第9話

 梅は久しぶりに村の夢を見ていた。佳乃から貰った帯と美しい着物を身につけた梅は、母親と父親や兄達に、自分は身請けされて吉原から出ることができたんだと嬉しそうに話している。


 相手は誰なんだいと母親に問われ答えようとするも、なぜか名前が出てこない。すると外から、梅を呼ぶ声が聞こえてきた。それは、梅を身請けしてくれた大好きな人の声だった。

 梅はその男を出迎えようと土間に向かって走りだす。しかし外に出てみると男の姿はなく、吉原を囲む深くて広いお歯黒ドブが、あたり一面に広がっていた。


梅は恐ろしくなって必死に叫ぶ。


(ここから出して!誰か私を連れ去って…)





 目を開けると、まだ夜明け前の薄闇の中、いつもの部屋と違う黒々とした天井が見えた。ここはどこなのかと慌てて身を起こしたが、下腹部に痛みが走り、思わずイタッと声を漏らす。


「大丈夫か?」


 と、後ろから声が聞こえ、びっくりして振り返ると、昨日出会ったばかりの男が、寝っ転がったまま梅に優しく笑いかけていた。梅は昨晩のことを思い出し、みるみる内に顔が熱くなる。昨日のあれは夢ではなかったのだ。

 梅の身体に走る痛みと、隣に横たわる男の姿は、そのことをはっきりと物語っている。その男は、突然梅の腕をひっぱると、梅の身体を胸に抱くように引き寄せた。


「おまえ、初めてだっただろう」


 悪戯に笑いながらそう言う男に、梅は精一杯虚勢を張って言い返す。


「ち、ちがうもん、私だって玉楼の遊女の端くれだから、客くらい取ったことあるし…」

「嘘付け、おまえ本当は18歳じゃないだろう。いきなりすごい色っぽい顔で誘ってきたから、てっきり客を取ってる留袖新造かと思ったけど、おまえもしかしてまだ禿?」


 小さい声で、もうすぐ新造出しだしと言い訳してみたが、図星をさされた梅はその後の言葉が続かない。


「まあいっか」


  男は何か呟き、互いの顔が見えるように横向きになると、さらに身体を密着させる。


「え?」


 男がなんと言ったのかはっきり聞こえず、首を傾け尋ねる梅に、男は梅の頬を撫でながら優しく囁いた。


「可愛かったからまあいいやって言ったの」


 思わず頬から耳まで熱くなる梅に、男は、やっぱりおまえ可愛いと言いながら口付けをし、強く抱きしめてくる。その男の、女のような綺麗な顔に似合わぬ広く逞しい胸は、梅の心まで温かく包み込んでくるようだった。


 こんなにも幸せな気持ちになったことが、今まであっただろうか?昨日初めて会ったはずなのに、この男の腕に抱かれていると、ここに来てからの痛みも苦しみも、全て大したものではないように思えてくる。


「おまえ、名前はなんていうの?」

「私は梅、あなたは?」


 自らの名前を告げ、梅も同じく問いかけると、男は子供のような顔で笑う。


「そっか、俺自分の名前も言ってなかったんだよな、俺は海だよ」


 初めて聞く男の名前。梅は声に出して言ってみる。


「カイ…」

「そう、海って書いて、カイ」

「海…」


 その名前を噛み締めるように、梅は何度も心の中で呟いた。それだけで、梅の心は早鐘のように高鳴る。

 梅は、今度は自分から海の腰に手を回すと、隙間がなくなるほど強くその体にしがみつき、海の胸に耳を当てた。そこから聞こえてくる心臓の音も、体温も、声も、名前も、すべてが愛しく胸が震え、なぜか涙が溢れてくる。 

 このまま離れたくない。もし海とずっとこうしていられるなら、死んでもいいとすら思える。


「どうした?」


 泣いている梅に気づいた海は、心配そうに尋ねてきたが、梅はなんでもないと答え、海の胸に自分の頬を摺り寄せ目をつぶった。 

 海は、そんな梅の背中を優しく撫でながら、まるで子守唄でも聴かせるように静かに歌いだす。その声はとても綺麗で、梅は海の胸に耳をあてたままじっと聴きいった。


 その唄は、遊女と男の叶わぬ恋の唄。歌詞の中の二人は、現世で一緒になれぬならと、死をもって永遠に結ばれる。


「なんだか悲しい唄だね、なんていう歌なの?」


 梅が聞くと、海は歌うのをやめ、「実は題名知らねんだ」と言って困ったように笑った。


「俺の母親が、俺が小さい頃子守唄がわりによく歌ってたんだよ」

「海のお母さんてどんな人なの?」

「まあまあ綺麗だったよ、もう死んじまったけど」


 海の言葉に、梅はごめんと謝る。


「全然、昔のことだし、そうそう、俺の母親も梅と同じ遊女だったんだ。花魁ではないけど、結構人気あったらしい。

親父に妾として身請けされて、その時に流行ってた歌がこれなんだってさ。心中物の浄瑠璃で歌われてた唄で、その頃あまりにも心中が多かったから幕府が上演を禁止して、この唄を歌うことも禁止されたんだって。それを子守唄がわりに歌ってたんだから、俺の母親も変わった女だよな」


 黙って聞いていた梅は、首を横に振り海を見つめて言った。


「お母さんは変わってなんてないよ、私、この唄好きだよ。多分、海のお母さんは、この唄の中の女の人みたいに、海のお父さんのこと本当に大好きだったんだよ。一緒に死にたいって思うくらい、好きだったんじゃないかな…」


 梅の真剣な口調に、海は梅をからかうように笑う。


「へー、まだ禿のくせに、随分大人なこと言うね」

「禿じゃないもん!子供扱いしないで!」


 言いながら、瞼の裏が熱くなり、止まりかけていた涙がまた滲んできた。子供扱いされることを、こんなにも悲しく思ったのは、多分今日が初めてだ。海にだけは、子供扱いされたくない。


 なんとかこらえようとしていた涙が、梅の頬を伝って落ちる。海は涙をこぼす梅を驚いたように見つめ、ごめんと言いながら、梅の涙を指で拭った。その指をふり払って、プイと顔を逸らそうとする梅の首筋に、海は唇を落として囁く。


「もう一回、抱いてもいい?」


 梅は黙って頷いた。


「おまえ、本当に可愛いな」


 そう言って、海はそのまま梅の唇に口付けをしてきたが、梅は拗ねた顔で、睨むように海を見上げる。


「やっぱりやだ?」


 戸惑い尋ねてくる海の首に腕をまわし、梅は願うように海の耳元で請うた。


「海、おまえじゃなくて、名前を呼んで」


 海は納得したように笑うと、そのまま低く優しい声で梅と囁く。二度目の行為は、一度目よりもずっと優しく感じた。海は何度も梅の名を呼び、梅も何度も海の名を呼んだ。

 果てた後も、梅は今度は意識を手放さなかった。手放して目を覚ました時、この男がいなくなってるのが怖かったから。これを夢などにしたくはなかったから


 梅の胸の上に、力尽きたように倒れる海の頭を、今度は梅が抱き寄せてやさしく撫でる。海は、なんか俺情けねえなと言いながらも、そのまま梅の胸にもたれ掛かった。


 幸福な気持ちのままふと目線を上げると、小さな格子窓から見える空は、薄い闇色から光を帯びた白色に変わり始めている。梅はそんな空を見つめながら、このままずっと朝がこなければいいと願った。





  梅が次に目を開けた時、部屋の中には眩しいほどの光が差し込んでいた。まだ夢心地のまま目をこすり起き上がると、外からざわざわと、何やらいつもより騒がしい声が聞こえてくる。


「やばい、もうみんな起きてきたか?」


 と、同時に目が覚めたらしい海の声に、梅は突然現実に引き戻される。もしこんなところお吉に見つかったら、一体どんな目にあわされるかわかったもんじゃない。自分が折檻されるのは構わないが、海が酷い目にあわされるなんて耐えられなかった。


「私戻らなきゃ、外の様子見て、誰にも見つかりそうになかったら呼びにくるから。海、ここに隠れていられる?」


 海は頷きながらも、梅を心配そうに見つめ尋ねてくる。


「俺は大丈夫。それよりおまえこそ大丈夫か?もし今見つかってこんなことがバレたら…」「大丈夫」


 梅は海に心配かけまいと、できるだけ明るい声でそう言うと、脱ぎ捨ててあった着物を羽織り、床に落ちていた帯を手早くつける。とその時、外から梅を呼ぶお凛の声が聞こえ慌てた梅は、一瞬だけ名残おしく海を見やり、なんとか心を振り切って部屋の外へ飛び出した。 

 梅が部屋を出ていくと、丁度梅を呼び廊下を歩いてきたお凛が、泣きそうになりながら梅に走りよってくる。


「梅ちゃん!良かった」

「うん…」


 開かずの間から出てくるところをしっかり見られてしまい、どうごまかそうか考えあぐねている梅に構わず、お凛は信じられない言葉を口にする。


「大変なの!胡蝶姉さんが本当にいなくなってしまって、足抜けじゃないかって大騒ぎで」

「え?」

「胡蝶姉さんは前にも駆け落ちしようとしたことがあるから、今度見つかったらただでは済まされないだろうって、殺されるかもしれないって…」


 梅は驚愕し言葉を失う。お凛と違い、梅は胡蝶とあまり話したことはなかったが、お凛が胡蝶に助けられた話を聞いた時、なんて強い人なんだろうと感心した。自分もそれくらい強くなれたら、強くなりたいと思ったのだ。


「お前達!そんなところで突っ立って何お喋りなんてしてるんだい!」


 と、梅とお凛が立ちつくしているところへ、鬼気迫る表情をしたお吉が現れ、梅の身体は震えあがる。お吉は梅に気が付くと、毒づくように怒鳴り散らした。


「おまえ、いったいどこに行ってたんだい!朝起きたら胡蝶は見つかってないし、お凛は梅がいないと騒ぎ出すし、しかもなんだいその汚ならしい格好は、せっかくの着物がよれよれじゃないか!一体いくらすると思ってるんだい!」

「ごめんなさい、あの後すごく眠くなって、布団部屋に行ってそのまま寝ちゃって、気がついたら朝になってて…」

「まったく、もうすぐ新造になるっていうのにいつまでも子供じみたこと言ってんじゃないよ!もういいからお前はとっとと風呂に入ってきな!」

「はい…」


 お吉の迫力にそれ以上何も言えず、梅はか細い声で返事をしその場から立ち去ろうとする。しかし次の言葉に、梅は血の気が引いた。


「お凛!このへんの部屋は全部探したかい?」


 もし今、あの部屋を開けられてしまったら、海は確実に見つかってしまう。なんとかしなければと思うも何も案が浮かばず、絶体絶命の危機に慄いていると、お凛がまるで、梅の隠し事を知っていているかのように涼しい顔で嘘をついた。


「うん、この辺りの部屋全部開けて探したけど、胡蝶姉さんはいなかったよ」

「そうか、やっぱりもう廓の中にはいないようだね。まったく大変なことになったよ!」


 言いながら、お吉は足早にこの場から走り去って行った。お吉がいなくなりほっと胸を撫で下ろす梅に、お凛が寂しげな表情で口を開く。


「梅ちゃん、いつも一人になりたい時開かずの間に行ってたでしょう。だから、多分またそこだろうなとは思ってたんだけど、こんなに長い間戻ってこなかったのは初めてだったから心配だったんだ。でも良かった、梅ちゃんがちゃんと出てきてくれて」


 お凛はきっと、全て気づいた上でお吉に嘘をついてくれたのだろう。

 わかっているのだ、お凛がどれだけ優しい人間か。どれだけ梅を、大事に思ってくれているのか。それでも羨んでしまう自分が嫌でたまらなくて、お凛といると梅は、自分がとても小さく醜い人間に思えて辛くなる。

 そんな時、いつも梅は、子供の頃に戻りたいと思ってしまう。あの頃と同じ気持ちに戻れたら、もっとずっと楽になれるのに…


 申し訳ない気持ちでお凛の顔を見つめながら、梅はふと、海のことを考える。

 海もお凛に会ったら、きっと自分よりもお凛を気に入るだろう。梅の心の醜さに気が付き、もう自分を可愛いと言っくれなくなるかもしれない。他の皆と同じように、お凛に夢中になってしまうかもしれない。

 その不安は梅の中で勝手に大きくなり、梅の心を闇に染めていく。黙り込んでしまった梅を心配そうに見つめるお凛に梅は言った。


「私、この辺の部屋一応全部見て確認してみるから、お凛ちゃんは他の場所を探してみなよ」

「…わかった、またあとでね」


 お凛は物言いたげに梅を見たが、諦めるように目を伏せ、梅の前から去っていく。 

 お凛の後ろ姿を見送りながら、梅は、またもや身勝手な理由で、不誠実な態度をとってしまった自分を恥じる。だが、お凛を海のいる部屋から遠ざけたいという思いはごまかしようがなかった。海に対する独占欲のような感情を、梅はどうしても抑えることができなかったのだ。


 お凛の後ろ姿が見えなくなった後、梅は他の部屋を覗いて誰もいないことを確認する。そして、最後にもう一度、海のいる開かずの間に入っていった。


 疲れていたのか、海は膝を抱えたまま子供のように眠ってしまっている。こんなところで眠っていて、誰かに見つかったらと思ったが、その顔があまりにも心地よさげで可愛くて、梅は海を起こすことができなかった。

 梅は、海の寝顔に唇を落とし、どうか自分が風呂に入ってる間見つかりませんようにと願いながら、その部屋を後にした。




 風呂場は、もう殆ど皆出てしまった後らしく閑散としていた。梅は着物を脱ぎながら自分の身体を見下ろし思わず息を飲む。そこには転々と、紅い花びらのような痕がいくつも残されていた。


 梅は手ぬぐいで自分の身体を隠し風呂へ入っていく。こんなものほかの人に見られたら、絶対に梅のしたことは皆にばれてしまうだろう。

 まだ新造出しの済んでいない禿が男と関係を持ったことを知られたら、お吉や佐知に折檻されるのは目に見えている。


 だが、裸の肌につくその痕をそっと指でなぞった時、梅は、どうしようもなく身体が熱くなるのを感じた。その痕は、自分が海と結ばれた確かな印ような気がして、そう思うと、見つかった時の廓の仕打ちなど、たいしたことではないと思えた。 

 いっそのこと、このまま一生消えずに、ずっと自分の身体に残ればいいとさえ思った。


 梅はすぐに風呂をすませ、急いで海のいる開かずの間へ向かう。しかしそこにはもう、海の姿はなかった。


 その日から、梅は毎日開かずの間に通ったが、海が梅の前に姿を現すことは二度となかった。そして、梅の身体に付いた海の痕もすぐに薄れていき、気が付けば跡形もなく消えていた。

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