から金をとらなくなり、他の客より海を優先するようになったが、菊乃の海に対する態度は変わらずさっぱりしたものだったので気にも留めていなかった。 


 他の見世にも合う女ができ、海が菊乃の元へ行く回数は減っていったが、菊乃との関係が完全に切れることはなく、その日も、海は突然ふと菊乃に会いたくなり玉楼へ向かった。 海の姿を見るや、菊乃は、今にも泣き出しそうな顔で海に駆け寄ってくる。


「もう、私のところへは来ないのかと思ってました」

「そんなに俺、ここに来ていなかったか?」

「あなたがここへ最後に来たのは、もう一月半も前ですよ」


 海は菊乃の耳元でごめんと囁く。あとはもう、久しぶりの逢瀬に互いを求め抱き合うだけ。 

 雲行きがおかしくなったのは、行為を終え、海が帰りの身支度をしている時だった。


「最近、松葉屋に通ってるんだってね」


 菊乃のめずらしく棘のある口調に、海は思わず喧嘩腰に答える。


「それがどうした?俺がどこへ行こうと俺の勝手だろう」


 海の言葉に、菊乃は俯いて黙り込む。その横顔には、先ほどまで海を見上げていた可愛らしい表情は消えうせ、かわりに、醜い嫉妬に歪んだ女の顔が浮かんでいた。


(もうここには来れねえな)


  菊乃が自分に何かを求め始めていることに、海はこの時ようやく気が付いたのだ。


「それじゃあ俺は帰るぞ。また気が向いたら来る」


 海はできるだけ優しい口調でそう言うと、そのまま部屋を出ていこうと足早に歩き出す。だが、いつの間に用意していたのか、菊乃は小刀を振りかざし、突然海に切りかかってきた。


「おまえ、なにを…」


 海は一瞬、何が起こったのか理解できなかったが、身体は咄嗟に反応し菊乃の腕を掴む。絶句する海を睨みつけ、菊乃は今まで聞いたこともないような激しい口調で海を罵った。


「もう来る気などないくせに!適当なことを言うな!その気もないのに期待させて、涼しい顔で突き落とす!お前は鬼だ!」


 そう叫ぶ菊乃の目には、海に対する憎悪が炎のように渦巻いていた。海は掴んでいた菊乃の腕をふり払い一心不乱に逃げ出す。


(こわい!こわい!助けて!) 


 恐怖のあまり我を忘れ走ってしまったせいか、海は広い廓内で迷い、目の前に行き止まりの壁が立ちはだかる。後ろから聞こえてくる女達の声が、皆、自分を追ってくる声のように聞こえ、海は必死に逃げ場を探した。すると、普段使ったこともない廊下奥の階段横に、小さな引き戸があるのを見つけ、海は藁をも掴む思いで中へ入りこんだ。


 勢いよく戸を閉め、誰にも開けられないよう内側から抑えながら、海は戸に耳を当てて外の様子を伺う。だが、戸の前に菊乃がいるような気配は全く感じられず、自分を追う声だと思っていた女達の声は、他の座敷で客の相手をしている遊女達の声だと気が付いた。菊乃は海を殺しに、追っては来なかったのだ。


 ほっとした途端身体の力が抜け、海は引き戸に背中を預け息を吐きながらその場に座り込む。 

 こんなにも必死に走ったのは、いったいどれくらいぶりだろうか?女一人に尻尾を巻いて逃げてきた自分が情けなく、海の口元には自嘲の笑みが浮かぶ。


 呆然としていた頭が少しずつ動き出し、ようやく落ち着いてきた海は、改めて部屋の中を見回した。ここは玉楼の納戸なのか、四畳程の広さに古びた箪笥や台帳らしきものが雑然と置いてあり、蜘蛛の巣のかかった小さな格子窓から見える月は、真っ暗な部屋を微かに照らしている。

 と、視線をずらした途端、窓の真下に寝そべっている人間の姿が視界に入り、海は思わずうわっと叫んだ。


「なんだよ、びびらせんなよ」


 不安な気持ちをごまかすように、大きな声で独り言を言いながら、海は恐る恐るその人間に近づいていく。それは女だった。こんなところで無防備に寝ているところをみると、まだ客を取っていない新造だろうか?月明かりにほんのり照らされた女の顔はとてもやすらかで、海は引き寄せられるように、その女の髪を優しく撫でた。 


 女はイヤイヤとむずがるように首を振ったが、先程、修羅の如く怒り狂う女を見たばかりの海は、眠っている女の、子供のような無邪気な仕草に心癒され、思わず頬を緩めてしまう。自分の節操のなさに呆れながらも、海はすでに、この女に興味を持ち始めていた。


 海は女の肩にそっと手を置き、おいと言いながら、女の肩をゆるく揺らす。女は中々目を開けようとしなかったが、諦めず揺すり続けていると、んーとか細い声をあげ、ゆっくりと目を開けた。寝ぼけているのか、その女は海の姿を目にするや即座に立ち上がり、大声で謝り出す。


「源にいちゃんごめんなさい!私」

「源兄ちゃんじゃねーよ」


 海は慌てて女の口を塞ぎ、抱きこむように身体を押さえつけた。女は、見知らぬ男に羽交い締めにされ口を塞がれている恐怖で、目をつぶったままぶるぶると震えだす。とにかくこの女を支配している恐怖を取り除かなくてはと、海はなるべく声を和らげ言い聞かせるように囁いた。


「いいか、これから手をどけてやるから大声をだすなよ」


 海の言葉に、女は目をつぶったまま必死に頷く。海が口元から手をはずしてやると、女はおそるおそる目を見開き海を見つめ、海はこの時やっと、その女の顔をまじまじと見ることが出来た。


 暗い部屋を照らす、微かな月明かりに照らされたその顔は、まだ幼さの残る子供のようにも見えたが、食い入るように自分を見つめるその瞳は、なぜだか妙に色っぽくも見える。女があまりにもじっと自分を見つめてくるので、ばつが悪くなった海は言葉を発した。


「なんだ、俺の顔に何かついてるか?」

「いえ、何もついてません、ただ、あまりにも綺麗だったから、本当に男なのかなと思って」


 その女は首を振り、大真面目な顔でおかしなことを言う。


「おまえ、無意識に失礼なこと言ってるのわかってる?男に決まってるだろうどう見ても」

「でも、男でこんな綺麗な人、私、見たことなかったから、ごめんなさい、失礼なこと言ってるつもりは全然なくて、ただ…」


 海がわざと怒った口調で言うと、その女は慌てたように謝ってきたが、海の言動に、一々表情をくるくる変える女を見ているうちに、無性にからかってやりたくなった海は、徐ろに女の唇に自分の唇を押し付ける。その途端、女は力いっぱい海を突き飛ばした。


「いって…何するんだよ」


 後ろの棚に頭をぶつけ顔を歪めながらも、その女の反応がなんだかとても初々しく新鮮に思え、つい笑いが溢れてしまう。小さな頃、好きな女の子を振り向かせたくてわざと意地悪をしてしまう時のような、妙に懐かしい擽ったいような感覚。


「ご、ごめんなさい、でもいきなりあなたが変なことするから」

「変なことって?」

「え…だから、口を…」

「お前、可愛いな」


 恥ずかしそうに俯いて言葉を濁すその女の姿を見て、海は思ったことをそのまま口にした。女はなぜか、心底驚いたような表情で海を見つめる。 

 その無垢な表情に惹きつけられるように、海は女の頬を包み込み、もう一度、お前は可愛いよと囁いた。そのままその女の唇に啄ばむように触れ、甘噛みしながらその感触を楽しんでいたら、当然のように抑えがきかなくなっていき、気づけば女の身体を床に押し倒していた。


 頭をぶつけ痛いと呟く女に、海はごめんと謝る。だが、口では謝りながらも、海は、もう自分を止められそうにないことを自覚していた。

 いい?と尋ねると、女は何を言っているのかわからないというようにキョトンとした表情で海を見つめる。


「おまえ玉楼の遊女だろ?本当にわかんないの?」


 惚けているのか?と疑問を持ちながら、海はその女の襟元から手を滑り込ませる。女は一瞬、抗うように海の肩を押したが、海が手を奥に進め着物を脱がしていくうちに、その力はか細いものになり、そのうち諦めたように、抵抗していた腕を床に落とした。


 肌けた着物の上に横たわる女の身体が薄い月明かりに照らされ、海の目にはっきりと映し出される。海はその女の小ぶりだが形のいい胸と、無駄な肉のついていない柔らかな曲線に見とれた。綺麗にくびれた腹から腰にかけての線はなんともいえず美しく、海は感嘆の言葉を口にする。


「綺麗な身体だな、年はいくつだ?」

「18」

(同い年か)


 海は口には出さずにそう思うと、無言で女の下腹部に顔を埋める。すると女は海の頭を掴み、いやだ堪忍してと、今にも泣きしそうな声で訴えてきた。しばらく聞こえないふりをしていた海も、その声の切実さにさすがに罪悪感を覚え、女の下腹部から身体を起こし女の顔を覗き込む。


 女の目からは涙が流れており、自分がとてつもなく悪いことをしているような気分になった海は思わず苦笑いを浮かべ、その女の涙を拭ってやる。これはもう、ここでやめるしかないかもなと残念に思いながらも、海は優しく女の手を握り尋ねる。


「もうやめて欲しい?俺に触られるの、嫌?」


 しかし意外なことに、女ははっきりと首を横に振った。それどころか、女は少しだけ身体を起こし海の唇に自ら口付けると、海の背中に華奢な腕を回し掠れた声で囁いたのだ。


「もっと触って…抱いてください」


 そう言って自分を見つめてくる女の目には、妖艶な色気が海を誘うように浮かんでいた。その瞳に囚われた途端、海の中の理性も罪悪感も、綺麗さっぱりと吹き飛ぶ。 海は乱暴に女を抱き寄せると、むさぼるように女の口内を蹂躙し、身体中を愛撫する。もう、激しく灯った欲望を止めることなど不可能だった。



「いいか?」

「…」


 海が女の中へ入っていこうとした時、女は小さく身体を震わせ怯えた表情で海を見上げたが、こくりと首を縦にふった。その、遊女とは思えぬ初々しい姿にえもいわれぬ愛しさがこみ上げ、海はいっそう身体が熱くなる。こんなに相手を気遣ったことはないかもしれないと思いながら、海はゆっくりと、自分の一番熱を持った部分を女の体に沈めていく。


 海は、女の体温に包まれている心地よさを味わいながらも、女の苦痛が少しでも和らげばと、しばらく動かすことはせず、女の唇や頬に優しく接吻をする。そんな海に、女は苦悶の表情を緩め、もう大丈夫というように小さく微笑んだ。 

 海はゆっくりと腰を揺らし始め、最初は痛みに耐えるようだった女の息遣いは、徐々に、男を誘う艶のある嬌声に変わっていく。


 薄い月明かりに照らされた女の白い肌は透けるように美しく、海が揺さぶるたびしなやかに揺れる腰はあまりにも妖艶で、海はふと、この女は人間だろうかと妙な事を思った。処女のように初々しいかと思えば、妖女のような瞳で海を誘う、摑みどころのない不思議な女。 

 海は高みに昇っていくような快楽に身を任せ、その女の身体に溺れた。貪るように女を犯しているうち限界が近づき、さらに深く繋がろうと海が角度を変えた瞬間、女の身体はしなるように震える。


「もう…もうやめ…おかしくなる…」


 言葉とは裏腹に、女のそこは今までよりいっそう強く海をしめつけ、海はこれ以上持ちこたえることができなくなり女の身体に欲を放つ。


「くっ…はあ…」


 果てた後のどうしようもない脱力感が海の身体を襲ったが、なぜか身体の熱はおさまらず、海はその女の胸に顔を埋め噛み付くように接吻した。繫がった身体は離れがたく、女の胸から響く心地よい心臓の音は、海の荒かった呼吸を落ち着かせていく。


「おまえ、名前はなんていうんだ?」


 女の胸に耳をあてたまま、海は今更な質問を女に投げかけたが返事は返ってこない。


「おい?」


 不思議に思った海は、繫がったままの身体を起こし、女の顔を覗き込む。ところが、女は目をつぶったままなんの反応も示さず、焦った海は女の頬を叩いて揺さぶった。


「おい!おい!」


 どんなに声をかけても女は目を開けず、自分がまた女を失神させてしまったことに気づいた海は、小さく謝る。


「ごめんな」


 海は女の身体から自分の身体を離し隣に横たわると、女の手をそっと握る。汗で湿った女の指先は微かに反応し、海の手を小さく握り返した。その女の、まるで赤ん坊のような反応に、海の口元はまた自然と緩んでしまう。


(目覚めた時、この女はどんな表情を自分に見せてくれるんだろう?)


 今目の前にいる女のおかげで、今日あった恐怖も不安もすっかり頭から消え失せた海は、女の身体を優しく抱き寄せ目を閉じた。

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