第3話
昼4ツ(午前10時)廓の遅い朝が始まる。座敷の掃除は禿達の仕事だが、佐知が様子を見に行くと、お凛の姿が見当たらない。
「お凛!お凛!まったくあの子は、掃除さぼってどこ行ってるんだか」
佐知がお凛を呼びながら下へ降りていくと、丁度起きてきたばかりの源一郎と居合わせた。
「どうかしたのか?」
「座敷の箒がけを頼んでおいたってのに、お凛ときたらまたどこかへ消えちまって。最近逃げなくなったと思って油断してたらこのざまですよ」
「お凛だったらさっき梅と一緒に廊下を雑巾がけしてたぞ」
「はあ?ったく、あの二人同じところへやると話してばかりでろくに仕事しないからわざと別々にしたのに!」
怒りも露わにお凛の元へ向かおうとする佐知の肩を、源一郎が宥めるように叩く。
「まあ待てや、お凛も前に比べたら大分聞き分けよくなってきたじゃねーか。お凛には俺がきつく言っておくから、上の座敷の掃除は他の禿に頼んでやってくれねーか」
めずらしくお凛をかばう源一郎を訝しげな顔で見上げながらも、佐知は頷き去って行った。
「佳乃姉さんの道中綺麗だったね」
「そうかな?」
「そうだよ、おいらがいた村にあんな綺麗な女の人いなかったよ」
「私は佳乃より梅ちゃんの方がずっと可愛いと思う」
「おい、おまえら!」
他愛のない話をしている梅とお凛の前に、突然源一郎が現われ、二人は慌てて廊下を拭き始める。
「ばかやろー!今頃掃除してるふりしたって遅いんだよ!お凛、おまえは二階の座敷掃除するよう佐知に言われてただろうが!しかも今、花魁を呼びつけにした上に梅のほうが可愛いと抜かしてやがったな!お前の目は節穴か!」
「節穴じゃないもん、本当のことだもん」
口答えするお凛に、源一郎がゲンコツしてやろうとすると、梅が慌てて源一郎の腕を掴んだ。
「ごめんなさい、お凛ちゃんのこと叩かないで」
「なんでおめえが謝るんだ」
「だって、本当にお凛ちゃんの目が節穴なんだもん」
梅の応えになっていない言葉を聞いて、源一郎は思わず吹き出す。
梅を買って以来、顔を合わせば嫌味ばかり言ってきていたお吉が、昨日突然源一郎に、梅を買って良かったと言い出した。いったいどういう風の吹き回しだと思ったら、どうやらその原因はお凛らしい。
お凛は、どんなに高い金を出してでもうちが欲しいと、お吉自ら熱心に交渉して買った子供だ。この玉楼にいる禿の中でも、おそらく一番の器量良しだろう。
その美しさは、玉楼どころか、吉原一の花魁だった夕霧を思い起こさせ、お吉は、この子もきっと夕霧のような花魁になるに違いないと期待していたのだ。
しかし、そんなお吉の期待はもろくも崩れさる。お凛は、夕霧とは似ても似つかぬはねっかえりの乱暴者で、花魁の佳乃や姉女郎達に食ってかかるは、禿達と取っ組み合いのけんかをするはでまったく手に負えない。
特にひどいのは逃亡癖で、夜中に逃げようとするなんてのは日常茶飯事。中でも一番騒動になったのは、佳乃の花魁道中の時のものだろう。
花魁道中とは、その名の通り、美しく着飾った花魁が、禿や新造達を引き連れ吉原の道中を練り歩く、最高級の遊女にしか許されない見せ物だ。
初めて花魁道中に参加することになったお凛は、朝からこんな着物はきたくないと大騒ぎした。それでも、お凛がいるのといないのとじゃ見栄えが違うと、なんとかねじ伏せ、半ば強制的に道中に出したのだが、それが大きな間違いだった。
お凛は道中を歩いている最中に、突然履いていた下駄を脱ぎ捨てると、そのまま大門に向かって全力疾走で走り出したのだ。
その日は佳乃の道中どころではなく、禿が逃げたぞとてんやわんやの大騒ぎ。お凛はあえなく捕まったが、佳乃は顔を潰されたも同然だった。
当然、お凛への折檻は、今までの中で1番きつく厳しいものになったのだが、どんなに厳しい折檻をしても、お凛の逃亡癖は直らない。お吉も源一郎も、このままでは花魁になる前に折檻で死んでしまうのではないかと、ずっと頭を抱えていた。
そんなお凛が、梅が来てから、まったく逃げようとしなくなった。あれほど苦労した花魁道中も、昨日は佐知が「佳乃花魁の道中に、梅がお凛と一緒に出たいと言ってるがどうする?」と聞くと、あっさり着物を着ておとなしく道中に参加したのだ。
お吉は、お凛のあまりの素直な態度に拍子抜けしたが、どうやら梅が原因らしいとわかると、途端に「梅を買ってよかった」と言い出した。
源一郎自身、梅を買う事が、お凛にこんな影響を及ぼすとは全く考えもしなかったが、自分の買い物が役に立った上に、母のお吉に認められ、悪い気はしない。
「お凛、おまえ、昨日の道中はちゃんとしてたらしいな。馬鹿なお前も、やっとここから逃げるのは無理だと気付いたか。言っとくがな、前の道中でおまえがやったことは、花魁に殺されても文句は言えねえくらいのことだったんだ!佳乃花魁だから許してくれたんだぞ、そのことはちゃんと肝に銘じとけ!」
源一郎はお凛を睨みつけ、いつものドスのきいた声で凄んだが、お凛も負けじと源一郎を睨みかえす。この廓で源一郎を睨み返す女など、お凛くらいだろう。梅はそんな二人をおろおろした様子で見守っている。と、不意にお凛が源一郎に向かってにやりと微笑んできた。
「なんだお前急に笑って、気持ち悪いな」
「ふん、なんとでも言えばいいさ。あっちはもうすぐここから出て行くんだからね」
妙に自信ありげな言い方に、源一郎は怒るどころか逆に心配になる。
「大丈夫かお前、折檻されすぎて頭イかれちまったんじゃねえか?」
「違う!梅ちゃんと約束したんだよ!梅ちゃんの父ちゃんと母ちゃんが迎えに来た時、あっちも一緒に連れてってくれるって」
「はあ?梅の両親が迎にくるだと?誰がそんなこと言ったんだ」
「おいらの母ちゃんが言ったんだよ、父ちゃんの病気が治ったら一緒に迎えに行くって、だからそれまで辛抱していてくれって」
梅の屈託ない言葉を聞いて、源一郎は思わず顔を歪める。梅の両親は、娘を女衒に売るとはどういうことなのか理解していたのだろうか?
女衒に売られ、吉原に買われた女は、その時から多くの借金を背負うことになる。今お凛達が着ている着物、食事、調度品、これらのお金を負担しているのは、花魁の佳乃でありこの見世だ。禿の頃からかかったお金は、遊女になったらそのぶんだけ働いて見世に返す。
実際その費用は莫大で、ここから出るには、年季を終えるまで働き続けるか、客に身請けしてもらう以外方法はない。しかし、そんな大金を払って遊女を身請けできる男などそうそういるはずもなく
そのため吉原では、恋仲になった男と心中する者や、駆け落ちしようとする者が後を絶たなかったが、吉原の見張はきつく、駆け落ちは見つかって捕まれば、男にも女にも重い罰が待っていた。一度吉原に売られた女に、ここを出ていく自由などないのだ。
「梅、親に何を言われたか知らねえが、お前もお凛もここから出て行くのは無理だ」
「え?」
「おめえらはな、親に捨てられてここへ売られたんだ。女衒へ売ったってことはな、もう二度と戻ってくるなってことなんだよ」
酷なことを言っていると自覚していたが、源一郎は言葉を止めない。淡い夢は捨てさせ、現実を知らせるのが自分の役目だ。
「考えてもみろ、もし本当にお前らのことをかわいいと思ってたら、赤の他人に子供を売り渡すと思うか?だいたいおめえの親は、おまえがどこに連れていかれるのか聞いてたか?場所もわからないのに、迎にこれるわけねえだろう!」
「江戸だって言ってたもん!」
梅は源一郎の言ってる言葉を受け入れまいと、今にも泣きそうになりながら訴える。
「江戸のどこだよ?江戸っていったって広いんだ、おまえがいる場所なんてわかるはずがない。いいかよく聞け、おまえは親に売られたんだ、売られたってことは捨てられたと同じことだ。迎に行くと言ったのは、嫌がるおまえを説得するための嘘なんだよ。
恨むならおめえを売った親を恨むんだな。こっちは親がいらねえと言っておまえを差し出してきたから買ってやったまでだ」
源一郎の容赦ない言葉に、最初に泣き出したのは意外にもお凛だった。今までどんなひどい折檻を受けても、お凛は決して泣かなかった。そのお凛が、顔を抑えてその場にしゃがみこむと、わんわん声を出して泣き出したのだ。
お凛がこれだけ源一郎の言葉に傷つき泣いているのだから、実際親に売られた梅はもっと大泣きするだろうと思い、源一郎は梅を見やる。
しかし、梅は泣いていなかった。それどころか、今まで見たこともないようなきつい表情で源一郎を睨みつけてくる。
「父ちゃんと母ちゃんは嘘つきなんかじゃない!捨てられてなんていない!絶対に迎えに行くって言ってくれた!約束してくれた!」
「だからそれは…」
「もし場所がわからなくて迎えにこれなくても、おいらは恨んだりなんかしない!自分で会いに行く!佳乃姉さんみたいな立派な花魁になって、おいらが父ちゃんや母ちゃん達に会いにいくんだ!」
言いながら、梅の瞳から涙がポロポロと零れ落ちる。梅がこんなにも激しい口調で源一郎に歯向かってきたのは初めてのことだ。 源一郎は呆然と梅を見つめ、お凛も驚き梅を見上げている。
梅の言っている言葉は、何もわかっていない子供が言う絵空事でしかない。それでも、零る涙を拭いもせずに源一郎を睨みつけるその目には、ただの戯言と笑うことができないような力があった。
(こいつは驚いた。お凛が気が強いのは知っていたが、梅の気の強さも負けてねえ。おどおどした、素直なだけが取り柄な子供かと思っていたがな)
気がつくと、源一郎は自然と口元を綻ばせ笑みを浮かべていた。
「たいした心意気だな。言っとくが、花魁ってのは美しさはもちろん、学もあって華もあって、意地と張りがなきゃつとまらねんだぜ。美しさも学もないおまえが、一体どうやってなろうってんだ?」
源一郎の正論に、梅は途端に威勢の良さを失う。
「綺麗じゃないのはわかってるよ…でも、なってみせる…」
さっきまでの勢いはどこへやら、梅は下を向いて俯くと、小さな声で自信なさげに呟いた。
「おいおいどうした?花魁になって親を迎えに行くとかぬかしてたくせに、もうあきらめたのか?」
「ち…違うよ…」
源一郎は、くってかかろうとする梅の小さい頭をひょいとつかむと、わざと小馬鹿にしたような口調で言い放つ。
「ま、夢見るのは自由だ。せいぜい頑張るこったな」
梅は悔しそうな顔で源一郎を見上げたが、適わないと諦めたのか、そのままプイっと悔しそうに目をそらす。
幼い梅が源一郎に対して反抗的な態度を見せたのは、この日が初めてだった。そして、思えばこの時こそが、後の片鱗を垣間見た最初の出来事だったのかもしれない。
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