第2話
体中が痛い。目を開けると、周りは暗闇でほとんど何も見えなかった。ここはどこだと身体を動かそうとした途端、全身に痛みが走り、お凛は昨夜のことを思い出す。
「くっそー」
朦朧としていた意識が、夜の空気の冷たさではっきりと目覚めていく。お凛は昨日、廓から逃げ出そうとしたところを遣手の佐知に捕まり、散々竹の鞭で叩かれた後、そのままこの木に縄で吊り下げられたのだ。
こんなひどい目にあわされるのは、決して今日が初めてではない。今までにも何度もここから逃げ出そうとし、そのたびに捕まり折檻された。それでも懲りずに逃げようとするお凛に、姉女郎達は呆れたように尋ねてくる。
「お前は馬鹿な子だね、あんだけ痛い目にあってもまだ逃げだそうとするなんて。だいたいここから逃げて一体どこへ行こうっていうんだい?」
どこへ行こうなんてことはなにも考えていないなかった。ただ、ここにはいたくないという思いだけが、お凛の心を駆り立てる。
お凜がここに連れてこられたのは、今から二月ほど前。大好きな父親が死んだ日、父の妹お夕がお凛の家にやってきた。お夕は、母親のいないお凛の家に、時々ご飯を分けに来てくれる優しい人だ。一人で泣いていたお凛に、これからはおばちゃん達と一緒に暮らそうと言ってくれた。だがその日の夜、お夕と伯父の言い争っている声が聞こえた。
「冗談じゃねー!今年は凶作で上に収める年貢もたいへんだってのに、ただでさえ多い子供をこれ以上増やしてどうすんだ!他人の子を食わす余裕なんてうちにはねーよ」
「他人の子ってのはないじゃないか!私の兄さんの子ってことは、あんたの兄さんの子でもあるんだよ」
「うるせー!とにかく弥七に話しつけておいたから、明日お凛を引き渡す。お凛ははねっかえりの強情なガキだが器量はいいからな、もう前金はもらってあるんだ」
「そんな…あんた、あの子は義姉さんが死んだ後、兄さんが男手ひとつで必死に育ててきたんだよ。できれば所帯を持つまで面倒見てあげたいんだよ。女衒にお凛を売ったなんて言ったら兄さんに顔向けできないよ」
「うるせー!決めるのはこの家の主人である俺だ!お凛は弥七に引き渡す、わかったな!」
お凛は耳を塞いで目をつぶる。二人の会話の全てを聞き取れたわけではなかったが、ここにいることはできないのだということだけは理解できた。
次の日の朝、弥七という名の、背の低いずるそうな顔をした男がやってきた。
お夕はずっと下をむいたまま、お凛の顔を見ようとしてくれなかったが、最後にお夕の笑った顔が見たくて、今までありがとうと言った。だけどそれは逆効果で、お夕は泣きながら家の中へ入っていってしまった。お夕を恨む気持ちなど全くない。むしろ、自分のために泣いてくれる人がまだいるのだということが嬉しかった。
長い道中何度も逃げようとしたが、そのたびに弥七に殴られ、連れてこられたのがこの玉楼だった。
「おまえは今日からこの玉楼の子だ。おまえは器量良しだからね、これからお前の世話をしてくれる佳乃姉さんの言う事をよく聞いて、立派な花魁になるんだよ」
そこの女達は、今までお凛がいた村では見たことがないような派手な着物を身に付け、顔を白く塗っていた。花魁と呼ばれている佳乃の、頭に長い棒のような簪をつけ、目が眩むほど煌びやかな着物を纒うその姿は、まるで女の妖怪のようだった。夜になると沢山の男達がやってきて、部屋から大きな笑い声や、時に女の苦しそうな呻き声が聞こえてくる。
恐ろしいところへ来てしまった。ここは、人間の皮をかぶった鬼達の棲家に違いない。このままここにいたら、自分も花魁という名の妖怪になってしまうのだと思うと怖くてたまらなくなり、なんとかここから逃げだすことばかりを考えていた。そんなある日、お凛はここに来て初めて人間の女の子に出会う。
「今日からお前の朋輩になる梅だ、仲良くするんだよ」
遣手の佐知に手を引かれてやってきたその女の子は、少し恥ずかしそうに俯いていたが、お凛がよろしくと言うと、とても嬉しそうに笑った。その笑顔があまりにも嬉しそうだったから、お凛もつられて笑顔になった。
その日、お凛は梅と色々な話をした。ここへ来る前のこと、自分が生まれた村のこと、死んでしまった父親や母親のこと、お夕のこと、友達のこと。
梅は、自分の父親は病気で苦しんでいるけど、自分がこっちで一生懸命働けば薬も買えるし、すぐに元気になるんだと言った。元気になったら、母ちゃんと父ちゃんが梅を迎に来てくれるから、その時は、お凛ちゃんも一緒においらの村へ行こうと言ってくれた。
その夜、お凛と梅は手を握り合って眠った。父親が死んでしまった日から、お凛が不安も恐怖も感じずに、ただぐっすり眠ることができたのは、その日が初めてだった。
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