第10話

「胡蝶め、舐めた真似しやがって!あんたらもボヤボヤすんじゃないよ!絶対に見つけだすんだ!!」


 お吉の金切り声が、廓中に響き渡る。


(始まった…)


 源一郎は、勝手に震えだしてしまう体を静めようと、自らの掌を強く握りしめる。それは、ひよわすぎる心を守るため、いつの間にか身に着いた源一郎の癖だった。


 源一郎には、時に甘い優しさを見せる母親。しかし、廓にいる女達には憐憫の情など微塵も持っていないことを、源一郎は知っている。ただの商品である女が逆らった時、売り物にならなくなった時、お吉が女に仏心を見せることはない。今も時折夢に見る記憶をふり払い、源一郎は草履を履いて外へ飛び出そうとした。


「源兄ちゃん!」


 その途端、お凛に大声で呼び止められ、源一郎は足を止める。


「どうした!胡蝶が見つかったか?」


 衝突せんばかりの勢いで源一郎のもとへ駆け寄ってきたお凛の尋常ではない様子に、胡蝶が最悪の形で見つかったのかと身構えたが、お凛の口から出た名前に、思わずため息をこぼす。


「梅ちゃんが!梅ちゃんが…」

「あのなあ!今梅どころじゃねーんだよ、胡蝶がいなくなっちまったんだ、おまえも聞いてるだろ?」

「そうなんだ、やっぱりね…結局源兄ちゃんもお吉さんと同じだったんだ」

「は?何がだよ?お前だって胡蝶に懐いてたじゃねーか!胡蝶のことが心配じゃねーのか?!」


 あからさまな失望を瞳に浮かべ、吐き捨てるように言うお凛の言葉が癇に障る。ついきつい口調で尋ねる源一郎を、お凛は強く睨みつけ言い放った。


「私にとっては、梅ちゃんも胡蝶姉さんも、どちらも同じくらい大事なんだ!!」

「お凛!!」


 源一郎が叫んだ時にはもうすでに遅く、お凛はそのまま振り返りもせずに、廓の中へ駆け戻っていく。


「くそ!」


 とっくに塞がったはずの傷口がジクジクと痛んだが、今はそんなものに囚われている場合ではない。源一郎はもう一度だけお凛の駆けていった方を一瞥すると、今度こそ廓の外へと出て行った。



(私は馬鹿だ。源兄ちゃんだって、所詮はあのお吉の息子なのに…)


 一瞬でも源一郎を頼ろうとした自分を責め、お凛は再び開かずの間へと向かっていた。梅に嘘をつかれた絶望感と悲しみで胸が張り裂けそうになりながら、お凛は昨夜からの記憶を反芻する。 



 昨日、夜見世が始まり高野屋が帰ってしばらく経っても、梅が開かずの間から戻ってきていないことに気づいたお凛は、えもいわれぬ不安にかられた。 

 もし梅が、今度こそお凛から離れていってしまったら、自分は再び一人ぼっちになってしまう。初めて玉楼へやってきた頃見ていた悪夢に、尚又毎晩のようにうなされ続ける。

 新造出しが近づいてくるにつれて、お凛の孤独と苦しみは、よりいっそう深いものになっていた。


 お吉や佐知は、お凛は幸せものだと言う。 千歳屋は確かに、野暮で問題のある男だが、その財力は計り知れず、玉楼も先代から世話になってきた上客だ。千歳屋に気に入られたいという見世や遊女は五万といるのに、その千歳屋の心をいとも簡単に掴み、何百両もかけて盛大な新造出しをしてもらえるなんて、そうそうあることではないと。


 だが、それのどこが幸せなのかお凛にはわからなかった。あんな男に好かれるくらいなら、河岸の切見世に住み替えたほうがましだ。  

 でも、本当はそれすら恐ろしかった。千歳屋だけではない。お凛はこれから、見ず知らずの男に媚を売り身体を売る。 

 お吉は、おまえにはいい客しかつかせないさと言っていたが、お吉の基準は、金があるかないかだけで、お凛の気持ちなど全く意に介そうとはしない。お金があるとかないとか、そんなこと、お凛にとってはどうでもよかった。


 千歳屋に見られるだけで鳥肌がたつ。猫なで声で名前を呼ばれるだけで、悪寒が走る。どうしても打ち消すことのできない弱音を、思わず姉女郎の胡蝶に漏らした時、胡蝶は事もなげに言った。


『怖いのは最初だけさ、馴れてくればそのうちごまかし方も覚える。全員いちいちちゃんと相手してたらこっちも身体がもたないからね。まあ、私もあいつは大嫌いだからあんたの気持ちもわかるが、ここじゃ結局金のある者が強い。新造出しはすぐかもしれないが、突き出しはまだまだ先だ。花魁になれば名代で逃げることもできるようになるんだから、あんたも佳乃みたいに賢くとっとと出世して、いい男に身請けしてもらうんだね』


 (自分もいつか、胡蝶姉さんのように達観できる日がくるのだろうか…)


 お凛は、中庭が見える廊下に立ち、開かずの間がある壁際に目を向ける。幼い頃、二人で忍びこんだあの部屋に、梅がいつからか1人でひっそりと行くようになったことを、お凛は知っていた。もう辺りは真っ暗だというのに、梅はまだあの部屋から出てきていないのだろうか? 空には相変わらず、真ん丸い満月が美しく光り、あたりを照らしている。


 自分もあの場所へ行きたい。昔のように、梅と、悲しみも辛さも共有したかった。小さい頃のように、手を握り合って眠りたかった。感情を共有できなくなってしまったのは、いったいいつの頃からだっただろう。どうすれば、またあの頃のようになれるのだろうか?


 梅は、この牢獄のような廓の中で、ただ一人、自分を救ってくれた人間だった。初めて会った時、迎えがきたら、お凛ちゃんも一緒においらの村へ行こうと言ってくれた。約束だと、お互いの小指をからませて指切りをした。 

 子供だましの小さな約束。だけどその約束は、あの頃のお凛にとって、たった一つの希望だったのだ。


「お凛!」

「え?」


 後ろから急に声をかけられ振り向くと、源一郎が難しい顔で腕を組み立っている。


「今日はすまなかったな」

「何がすまなかったなの?」

「まだ新造出しもすんでないのに、客を取るような真似をさせちまって」

「ああ、別に、ただ話をしただけだし」


 高野屋との会話は全く不快ではなかったので、お凛は本心からそう応えたが、源一郎は言いにくそうに言葉を続ける。


「そのことなんだけどな、今日、高野屋の御隠居様の話相手をしたことは、千歳屋の旦那には黙っといてくれないか?自分が新造出しする女が、その前に他の客の相手をしたなんてわかったら、千歳屋の旦那もいい気がしないだろうからな」

(馬鹿らしい)


 源一郎の言葉に、お凛は小さくため息をこぼす。千歳屋千歳屋千歳屋、もう何度その言葉を聞いただろう?自分の人生は、どれだけあの男に支配されなくてはいけないのか。だがお凛にはもう、顔を歪める気力さえなかった。


「わかった」


 素直に返事をするお凛に驚いたのか、源一郎は拍子抜けしたように尋ねる。


「どうしたんだ?」

「なにが?」 

「いや、別に、わかってくれればいいんだ」

「もう話が済んだなら行っていい?」

「ああ…」


 不審な顔で見てくる源一郎に構わず、お凛が立ち去ろうとすると、突然肩を強く掴まれ引き止められる。


「いたっ…なに?」

「おまえまさか、妙なこと考えてるんじゃないだろうな?」

「え?」


 わけがわからず見上げるお凛に、源一郎は険しい形相のまま怒鳴るように言った。


「いいか、今お前が苦しんでることなんて、何年もたてば笑って話せる程度のことだ。おめーの世話をしてくれた佳乃も、胡蝶も、紫も、ここにいる遊女はみんなたどってきたことなんだよ!」


 源一郎のあまりの激しい口調に、お凛は唖然とする。


「源兄ちゃん、一体どうしたの?」

「いや、おまえが千歳屋の旦那を死ぬほど嫌ってるのはわかってるから、最近顔色も悪いし、妙な気おこすんじゃねーかと思って」 

「妙な気って?」

「いや、いい…」

「嫌だ!ちゃんと言って!言わなきゃ千歳屋の旦那に高野屋の御隠居様と会ったこと言うからね!」

「おまえ!」


 源一郎は、この卑怯もんがと口惜しそうにしながらも、仕方ないと口を開く。


「おまえが、自分で自分を殺しちまうんじゃねえかと思ったんだよ」


 源一郎の言葉に、お凛は合点がいった。吉原では、心中も自殺も珍しいことではない。 

 つい最近も、三浦屋が期待をかけて育てていた引っ込み禿が、自ら命を絶ったという噂を聞いたばかりだった。なるほど、自殺なんて今まで考えたこともなかったが、死ぬというのは、ここから逃げだす唯一の手段なのかもしれない。


「お凛?」


 源一郎の懸念の宿る目を見つめながら、お凛は答える。


「大丈夫、そんなことしないよ。千歳屋の旦那は大っ嫌いだけど、とっとと金持ちの上客捕まえて、こっから出て行けばいいだけのことだし」


 それは胡蝶からの受け売りで、お凛の本音ではなかったが、源一郎はほっとしたように息を吐き、ばつが悪そうに言葉を濁す。


「まあなんだ、余計な心配して悪かったな…」「本当だよ、誰が千歳屋のために死ぬかっていうの、それに、私はまだここから逃げるの諦めたわけじゃないんだから」


 お凛がいつものように憎まれ口を叩くと、源一郎は一瞬、今まで見たこともないような優しい顔で微笑んだ。お凛はそんな源一郎の表情に驚いたが、すぐにいつもの、お凛達を小馬鹿にする時の顔に戻っていたので、きっと気のせいだと心に蓋をする。


「おまえ、まだ諦めてなかったのか?」

「当たり前だよ」


 お凛の言葉に、源一郎はこれ見よがしに大きなため息をついた。


「まったく。もういいからお前はもう部屋に帰って寝ろ。新造出しが済んで一本立ちしたら、おまえには今まで苦労させられた分十分働いてもらうからな。今のうちに、せいぜいガキでいられる時間を満喫しておけ」

「言われなくったってもう寝るよ!」


 お凛は源一郎に向かって思いっきりあっかんべーをすると、そのまま源一郎に背をむけた。



 部屋に戻ると、客が帰った姉女郎や禿達が、布団をひいて床につく準備をしていたが、まだ梅の姿はない。


(どうしよう?開かずの間に迎えに行ってみようか?でも…)


 お凛が思い悩んでいるところへ遣り手の佐知がやってきて、ちょっとこっちへ来いとお凛に手招きをする。なんの用かと不思議に思い佐知に近づくと、佐知はそのままお凛を人目のない廊下の隅へと引っ張っていき、声を潜めてお凛に問いかけた。


「あんた、高野屋の旦那に何か聞かなかったかい?」

「え?」

「夜見世から胡蝶が見当たらないことはあんたも知ってると思うけど、あれから全く胡蝶が見つからないんだよ」

「胡蝶姉さん、まだ見つかってなかったんですか?」 

「ああ、もしかしたら足抜けかもしれない」

「足抜け!」


 佐知は、思わず声を上げるお凛の口を手で塞ぎ、声が大きいと諫める。


「高野屋の御隠居様が急に来たせいで、私らも胡蝶が見つからないことをあまり大っぴらに出来なかったんだが、あの人は相当変わりものだからね、もしかしたら胡蝶がいなくなるのわかっててあんたに会いにきたんじゃないかとふと思ったんだよ。でもやっぱり、あんたは何も聞いてないようだね」

「私はなにも…あの、本当に胡蝶姉さんどこにもいないんですか?」

「郭中しらみつぶしに探したが、結局見つかったのは、梅が一人開かずの間で寝てたのくらいさ」

「え?」


 佐知の口から唐突に梅の名前が出て、お凛はびっくりして佐知を見つめる。


「全く、おまえといい梅といい、本当にいつまでも子供で能天気で笑っちゃうよ」

「あ、あの、梅ちゃんは今どこに?」


 梅がやはり開かずの間にいたことがわかってホットはしたが、佐知が梅をそのままほうってきたとは思えない。もしや折檻部屋に連れていかれたのではと心配になって尋ねると、佐知は意外な言葉を返してきた。


「さあね、まだ寝てるんじゃないか?」

「え?」

「源さんが、気の済むまで寝させておけって言ったのさ」 

「源兄ちゃんが…」

「あの人はなんだかんだ言って女達に甘いから本当に心配だよ。あの甘さは、女郎屋をやっていくには命取りだね」


 佐知の言葉を聞きながら、お凛は、先ほどの源一郎とのやりとりを思い出す。今までお凛は、源一郎も結局はお吉と同じ種類の人間だと思っていた。女をただの商品としか思っていない、自分達の支配者であり金の亡者。


 だが佐知の話しを聞き、お凛はふと、源一郎が一瞬お凛に見せた優しい笑みを思い出す。もしかしたらあれは錯覚ではなかったのかもしれない。源一郎は、お吉や佐知とは違うのかもしれない。 

 いずれにせよお凛は、源一郎が梅を折檻せずにいてくれたことに、感謝せずにはいられなかった。


「お凛、聞いてるのかい?」

「え?」 

「まったくお前は、いいかい、このことは、まだ他の子達には黙っていておくれ。もし今の時点でお吉さんの耳に入ったら大変なことになるからね」

「大変なこと?」

「胡蝶が足抜けしようとしたのはこれで二回目だ。この事をお吉さんに言えば、亡八達に今すぐ胡蝶の後を追わせることになるだろう。あんたは私からしか折檻されたことないから知らないだろうが、あの男達の折檻はそんな生ぬるいものじゃない。中には、女を痛めつけるのが楽しくてしょうがないような男もいる。きっとまた、殺されるよりひどいことをされるだろう」

「殺されるよりもひどいこと?」


 佐知はお凛の問いかけには応えず言葉を続ける。


「あんたも覚えておきな、足抜けするってのが、遊女や相手の男にとってどうゆうことなのか女将さんは確かにあんたには甘いかもしれないが、それはあんたが将来有望な花魁になると思ってるからだ。

もしおまえが胡蝶のように足抜けしたり、見世の損になるようなことをすれば、あの人は必ずおまえを捕まえ、殺すよりも残酷なことを平気でするだろう。いとも簡単に亡八達にお前を引き渡し、大事に育ててきたあんたが痛めつけられるのを平然と見ることが出来る、あの人はそうゆう人なんだ」


 佐知はそこまで言うと、しゃべりすぎたというように自分の口元に手をやり、ばつが悪そうな顔をする。


「まあ、お前達を平気で折檻している私が言うのもおかしいがね。あの人は源さんのように甘くはないってことさ」


 お凛は息をするのも忘れ、佐知の話を聞いていたが、ふと思うことがあり佐知に尋ねる。


「佐知さんは、胡蝶姉さんが見つかってないことをお吉さんに伝えなくても大丈夫なんですか?」

「ああ、源さんには伝えてあるからね。それにどうせ今あの人は新しい若いのとお楽しみ中さ…」

「え?」


 最後の方がよく聞こえず聞き返したが、佐知はそれにも応えず、鼻で笑いながら言った。


「女将さんの逆鱗に触れたって、私達へのおとがめなんて、足抜けした遊女がされる折檻にくらべたらたいしたことはない。なんだいあんた、私の心配でもしてくれてるのかい?」


 揶揄うようにそう言う佐知に、お凛は黙り込む。別に、佐知のことを心配したわけではない。 

 ただ、自分達には平然と厳しい折檻をする佐知の口ぶりが、まるで胡蝶に捕まって欲しくないと言っているように聞こえたから、お凛は不思議に思ったのだ。だが、確信を持てないお凛は、あえてその思いを口にはしなかった。


「何も知らないんなら悪かったね。とにかくこのことは明日の朝、源さんと一緒に私らがお吉さんに知らせるから、あんたは何も考えないでもうお休み」


 これだけのことを聞かされて、なにも考えずに眠れるはずがないと思いながらも、お凛は素直に頷いた。



 部屋に戻ると、姉女郎達が、話って何だったのと聞いてくる。お凛は皆の質問を適当にかわし、そのまま床についた。


(胡蝶姉さんは、本当に足抜けしてしまったんだろうか?もう二度と会えないんだろうか?でもきっと会えない方がいいんだ、だってもし見つかったら、胡蝶姉さんは酷いことをされるんだから)


 布団に入っても、先程の佐知との会話が頭から離れず、全く寝付くことができない。

 もし今隣に梅がいてくれたら、少しは心を落ち着かせることができるのに、梅もまだ開かずの間から戻ってこない。


(やっぱりいっそのこと、迎えにいこうか…)


  しかしお凛は、昼見世での千歳屋とのやりとりを思い出しぐっとこらえる。お凛自身、梅の苦しみの原因が自分であることを、認めたくないが自覚していた。


(私が迎えに行くことを、きっと梅ちゃんは望んでない…)


 思えば梅は、どんなことがあろうと必ず自らお凛の隣に戻ってきてくれた。昔のように手を握りあって眠ることはできなくなったが、今まで何度、お凛のせいで嫌な目にあっても、梅はずっと、お凛と友達でいようとしてくれたではないか。


(梅ちゃんを信じよう。きっと梅ちゃんは、もうすぐ自分でここに戻ってくる)


 そう考えたら、少しだけ心が軽くなるのを感じ、お凛は布団の中で目を瞑る。いつもと違う一日の疲れが、抗えない眠気となってお凛を包みこむ。 

 だが、この時のお凛の期待は脆くも崩れ去るのだ。


 

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