第8話

 梅には、落ち込んだ時に向かう所が二つあった。一つは幼い頃、玉楼を抜け出しお凛と一緒に見つけた場所。

 吉原には大門しか出入り口はなく、周りは塀と幅五間もあるお歯黒ドブに囲まれていて、決して逃げることはできない。 

 

 だが、大門と真逆の南側に向かった突き当たり、秋葉権現が祀られた水道尻と呼ばれる場所の長屋を抜けた先に、外の世界が果ての果てまでよく見える土手がある。そこは雑草が生い茂り足場はよくないのだが、梅とお凛は、何か嫌なことがあると二人でそこへ向かい、吉原の外側に広がる景色を飽きもせずに眺めていた。


 そしてもう一つは、やはり幼い頃、お凛と二人で入った開かずの間。梅とお凛の悪戯があってからはお札だけ貼られ、心張り棒はされなくなったが、幽霊の噂も相まり、いまだここに近づくものは滅多にいない。

 初めてお凛と入った時は、薄気味悪いところだと思ったものだが、いつしか辛い事があると、梅はついふらふらと一人ここを訪れるようになっていた。


 今日もまた、梅は千歳屋への挨拶が終わった後、開かずの間を訪れ、堪えていたものを吐き出すように一人嗚咽を漏らす。


 分かっていたはずだ、自分は決してお凛のように器量良しではないこと、お吉や源一郎にさして期待されていないこと。だが小さい頃は、こんなにも暗い感情に支配されることなどなかった。


 どこにいても、美しく注目されるお凛。

 源一郎も、お吉も、佐知も、今回新造出しをしてくれるという千歳屋も、皆お凛に夢中で、梅のことなど見ようともしない。どんなに稽古事が上達しても、そんなもの、全く意味がないとすら思えてくる。今回の千歳屋への挨拶は、梅のそんな気持ちをさらに増長させた。


 お凛のことは今でも好きだ。梅にとって憧れだった佳乃の言葉も、決して忘れてはいない。それでも、この醜い嫉妬のような感情を、どうしても抑えることができないのだ。


 梅は、お凛が千歳屋を心底嫌っていることを知っている。好かれているお凛を、気の毒にすら思っていた。なのに今日、そんな嫌なやつにでも好かれているお凛を、梅は羨ましく思ってしまった。あんな嫌らしい男の気持ちさえ、自分に向けさせたいと思う自分のあさましさに、梅は身震いした。悔しくて恥ずかしくて、どうしようもなかった。


 ふと窓を見上げると、先ほどまで明るかった空は、薄い闇に変わりはじめ、ざわざわと女達の声が聞こえてくる。


(もう夜見世が始まるのかな?)


 梅は皆のところへ戻るため立ち上がろうとしたが、身体は全く動こうとしない。別に、自分が戻らなくても、お凛さえいれば皆困らないし、梅を探そうともしないだろう。思考は、悪い方へ悪い方へと梅を導いていく。

 梅は、床に身体を横たえ暗い天井を見上げると、このまま眠って、いっそのこと一生目を覚ますことができなくなればいいのにと思いながら目を閉じた。




「おい、おい…」


 誰かに呼ばれたような気がして、梅はゆっくりと目を開ける。いつの間に眠ってしまったのか、はっきりとしない意識のなか、ぼやけた男の輪郭が見えて、梅は慌てて飛び起きた。


「源兄ちゃんごめんなさい!私…」


 大声で謝り起き上がると、突然口を押さえられて声が出せなくなる。


「源兄ちゃんじゃねーよ」


 その声は、まったく聞き覚えのない男の声だった。男は梅の口を塞いだまま、梅の身体を羽交い締めするように強く抱きこむ。濃い暗闇の中、男の顔は全く見ることが出来ず、梅は恐ろしさのあまり身体が震えた。


 昔母が言っていた言葉を思い出す。

 悪い事をしたり、醜い心を持つと、鬼にさらわれて殺されてしまうのだという。醜いことばかり考えていた自分を、鬼が殺しにきたのかもしれない。


(ごめんなさいごめんなさい)


 梅は目をつぶり、心の中で必死に謝っていた。


「いいか、これから手をはずしてやるから、絶対に大きな声を出すなよ」


 梅は目をつぶったまま、殺されたくない一心で何度も首を縦に振る。梅の口から男の手がはずされ、梅はおそるおそる目をあけた。

 すると、恐怖心と暗闇で、今までよく見えていなかった男の顔が、窓の外の月明かりに照らされはっきりと梅の目に映し出される。梅は息を呑んでその姿を見つめた。


(この人は本当に男?)


 鬼などではない、その男は、梅が今まで見たこともないような美しい顔をしていた。言葉を発することも忘れてただ呆然と見惚れる梅に、男は怪訝な顔で尋ねる。


「なんだ?俺の顔になにかついてるのか?」


 しかし、その声はやはり男のもので、梅は大袈裟に首を振った。


「いえ、何もついてません、ただ、あまりにも綺麗だったから、本当に男なのかなと思って」


 梅の言葉に、その男は、はあ?というように顔を歪める。


「おまえ、無意識に失礼なこと言ってるのわかってる?男に決まってるだろうどう見ても」「でも、男でこんな綺麗な人、私、見たことなかったから、ごめんなさい、失礼なこと言ってるつもりは全然なくて、ただ…」


 その男の怒っているような口調に、梅は慌てて謝ろうとしたが、突然、唇を唇で塞がれ、びっくりして思いっきりその男を突き飛ばした。


「いって…何するんだよ」


 狭い部屋の中で突き飛ばされ、男は後ろの棚に頭をぶつけてしまったらしく、頭を抑えてその場に蹲まる。


「ご、ごめんなさい、でも、いきなりあなたが変なことするから」

「変なことって?」

「え…だから、口を…」


 梅はうまく説明できず、恥ずかしくて言葉が止まってしまう。そんな梅の様子を見ながら、その男は、ふっと笑う。


「おまえ、可愛いな」

「え?」


 梅は自分の耳を疑った。可愛いなどと男に言われたのは、初めてのことだったから。お凛はよく、梅ちゃんは可愛いよと言ってくれた。昔は素直に嬉しかった言葉も、今ではお凛に言われてもただみじめになるだけだった。

 だがその男の声は、柔肌をやんわりと擽られるように、甘く優しく梅の耳に響いてくる。


「おまえは、可愛いよ」


 その男は、梅の両頬を柔らかく包みこみ、梅の耳元に唇を寄せもう一度囁いた。そのまま梅の目を覗き込むように見つめると、ゆっくりと梅の唇に口付けをし、啄ばむようにやさしく何度も触れてくる。


 今度は、突き飛ばすことができなかった。まるで金縛りにでもあったかのように、その男から目をそらすことも、身体を動かすこともできず、ただ男のされるがままに身を任せる。 

 男の口付けは徐々に深くなっていき、梅は床に押し倒しされる。床にコツンと頭をぶつけ、梅が痛いと声をあげると、男はごめんと言いながら梅の頭を撫でてきた。


「いい?」


 男の問いかけに、梅は何がいいなのかわからず男の顔を見上げた。そんな梅の様子に、男は苦笑いを浮かべる。


「おまえ玉楼の遊女だろ?本当にわかんないの?」


 そう言うとその男は、梅の着物の襟元からするりと手を滑りこませた。梅はびっくりして声をあげたが、男はかまわず梅のそんなに大きくはないが、形のいい乳房に直接触れ、乳首を指先で弄りながら揉むように撫で回す。

 この時、梅はようやく自分が今何をされているのかを理解した。


 佳乃は、好きあった男と女なら誰でもすることだと言っていた。遊女は、たとえ好きではなくとも、お金をもらったらしなくてはならないものなのだと、姉女郎達が言っていた。


 梅がそんなことを考えている間にも、男は梅の身体に手を這わせ続ける。気づけば着物は半分以上はだけ、梅の白くて華奢な肩から細い腰にかけての線は月明かりに照らされ、はっきりと男の目に曝された。

 男は、梅の身体を上から見下ろしじっくり眺めると、首筋から下腹部にかけて、なぞるように指を滑らせる。


「綺麗な身体をしているな、おまえ、年はいくつだ?」

「18」


 感心したように言う男に、梅は咄嗟に嘘をついた。男はそうかとだけ言うと、突然梅の着物の裾をめくり上げ、梅の下腹部に口付けをする。そんなところに口づけされたことなどない梅は思わず声を上げ、制止しようと男の髪を強くひっぱったが、男はやめようとはしない。


 その男の舌は、奥へ奥へと入っていき、今まで感じたことのないどうしようもない快感が梅の身体を蝕んでいく。

 気が付くと、梅は自分でも聞いたことのないような声をあげ、涙を流しながら、もう堪忍してと哀願していた。その快楽はあまりにも強すぎて、女としてまだ未熟な梅にはとても耐えられなかったのだ。


 梅を不憫に思ったのか、その男は身体を起こし梅の顔を覗き込むと、梅の目に流れる涙を親指でそっと拭い優しく笑った。その笑顔があまりにも綺麗だったので、梅はまた、呆然とその顔に見惚れてしまう。


 その男は、梅の手を握り自らの唇に引き寄せると、梅を見つめ、まるで母に置いてけぼりにされた子どものように寂しげな表情で問いかけてくる。


「もうやめてほしい?俺に触られるの、嫌?」


 男を涙目で見上げたまま、梅は首を横に振る。今、気が付いてしまった。

 梅は、名前も知らない、どこの誰だかもわからないこの美しい男に、抱かれたいと望んでいる。年を聞かれ、18だと嘘をついたのは、子供だと思われたくなかったから。自分に触れるのを、やめてほしくなかったから。


 梅は少しだけ身体を起こすと、今度は自から男の唇に口付ける。そのまま男の首に腕をまわし、上目遣いでじっと男を見つめ、掠れた声で懇願した。


「もっと触って、抱いてください…」


 梅の言葉に、不安げな色を浮かべていた男の目が、強い情欲のこもった色に変わる。男は乱暴なほど強く梅の細い腰を抱きよせると、噛み付くように唇を吸い舌を絡めた。


 もう何も考えられない。この男が誰であるのか、なぜこんなところにいるのか、そんなことはどうでもいい。

 ただ、目の前にいる男は確かに今、梅だけを見つめ、梅を求めてくれている。それだけがすべてで、それさえ感じることができれば、他のことなどどうでも良かった。


「あッ…、あ…」


 微かな月明かりだけを頼りに、二人は互いの身体を激しく求めあい、熱のこもった息遣いが、古びた部屋の空気を邪な色に染めていく


 初めて男が中に入ってきた時、梅はあまりの痛さに涙を流した。しかしそれでも、もう梅の口から、制止の言葉が出ることはなかった。 

 梅は男の背中に爪を立て、必死にしがみつき痛みに耐える。その痛みは途中から、身体の芯が疼いてくるような快楽にかわり、痛みを耐えるくぐもった声は、抑えられない嬌声に変わっていく。


 こぼれる汗もそのままに、梅の目の前で揺れているその男の姿は、剛胆でありながら艶かしく美しく、梅はその男の律動に揺られながら、これは夢なのかもしれないと思った。


 朦朧とした意識の中、男はおもむろに繋がった箇所をずらし、今までよりも激しく腰を揺らし始める。その途端、梅の身体はさらに強い快感の波に襲われ思わず声を上擦らせる。


「もう…もうやめ…おかしくなる…」


 次の瞬間、梅の身体は、男から放たれた快楽の歓喜に震え痙攣する。そしてそのまま、闇に引きずり込まれるように意識を手離した。

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