第3話
「蒼太郎って何かあんまり私の事好きじゃないでしょ」
高校の時に付き合っていた同級生の彼女に言われた一言に、咄嗟に反論ができなかった。
彼女は顔は美人だったし、気の強い性格だからそうやって思ったことを直接言ってくれる子だった。最初に付き合い始めきっかけは同じクラスで、偶然同じ生徒会委員になったから。どちらからともなく告白して、流れで付き合い始めて、キッパリ自分の意見を伝えてくれる彼女と話すのは楽だった。
下世話な話だが、高校生なのでそれなりにやることもやっていたし、喧嘩をすることもほとんど無い。周りからは比較的仲のいいカップルとして見えていただろう。いや、俺自身もそう思っていた。
二人で入ったチェーン店のカフェで彼女はいつもと同じ表情で、世間話をするのと同じ口調でそう言った。
「なんでそう思う?俺はお前と話してると楽しいよ」
「楽の間違いでしょ」
「本当に厳しいこと言うね。俺なにか変な事言ったかな?」
俺の言葉に彼女は途端に眉間にシワを寄せて、明らかに不機嫌なため息を吐き出す。
「そうやって何でも私に聞いて、自分で考えない所が楽してるって言うのよ」
「でも人の気持ちは言葉にしないと伝わらないだろ。勝手な憶測で相手の気持ちを考えたら、絶対に間違いが生じるし、それに」
「それに?何、どうせ時間が勿体ないって言うんでしょ」
俺は、なにか間違ったことを言っているんだろうか。どんどん機嫌が悪くなる彼女に、思わず口を引き結んだ。
「好きならもっと相手の感情にも貪欲になれるのよ。まあ、普通の人間はね」
「・・・」
彼女の言葉を聞いてもいまいちぴんと来なかった。
そしてこの流れから、おそらく彼女の口から出てくる次の言葉は予想出来る。
「別れようか」
想像と寸分たがわず放たれた言葉に俺はなんの抵抗もせずに、彼女のおっしゃる通りすんなりと恋人関係を解消した。
別れ際に先程の『好きならもっと相手の感情にも貪欲になれるのよ。まあ、普通の人間はね』という言葉を思い出し、さっさと帰ろうとする彼女を引き止めた。少しだけ彼女はなにかを期待した表情をしながら、こちらを上目遣いで見遣る。
「俺って普通じゃないと思う?」
質問が終わってから、彼女の望んだ言葉では無かったのか如何にも落胆した様子で彼女は口を開く。
「あなたは普通の男の人だよ」
「そう」
今度こそ俺の腕を振り切って、クリーム色のコートの裾がふわりと翻る。早足で雑踏に消えていく背中を見送りながら、それでもあまり心が揺れていない自分が嫌になった。
どうして彼女をもっと思ってやれなかったのだろう。初めての彼女ができた時は本当に嬉しかったし、ちょっとした仕草が可愛いとも思えた。
考え込んでいると、ふと足元に野良猫が一匹擦り寄ってきたのに気がつく。三毛猫で、わりとすらりとした体格の猫に愛らしさを感じる。
何となく彼女の愛らしさと似ていて、彼女に抱いていた感情は恋愛ではなかったのかもしれないとさえ思える。
するりと猫は足元を通り抜けて、彼女が去っていた方向へと走り去っていった。
◆◇◆
久々に夢を見た。初めての彼女に振られた時の夢だった。
喧しくベッドボードで叫びを上げている目覚まし時計を止め、ゆっくりとベッドから出る。時計は夕方の五時を示していた。
仕事以外で目覚まし時計を使うのは物凄く久しぶりで、起きた瞬間に西日が顔に直撃するのも新鮮な気分だった。おかげであまり良い思い出ではない夢も、洗面台で顔を洗う頃にはすっかり忘れてしまっていた。
ところでなぜこんな変な時間に目覚まし時計をセットしていたかと言うと、全ては今日の朝に隣に住む天使が俺のために味噌汁を作るという信じられないほどの気遣いをしてくれたせいだ。朝起きて、感動してから飲んだ味噌汁は実家の味噌汁と同じくらい美味くて、あまりの美味さに食べすぎて満腹になって二度寝したせいだ。自分でも自堕落な一日だった。
二日酔いもしっかり覚め、久慈くんから借りていた鍋を洗ってそれをジッと見つめる。
「なんか、お返しした方がいいかな」
というのは建前で、鍋を返すついでにもっと久慈くんと話がしたいというのが本音だ。
朝、久慈くんにはっきり好意を抱いていることを自覚した瞬間から、彼に会いたくて仕方がなくなってしまった。いや、もともと一目会ったその日から、次はいつ会えるだろうかと期待してばかりだった。
部屋が隣と分かって、はにかむ顔が可愛くて、調子に乗って飯に誘って、家に連れ込んだ。
半ば無自覚だったにせよあまりに自分らしくない積極性だった。
そこに関しては久慈くんが男の子で良かったとさえ思う。おそらく女の子だったら、凄まじく警戒されていてもおかしくない。
男の子。そう彼は男の子だ。
「はぁ・・・」
そこまで考えて、自分から無意識に零れたため息は信じられない程重い響きを伴う。
きりきりと胃痛が唐突に酷くなる。テーブルにある痛み止めと胃酸を抑える薬を飲み込み、久慈くんの顔を思い出す。
顔が好みかと言われると、今ではどんな表情でも可愛く見えるがタイプでは無かった気がする。自分のタイプの女性は基本的に細面で、ちょっと派手目の顔だった。
性格が好みかと言われると、正直まだ久慈くんの性格が分かるほど話が出来ていないのでそれも違う。もちろんいい人で、一本芯のある意外と男らしいことは間違いないが。
なぜ自分が彼をすきになったか、それは彼が天使だから・・・といいたいところではあるが。あるのだが。天使と、一言で言ってのけるには何だか久慈くんを表すのは難しいとさえ感じる。
「一見天使だけど、蠱惑的な魅力があるから小悪魔?でも、たまに見る疲れきってぼろぼろになった哀愁すら感じる雰囲気は野良の子犬?」
ぶつぶつと独り言を話しながらキッチンをうろついていると、不意にアパートの階段を登ってくる足音が聞こえる。壁が薄いアパート特有の現象だ。
久慈くんが帰ってきたのかと思い、ドキドキしながら玄関へと向かう。ドアノブに手をかけようとして、その足音が隣の部屋を通り過ぎて俺の家の前で止まった。
どくん、と今まで以上に心臓が強く脈打つ。
もしかして、万が一、いや億が一。久慈くんが俺と同じように今日の朝に、互いへの好意に気がついていたとしたらどうだろう。
仕事終わりで、一目でも二目でもいいから会いたいなんていじらしい事を思っていてくれているかもしれない。
インターホンが鳴る。
ドアノブに掛けた手が若干震えていて、自分が信じられないほどに緊張していることに気がつく。ゆっくりとドアノブを回して、扉を開いた瞬間俺は、
盛大なため息を吐き出した。
「すみません。ぽんぽこ宅急便です。折山蒼太郎さん宛に小包が届いているのでお届けに来ました」
「は・・・い。印鑑手元にないんでサインでいいですか」
小包を受け取り、扉をやや乱暴に閉める。
頭がおかしくなりそうなほど緊張した。まだ早鐘を打っている鼓動を諌めながら、次に本物に会う時にこの緊張が隠しきれるか不安にさえ感じる。
深呼吸を二回して受け取った小包を開けると、その中に入っているものを見ていいことを考え付いた。
時計を見るともう午後十時を回るところだった。
今日だけで久慈くんのことを一体何時間考えていたのか自分でも分からない。気がつくと彼が帰って来ていないか、無意識のうちに耳を澄ましてしまっている。
しかし、この時刻になっても久慈くんが帰ってくる気配はなく、心配が先にたってしまう。勿論残業のせいか、もしくは同僚と飲みに行ってるとか、友達と会う約束してるとか色々考えられることは沢山ある。
「彼女、だったら」
彼の口から恋人の話を聞いたことはない。昨日は合コンに誘われたと言っていたから、彼女がいない可能性の方が高いけど・・・断定できる訳では無い。
久慈くんと並んで歩いている可愛くて華奢な女の子を想像すると、胸が苦しくなるのを感じる。
いや、もともとどう考えても年上でおっさんの俺が彼の事を好きになることの方が異常だ。今更ショックなんて受ける方がおかしい。分かりきっていたことなのだから。
机に置いた冷めきったコーヒーを飲みながら、ただタレ流されているテレビを見詰める。
きりきり。
最近流行りの恋愛ドラマが流れていて、胃をねじ切られるような痛みが走る。
きりきり。
痛い。久慈くんと話している時には痛くないのに。
近くにあった痛み止めを残ったコーヒーで流し込み、最後の力を振り絞ってテレビを消した。
「なさけない」
ため息ついでに出てきた声は想像以上にか細くて、俺はそのままソファに寝転がる。
暫くしてから、自分の部屋のインターホンが鳴っていることに気が付いた。またいつの間にやら寝落ちしてしまっていたらしく、慌てて起き上がって玄関の扉を開くとそこには、待ちわびていた久慈くんが立っていた。
しかし久慈くんに会えた嬉しさより先に彼のいで立ちに思わず声を上げてしまった。
「久慈くん。どうしてそんなにボロボロなんだ」
久慈くんの服装自体はカジュアル目なワイシャツにジャケットを羽織った、綺麗なコーディネートだった。しかしその綺麗な服はところどころが破れていたり、ワイシャツに至っては何個かボタンがはじけ飛んでいる。ズボンにも泥なのか砂なのかよく分からない汚れが付いており、何よりも彼の頬が擦過傷の様に赤く擦り剝けて血が出ていることに驚いてしまう。
「あー、なんていうか少し喧嘩してきちゃって。あの。折山さんに一つご相談がありまして」
「えっと…取り合えず中に入って話す?」
「ご迷惑でなければ」
「うん。大丈夫だから。入りな」
迎え入れた瞬間の久慈くんの髪からはいつもの彼とは違う香りがする。ふわりと女性ものの香水と強烈なアルコールの混じった香りに、ぎりりと胃痛がひどくなるのを感じた。
適当に部屋で座り込んだ久慈くんを見てから、軽く濡らしたタオルと水のペットボトルを渡す。
「すみません。連日お邪魔しちゃって」
「それは大丈夫だけど。どうしたの?ちゃんと順を追って話して欲しいんだけど」
久慈くんの表情は酒が入っているとは思えない程にいつも通りの柔らかい微笑みで、なんとなく違和感を覚えた。彼はタオルで自分の顔の傷を軽く押さえながら、ゆっくりと話し始める。
「実は、今日、直接対決をしてきまして」
「直接対決?」
「はい。最近誰かに尾けられているような気がしてて」
「ストーカーってこと?」
俺の言葉に久慈くんは困ったように笑う。
「おそらくは。最初は自意識過剰かなって思ってたんですけど、最近は病院からの帰り道に家まで着いてくる人影があったんです。直接何かをしてくる訳でもなかったんで良かったんですけど、一週間くらい前から家のポストに僕の今日来てた服とか、僕の恋人面した事が書いた手紙が何枚も入れられるようになってて困ってたんです」
「それで、その正体が分かったの?」
「残念な事にそれが前に僕の働いている病院で入院していた女性で、どうやら仕事帰りをつけられて家を特定されちゃったみたいなんです」
何となくその言葉を聞いてぎくりと焦りの気持ちが湧いてきた。久慈くんの仕事をしている姿に恋に落ちてしまった自分としては、その相手の気持ちも何だか少しだけ共感できるものがある。
「それで今日、病院から出たところでその女性に声をかけたんです。これはストーカーだから止めるように伝えたら、彼女泣き出しちゃって…」
久慈くんは今までに見た事の無いような表情をしていた。完全に疲れ果ててうんざりしている、長時間残業終わりの俺と同じ表情だった。
「その子になぜか逆切れされてプロレス技を公道のど真ん中でかけられていたら、気が付いた時にはこんなに惨めな恰好になってました」
「なんて?」
途中から話の内容が全く頭の中に入ってこず、思わず久慈くんの顔を見返す。女の子が逆切れしてプロレス?プロレス技かけられたの?
「リバースネックブリーカーかけられて地面に叩きつけられそうになった瞬間に、通りがかりの人たちに助けて貰いました」
「いや技名が聞きたかったわけじゃないんだけど」
「どうやら彼女アマレス同好会に入っていた様で、あとは見てのとおりです」
その後彼女は周囲の人たちが通報した警察に連れられて行ったそうで、久慈くんも先ほどまで事情を聞かれていたため、帰りの時間が遅くなっていたという事の顛末らしい。
俺は部屋の隅に置いてあった救急箱から消毒薬と大きめの絆創膏を取り出し、久慈くんの隣に腰かけた。
「それで?玄関で言っていた頼み事って何?」
「おそらく彼女に締め技を食らっている時に自宅のカギを落としてしまった様でして。その家に入れないので、一晩泊めてもらいたいんです」
どうりで自宅にも帰らず直で俺の部屋に来たわけだ。
久慈くんは申し訳なさそうというよりは、もう精も根も尽き果てていて完全に縋れるものを探している表情をしている。病院での白衣の天使は面影もなく、なんとなく病院以外で見る久慈くんはいつもこういう疲れ切った表情ばかりしている気がしてしまう。
「俺は構わないけど。カギ大丈夫なのか?そのストーカーに拾われてたりしたら危ないんじゃ…」
「鍵交換の修理業者にも連絡して明日の朝には交換する予定なので大丈夫だと思います。本当は駅前のビジネスホテルにでも泊まろうと思ったんですけど、もう落ち込んだ気分が限界越しちゃって。ビルの窓ガラスに映ってた自分の顔見てたら、無性に折山さんに会いたくなってしまったんです」
思い出すように紡がれた久慈くんの言葉はほとんど独り言の様だったが、俺は思わず彼の顔を凝視してしまった。
今日一日彼に会いたくて仕方なかった俺にはその言葉は飛び上がるほどに嬉しいもので、心臓が痛いほどに緊張の鼓動が聞こえる。
だめだ。完全に俺は久慈くんの事が、恋愛的な意味で好きだ。首筋から冷たいような痺れが伝わってきて、救急箱を持った手が細かく震える。
「俺も」
「え」
「俺も、久慈くんに会いたかった」
虚を突かれた様な表情で俺を見詰める瞳に、不気味なほど真剣な表情の俺の顔が映っていた。
見つめあったままで数分が過ぎたころ、徐々に耳を赤くしていた久慈くんが焦ったように俺から視線を逸らした。
気持ち悪がられただろうか、と衝撃を受けている俺に彼はゆっくり視線を戻す。何かを確認する様に、見定めている様に。
よくよく考えたらそれはお互い様だった様だ。相手の気持ちを量りかねて、同性だからこそ口に出して拒否されてしまった時の溝の埋め方が分からなくなってしまうのではないかと不安になっていた。
「折山さん」
「う、うん」
「俺、前に新宿で折山さんに男女どちらが恋愛対象か分からないって話しましたよね」
久慈くんが話しているのは、俺がゲイバーの前で入ろうか悩んでいた時の事だろう。
「うん。覚えているよ」
「あんな事を言っておいてこんな事をいうのも何なんですけど。もしかしたら僕、折山さんの事が好き…なのかもしれないです」
「お」
俺の口から思わず変な声が漏れた。油断をしていたわけではない。
何となくそういう雰囲気になっているのも気が付いていたが、本当に久慈くんから好意を寄せられているとは思わなかったのだ。
一瞬、これは俺が見ている夢なのではないかと心配になるが、夢の割には部屋の生ぬるい暖房の風を感じるし、彼に気が付かれない様に自分の太腿を抓ったら鋭い痛みも感じる。
これは夢ではない様だ。
「俺は最初から君のこと好きだったから、その、本当に久慈くんが俺の事をそういう風に思ってくれたなら凄い嬉しいよ」
「あ、あの、僕、本当に誰かと付き合った事とかも無くて、その。折山さんの期待を裏切ってしまうかも知れないんですけど…!」
徐々に慌てていく様子の久慈くんを眺めながら、いつもは痛んでいる胃が暖かくなる感覚を覚える。久慈くんの瞳はせわしなく部屋の中を行ったり来たりと、左右上下に泳いでいた。その様子があまりにも可愛く思えて、彼の両手を自分の手で覆うように掴んだ。
一瞬だけ呆けた表情になった久慈くんは、掴まれた手と俺の顔を交互に見てからどうしたらいいのか分からないといった風に太めの眉をㇵの字に下げる。まるで今にも泣きだしてしまいそうな表情なのに、その瞳には何かを期待する色も輝いていて俺の心臓が一際強く拍動した。
ゆっくりと、タイミングを計るように久慈くんの顔に近づいて、半開きの唇に口付けを落とした。
触れてから離し、もう一度、今度は唇の端にキスをする。
先ほど玄関で香ったアルコールと香水の匂いに混じって、久慈くんの匂いがした。洗濯洗剤なのか、彼の使っている石鹸なのかは分からないが優しくてさわやかな香りだ。
唇にあたる柔らかな感覚を名残惜しく思いながらも、ゆっくりと顔を離す。
「そんなまじまじ見られると緊張しちゃうな」
俺がキスをしている間もずっと久慈くんの熱烈な視線は俺の顔に注がれていた。
「はっ!すみません」
久慈くんの顔はもう完全に赤くなっていて、思わずこちらの顔まで熱くなってしまった。最近では高校生でもこれくらいの事では恥ずかしがらないだろう。
「それで、どうだったかな。俺とキスするの嫌じゃなかった?」
握った手に僅かに力が籠ってしまったが、久慈くんはそれにも動じずやや前のめりになりながら答えた。
「全然嫌じゃなかったです。すさまじく緊張はしましたが。その。逆に折山さんは大丈夫でしたか?僕なんか相手で」
「いや俺も、人生で一番緊張したかも。でも、全く嫌じゃなかったよ…あ、そういえば久慈くん今日お酒飲んでるの?」
「え?あっ、もしかして匂いしますか。僕は飲んでないんですけど、さっき言っていた女の子が持ってたワンカップ焼酎をもろにかぶっちゃったんですよね」
「夜道でワンカップもったストーカーにプロレス技かけられてたの?」
想像しただけでもぞっとする光景だ。
そして一息置いてから、俺はなるべく平静なふりをしながら久慈くんの手を離した。
「よかったら、お風呂入ったら?」
この言葉に他意はないと自分の心に言い聞かせながら、なるべく優しくさわやかな笑顔で言葉を紡ぐ。
「確か、新品のシャツもどっかに…」
「あの」
立ち上がろうとした俺の手首を今度は久慈くんが掴んだ。思ったよりも強い力に反射的に久慈くんを見ると、彼はまた耳まで真っ赤にしながらまっすぐに俺の顔を見る。
「折山さんも、一緒に入りませんか」
自分の手首をつかむ久慈くんの手がやけに冷たくて、俺は思わずその誘いに乗っていた。
久慈くんと俺はそれから一言も話さないままで脱衣所でお互いの方を向かない様にしながら、いそいそと洋服を脱いでいく。そういえば誰かと一緒に風呂に入るなんてかなり久しぶりな事に気が付いた。
彼女と付き合ってた頃もシャワーは別々で入ることがほとんどで、取り合えずやる事だけやってその後はのんびりテレビでも見るといった淡白な感じだった。一緒に風呂に入ってイチャイチャするとか、腕枕でピロートークするとかそういうのは何だか面倒くさい印象があったからだ。
最近は彼女も居ないし、というより仕事から帰ってきて烏の行水レベルで適当にシャワーを浴びてから死んだように寝る、というのがルチーンになっていたので他人と風呂に入ろうとしているこの状況がいつもの俺からしてみれば異常なのだ。
しかも相手は男。ちらりと久慈くんの方を一瞬だけ見ると、丁度破れかけたワイシャツを脱いでいる途中だった。脱げかけたシャツの下から白い肌が見えて、まるでのぞき見でもしたかの罪悪感が芽生える。すぐに視線を戻して俺も着ていたスウェットを脱いだ。
「あ」
「え?」
短い声が聞こえて久慈くんの方を見れば、二人の視線が絡まる。
彼も俺と同じように謎の罪悪感に苛まれたのか直ぐに視線を外そうとするので、俺は半ばやけくそになった気分で彼の方に体を向きなおした。
「これから一緒に入るんだから、隠す必要もないよね」
「そっ、そうですよね」
「…そう言いながらどうしてこっち見てくれないのかな?」
すーっと泳いで天井の隅の方を見つめる久慈くんに、思わず顔をしかめる。
先ほど誰とも恋愛をしたことがないと久慈くんが言っていた言葉を思い出して、彼の顔を両手で掴んでそっと自分の方に向けてみた。おずおずと半分泣きそうになっている瞳がようやくこちらを見詰めてきた。
「僕、本当にこういう事の経験がなくて」
「女の子ともしたこと無いの?」
「はい。あ、で、でも一人ではしますけど…」
動揺のし過ぎで俺が想像していなかった言葉まで吐露した久慈くんは、自分が何を言っているのか分かってない様子だった。
「へえ。一人で」
わざと上半身を密着させながら、形のいい耳元に唇を寄せる。つるりとした輪郭を楽しむように触れるか触れないかの位置で喋ると、久慈くんは小さく肩を震わせた。
やはり前言撤回をしよう。俺は確実に、他意をもって久慈くんを見ている。
真っ赤になる久慈くんが可愛くて、こんなに自分の嗜虐心がそそられるとは思ってもみなかった。ゆっくりと彼の耳に軽く口付けると、くすぐったそうに久慈くんが身をよじる。
「いつもは一人でどんな風にするの?ん?」
「はっ!?えっ?あ、いや、その」
彼をみて茹蛸みたいだなんて、頭の片隅に僅かに残っていた冷静な思考が巡る。きっと俺だって傍からみれば明らかに余裕のない、かっこ悪い男に見えるはずだが自分ではもう何が何だか分からない。
もうただただこの目の前の青年を、甘やかして暴いてやりたくて堪らなくなっていた。
お世辞にもあまり筋肉のついているとは言い難い久慈くんの腹を撫でて、彼のズボンのベルトを解いた。擦れる金属と布の音に混じって、少しだけ促迫した久慈くんの甘く囁くような吐息が混ざる。
目の前の耳朶を舐めながら、自分でもじれったく感じるほどゆっくりと彼のズボンを落として下着に手をかける。
「お、りやまさん」
その行為に自分でも信じられない程興奮していた。
しかしここでそのまま事に及ばなかったのはもっと、もっとじっくりと彼の様子を味わいたいと思ってしまう底の見えない程の欲望があったからだろう。
「いじわるしてごめんね。入ろうか」
彼の下着を降ろして、自分も手早く全裸になると引き連れる様に二人で浴室に入って扉を閉めた。
古いアパートのため男二人で入るには狭い浴室だったが、体を密着させながら俺はシャワーのお湯の温度を確認する。最初は水だったそれがお湯に変わって、浴室が徐々に白く暖かな湯気に包まれる。
「久慈くんお湯かけるよ」
「はい、ありがとうございます」
「肌白いんだね。あ、でもここ痣がある」
俺は久慈くんの背後から抱きしめているほど密着し、ゆっくりと彼の白い肌にお湯をかけた。久慈くんの肌は確かに白くて、ほとんど太陽の下を歩いていないのではないかと心配になるほどだった。
しかしその肌を流れていく湯が彼の体の輪郭をなぞりながら落ちていく様は、艶やかで同性の体なのに色っぽさまで感じてしまう。これが贔屓目というやつだろうか。
しかしその彼の脇腹には痛々しい色の青痣が残っている様で、俺はそっと空いている左手でそこを優しく撫でた。
「さっき技かけられた時のかな」
「あ、それはこの前、混乱した患者さんを押さえるの手伝ったときに足がたまたまぶつかって出来たやつなんです」
久慈くんはやや緊張した面持ちのままだったが、先ほどよりは和らいだ表情で風呂場の鏡越しに俺を見詰めた。
「俺よりも折山さんの体の方がきれいです」
特段鍛えている訳ではないが普段から事務処理から、荷物運びから、社内を走り回っているせいか自分でもそこまでだらしない体ではないと思う。しかし久慈くんに言われるほど綺麗な体かと言われると微妙なところであった。
「それは贔屓目だよ」
「…それは、そうかもしれませんが。贔屓目にもなりますよ。好きなんですから」
呟かれた言葉はシャワーが排水溝に流れるみたいに直ぐに消えてしまったが、俺の理性をノックアウトするには十分すぎる言葉だった。
俺はそっと久慈くんの髪に鼻を埋めた。
柔らかな癖毛が頬を撫でるように動いて、また胃の辺りが暖かくなる。
「折山さんといると頭が痛いのが和らぐんです」
「俺も、久慈くんといると胃痛が無くなるんだ」
鏡越しで見る久慈くんの表情は風呂場の熱気で見えにくくはあったが、柔らかく微笑んでいる様に見える。きっと俺も彼に負けないくらいの緩んだ顔をしているのだと、鏡を見なくても分かった。
じゃれるように久慈くんの首筋から肩甲骨にかけてゆっくりと唇を触れさせる。
「ん」
と彼の口から押し殺した声が聞こえたが、シャワーの音で聞こえないふりをして肩口に軽く歯を立ててみる。噛みつくというよりも、前歯で肩の丸みをなぞりながら熱気のためか上気した頬を背後から見つめた。
離れる寸前でわざと音を立てながらその肌に吸い付けば、ようやくこちらに顔だけ振り向いた久慈くんと視線が合う。
またあの期待と不安が入り混じる濃い茶色の瞳が、何かを強請る様に見つめてくるものだから思わず触れるだけのキスを送った。
久慈くんは何も言わなかったが、先ほどのキスの時とは違いゆっくりと男にしては長くて色素の薄いまつ毛が閉じられた。
ああ、なんて可愛いのだろうか。
柔らかな唇を啄んでは離し、溶けいる様な視線を絡ませあう。
「シャワー持っててくれる?」
彼にシャワーのノズルを手渡し、俺は鏡の近くに置いていたボディーソープを手に出した。ふわりと浴室内に広がるのは、いつも嗅ぎなれている香りの筈なのに特別な物のような気さえしてしまう。
それを彼の白い背中から首筋にかけて掌で撫でつける。
なんだか自分でもちょっとアブノーマルだな、なんて思いつつも徐々に塗り広げられる泡に久慈くんが気持ちよさそうな吐息を吐いてくれるのが嬉しくて仕方がない。
背中を一通り洗い終わり、今度は久慈くんの両脇から手を差し入れて、脇腹から腹を同じように洗う。くすぐったいのか、気持ちいのか、柔らかば腹筋が時折ひくひくと震えている。
「あっ」
徐々にその手を胸板の方に滑らせながら、背後からぴったりと密着する。泡を挟んで完全にくっついている肌からは、互いのいつもより高い体温が伝わってくる。
「久慈くん。怖い?」
「いえ。緊張はしてますけど、でも折山さんに触れている所は全部気持ちいいです」
自分より頭半分低い久慈くんを捕えながら聞けば、その声は思ったよりもしっかりとした響きだった。彼のこう言うところが好きだ。
一見して優しく流されやすそうで、その実は意外と意地っ張りな所が可愛くて仕方ない。
その言葉に後押しされるように、ゆっくりと止めていた手を動かして彼の既に固くなり始めている乳首を掠めるように指を動かした。優しく撫でていると、ぴくりと久慈くんの肩が跳ねる。
「ごめん、いたかったかな」
心配になってその顔を覗き込んでみると、ふるふると首を横に振った。
男女関係なく開発もされていない乳首をいじられてもくすぐったいだけかと思っていたが、嫌だっただろうか。
「その、きもちいいです。自分でするより」
「…自分でするの?」
「ひ、ひいてますか…て、あっ…おりやまさん」
ぽろりと零された言葉に思わず悪戯心が湧いて、指先でその突起を弾いてみた。先ほどよりも短く感じ入った声が漏れて、俺は情けないことに自分の性器が徐々に立ち上がり始めている事に気が付く。
もう語彙力さえも失ってしまう程に本当に久慈くんがエロい。
今度は少しつまむように強めの力で押しつぶすと、彼のそこは赤く充血して白い肌から生えてきた小さな花の様だ。
「ん、んん」
「どこまで可愛いんだ。久慈くんは」
泡にまみれた肌を抱きしめながら出てきた言葉は自分が考えていた以上に掠れていて、完全に彼の色香に惑わされている気がした。
泡に塗れた手を肌に添わせて下ろしていくと、今までで一番大きく肩を震わせた。
そこには僅かに立ち上がりかけている男性器があって、思ったよりも抵抗なくそれに触れてしまった自分に驚く。恥ずかしそうに手で股間を隠そうとする耳の裏に唇を寄せながら、ゆるゆると優しく洗うように手を動かした。
そんな弱い刺激でも久慈くんの体は可哀想な程に震えるものだから、壊れ物にでも触るように慎重に手を動かす。
「はぁ…っ」
「立ってるの辛かったら、壁掴まっててもいいよ」
久慈くんが持っていたシャワーノズルを受け取りながら、浴室が冷えないようにお湯は出しっぱなしで壁のホルダーにかける。俺と久慈くんの体に暖かな湯が当たり、とろけている泡を洗い流していく。
「おりやまさん、僕もさわりたい」
「へっ」
今の今まで焦れったい刺激に身をふるわせていた筈の久慈くんが、くるりと向きを変えて俺と向き合う。思わず攻めていたこちらが怯んでしまう程の俊敏さで、思わず変な声が口から漏れてしまった。
こちらを向いた久慈くんは一瞬だけ俺の事をとろんとした瞳で見つめた後に、その視線を下に落としてから硬直する。
「あ、あの。失礼な質問かもしれないんですが、僕のを触って勃ったんですか?」
割りと真剣な表情で聞かれ俺は情けないことに目を右へ左へと泳がせる。こういう時にどう返したらかっこいい男なのかは分からないが、今の俺が明らかにかっこ悪いことは確かだろう。
「うん。そう・・・だね」
「なんか、ちょっと嬉しくなってる自分が居て驚いてます」
「嬉しく?」
「折山さんっていい人だから、本当は僕の気持ちを汲んでこんなことまで付き合ってくれてるんじゃないかって。少し不安だったんです」
眉を下げながら笑う久慈くんに、心臓の辺りがぎゅうと締め付けられる感覚がして今度は前から彼を抱きしめた。目一杯抱き締めてしまったから苦しいかと思ったが、柔らかい腕が俺の背中にも回されて安心する。
ロマンチックな雰囲気が流れかけたが、お互いの腹に挟まれて擦れ合う性器に頭に響くような重い痺れを感じる。それは久慈くんも同じようで、無意識のうちにお互いが緩く腰を動かし始めた。
焦れったい刺激だったが、こちらを見つめてくる深い茶色の瞳が想像以上に挑発的に見える。互いの口から漏れる吐息が、更に興奮を助長させるようだ。
「手貸してくれる?」
お互いに擦り付けていた性器を久慈くんに握らせて、その上から自分の手を覆いかぶせる。
もう何をするのか分かった様で、互いの手がゆっくりと上下に動き始めた。久慈くんはその直接的な快感に、じっと手元を見詰めて吐息を零している。
俺はそんな彼の表情から目が離せずに、ぼんやりと体の芯から湧き上がってくる快感を享受した。
「はぁ、は・・・ぁ」
「っ、ぅ」
初めは探るような動きだった手だが、徐々に強くなっていく動きに双方共もう限界が近い事を悟る。
真っ白になる思考に思わず空いていた腕で、久慈くんの体を引き寄せて絶頂の波に飲まれそうになる感覚を去なす。 恐らく同じタイミングで腕の中の体も強ばっていた為、同時に射精したのだろうと後から気がついた。
「うー・・・」
「久慈くん?」
俺の胸板に顔を押し付けたままで、久慈くんがうめき声をあげる。
「だっ、大丈夫か?」
彼の肩を掴んで顔を覗き込むと、先程よりも真っ赤に茹だっている顔色に俺は慌てて彼を浴室の外に連れ出した。
恐らく浴室の熱気と、射精の余韻で茹で上がってしまったのだろう。バスタオルで適当に体を吹いている途中で、彼と自分の腹にかかっていた精液が視界に入って謎の幸福感を得てしまったのは心にしまっておくことにした。
浴室から出てもまだフラフラしている久慈くんを支えながら着替えを手伝い、ベッドの上に寝かせてやる。
「少し落ち着いたか?飲めそうなら、少しでも水分とりな」
冷蔵庫に入っていた口をつけていない飲料水のペットボトルを引っ張り出し、久慈くんに手渡す。
「ありがとうございます」
それをごくごくと飲んだ後に、茶色い瞳が何かを言いたそうにこちらをじっと見詰めた。
「今までした射精の中で一番気持ちよかったです」
「あのね久慈くん。あんまりそういうの唐突に言わないでくれ。俺もう恥ずかしさと嬉しさでどうにかなりそうだ」
にんまり笑う久慈くんは冗談なのか本気なのか分からない声色で笑うものだから、今度はこっちの顔が茹だってしまった。
一度の射精だけでもう俺たちは引くに引けないところまで来ていた。もともと彼に告白をした瞬間から引く気なんてとうになかったのかもしれないが。
軽くシャワーを浴びてから浴室をでると、あの熱気から解放されて現実感が湧いてくる。
体を拭いている途中で互いの視線がぶつかって、気恥ずかしさが先に立ってしまいほぼ同時に視線を逸らした。
「なんだか不思議な感覚です。つい最近知り合った折山さんと一緒にシャワー浴びて、こうやって近くに居るのが幸せで仕方ないです」
「それは同感だ。俺もあんまり人と接するのって得意じゃないから、あんまりいちゃいちゃするのって好きじゃなかったんだけど。久慈くんとなら大丈夫みたい」
互いに背中合わせで体を拭いていたが、脱衣所の狭さのせいで時折暖かな肌が意図せず触れ合う。
「折山さん、平日だから明日は仕事ですよね」
「そうだね」
仕事、という単語を聞いて今まで浮かれていた気分が、若干落ち込んだのが分かった。我ながらなんてか弱いメンタルなんだ。
「じゃあ、次の機会には続きもしましょうね」
何でもないことの様に言ってくれれば良かったのに、久慈くんの声が少しだけ弱くなった事で俺はその言葉の意味を考えてしまった。
「…えっ!?」
自分の口から出てきた声が裏返る。
慌てて振り返ればいそいそと俺が用意した服を着て、こちらを見ない様にしている久慈くんがいた。いかにも恥ずかしがっている様子は見え見えで、言葉の割に初心な反応を見せるその姿に言葉にできない胸の高鳴りを感じる。
なんだか久慈くんに関しての自分はもう末期だ。何をしても、何を言っても彼の事が可愛く思えて仕方がない。
「…久慈くんってさ、意外とえっちだね」
「う、否定はしません」
「いいんじゃないの。男の子だもの」
俺も持っていたバスタオルを口を大きく開けた洗濯機に投げ込み、そっと久慈くんの水気をぬぐい切れていない頭をなでる。
「俺もおんなじだから」
口元が緩むのが分かった。久慈くんの目にはどんな風に映っているだろうか。
少し驚いた様に見開いた目が此方を凝視してから、また部屋の天井へと視線が泳いでいく。
「折山さんはえっちっていうか、いやらしい感じがします」
「一緒でしょ」
「なんか、大人の魅力があって悔しいです」
「ふーん、そういうものかな。まあでも亀の甲より年の劫っていうくらいだし、素直に甘えておけば?」
両腕で抱きしめれば胸元から消え入るほど小さな声で「そうさせてもらいます」と天使のささやきが聞こえた。
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