第2話
次に彼に出会ったのは次の日だった。
寝ぼけ眼でスーツをやっと着込んで、行きたくもない会社に行こうと部屋を出るとばったりと同じタイミングで彼も部屋から出てきた。
同時に短く声を上げてから、先に声を出したのは彼の方だ。
「おはようございます。昨日はどうもありがとうございました」
「おはようございます。鍵、よかったね。これから仕事?」
彼は如何にも部屋着っぽい服に、上から上着を羽織っているだけで手荷物は何も持っていない。
「あ、今日は遅番で昼頃から仕事なんです。今は飯買いに行こうかと思ってて。おにいさん・・・えっと、折山さんは、お仕事ですよね」
ちらりとうちの表札を見てから、彼は戸惑いつつ俺の名前を口にする。
「そうです。お互い今日は早く帰れるように祈りましょう」
「本当そうですね」
冗談めかした様に言えば彼は、一気に仕事のストレスを感じたようにがっくりと肩を落とした。
言わない方がいい冗談だっただろうか。
考えあぐねていると、不意に自分の腕時計が視界に入り慌てて家の鍵を閉める。
「あ、じゃあ俺はそろそろ・・・」
「すみません引き止めちゃって。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
早足でアパートの階段を駆け下りながら、ふと先程の「行ってらっしゃい」という言葉が再生される。
何だか随分仲良くなった様な気さえしてしまう言葉に、俺は緩む口元を押さえるしかなかった。
その日の仕事は想像以上に早く終わった。
早く、とは言っても定時間を三時間は過ぎたあとだったが、いつもの残業時間に比べたら随分と早く終わったのだ。
荷物を纏めて、そういえば今日は金曜日であることを思い出した。普通の会社はプレミアムフライデーとか何とかで、定時前に帰っているのだろうか。
最近テレビで何かとよく聞く単語を思い浮かべて、たまには自分も息抜きが必要なのでは・・・と思った。
「息抜きか」
ため息同然に漏れ出した独り言に、そういえば最近は息抜きをするなんていう時間も無かったことに気がつく。なんて悲しい事実だろう。
一通り身支度を整えてから、コートのポケットからスマートフォンを取り出し、ネットブラウザの検索窓に《息抜き 男 一人》と入力をしてみた。
息抜きですら携帯に頼らないといけないという事実は情けないが、これくらいしないといけない程に自分は見事な社畜なのである。
画面を見ていると、様々な息抜きの方法が書いてある。
映画、漫画、音楽鑑賞、ギャンブル、風俗。
いまいちピンとくるものが無く、多種多様な記事を流し読みしてると、不意に一つの記事に目が止まった。それはとあるサラリーマンが個人で立ち上げた、以前からよくあるブログだった。
《ゲイバーに飲みに行くと、意外とフレンドリーに色んな話が聞けて面白かったよ》
その記事に、何となく興味をそそられる。
別に自分がゲイであるという認識はなかったが、最近知り合った隣の部屋の彼のことは少なからず気にかかっているところではあったからだ。
そう思いながら家に帰るのとは反対方向の電車に乗り込む。週末のせいかいつもより人通りが多い電車のホームで、少しだけそわそわした気分になる。
勢いで来てしまったが、大丈夫だろうか。
スマホで一番初心者が入りやすい店を紹介しているブログを探し当て、とりあえずはそこを目的地としてゆっくりと気合を入れた。
新宿の駅には多種多様な人々が歩いていて、所々クラブのような音楽が流れている店も見受けられた。
男同士で肩を組んでいる二人組が仲睦まじく正面から歩いてきて、スマホに視線を落としてながら店を探すことにした。
性についてオープンな街だと知識ではあったが、実際に目の前にしてみるとすごく不思議な感覚に陥る。
本当に俺がいつも過ごしている国と同じ場所なのかと言うほど、色も、音も、光もあらゆるものが混在している世界だ。昔、近所の神社でやっていた夏祭りの様な非日常感さえある。
スマホの地図アプリ通りに歩いていると、一見してただの雑居ビルにしか見えない建物の入口に小さな看板が出ているのを見つける。
それはまさに俺が探していた看板だったが、見つけた達成感より入りにくい店を見つけてしまった後悔の方が強かった。
しばらく立ち止まり、雑居ビルの薄暗い壁を見つめるが、決心は固まらない。
そして数分、いやもしかしたら十分くらいそのまま立ち尽くしていただろうか。
俺は、情けないことに店に入らないという決意を固めていた。
くるりとビルに背を向けた瞬間に、いつの間にか俺の真後ろに居たらしい人物にぶつかる。
「わ」
俺も驚いたが、相手も慌てたように短く声を上げた。
そこには疲れ果てている天使が立っていた。
「久慈・・・くん?」
「はは、急に振り向くから驚いちゃいました」
厚手の黒いコートに身を包んだ久慈くんが、人差し指で頬をかきながら微笑む。
幻覚か。
無意識のうちに俺が彼に会いたがっている願望が、知らないうちに幻覚を実体に変えてしまったんだろうか。
「本物ですか?」
「え?あぁ、一応本物です。仕事終わりで、ちょっと飲みに新宿来たんですけど、お店の前で固まってる折山さんみつけて声かけようかと迷ってたんです」
店の前で・・・。
そこまで考えてハッとする。
俺が固まってじっと見つめていたのはゲイバーの入口で、そんな所に長々と立ち止まっていたら入りたいのがバレバレだったのではないかということを。
「こ、これは、その」
「折山さん、ゲイの方なんですか?」
「えっ!!?」
久慈くんは少しだけ真面目そうな表情でじっと店の看板を見つめている。
「あ、いや」
「・・・違うんですか?」
なんと答えればいいのか反応に困る。
ゲイかと聞かれると、今までの俺であれば即座に否定していたと思う。
しかし今現在の俺は、久慈くんの事を可愛いとか天使とか思いながらゲイバーにまで来てしまう様な男なのだ。全くの無実潔白ではないことが、俺の反応を鈍らせる。
「あの・・・久慈くんは?」
彼は看板を見つめていた視線をすっと俺に戻す。どくんと、心臓が一際大きくなり、聞いてはいけないことを聞いてしまったのではないかという不安が込み上げてくる。
「俺は、正直分からないんです」
「えっ」
「あ、いや。なんていうか・・・」
そのまま口ごもってしまった久慈くんに俺は、何か気の利いた事を言わなければという使命感に駆られてしまう。
「その。久慈くんがよければ、飲みに行かない?こんな所で話すのもなんだし」
店の前で話し込んでいるせいか、傍を通る人がちらちらと俺たちの方に下世話な視線を向けていることに気が付いた。
もしかしたらあまり楽し気な雰囲気でないことを察して痴話げんかとでも勘違いしているのだろうか。とりあえず場所を移した方がよいだろうと、俺は久慈くんの手を半ば強引に引くようにアンダーグラウンドな世界から逃げることにした。
速足で歩く俺に戸惑ったような久慈くんの声が付いてきているが、握った手は解かれることはないためそのまま歩き続ける。
しばらくすると二丁目界隈からは脱出でき、新宿駅あたりまで来てしまっていた。どうりで息が切れてきた筈だ。
そこまで来て俺はようやく我に返って背後にいる久慈くんを振り返る。
「はあ、はあ、ごめん久慈くん!俺、君の返事も聞かないで連れてきちゃって」
久慈くんも俺と同じく、肩で息をしているが手は離さないで繋いでくれていた。お互いの掌がじっとりと、熱いような冷たいような汗で湿っていて正直感触は良くない。
それでもその手を離さないのは彼が息苦しそうに、俺の方をじっと見つめてくるからという事にしておきたい。
最初はその視線がここまで連れてきた抗議の視線かとも思ったが、そういう訳ではなさそうな事に気が付く。
「折山さん」
切れた息の隙間から、いつもより低い声が聞こえる。
「歩くの超早いですね」
思いがけない言葉にぽかんとしている俺に久慈くんは、乱れたままの呼吸で肩を震わせて笑い始めた。
くっくっくとまるで漫画に出てくる悪の親玉みたいな笑い方に、意外と邪悪な笑い声なんだなぁと別のところに注目してしまう。
「競歩大会レベルの素晴らしい歩きでした」
「怒ってないのか?」
「いえ、別に。特に用も無かったのでお誘い受けようと思っていましたし」
ようやく邪悪な笑いも、息切れも収まった久慈くんはようやく繋いでいた手をそっと解いてから、ため息をひとつついてみせる。
表情を見つめているがどうやら本当に怒っている様子はないように見受けられる。
「どっか店を入りますか」
新宿駅の近くだから店は沢山あるし、と辺りをキョロキョロ見回している久慈くんをじっと見つめる。
「なんだか、今日はお洒落だね」
「え?」
「あ、いや、決していつもがダサいとかではないんだけれど」
以前家の前で一瞬だけではあるがゴミ袋と勘違いしてしまった時とは、気合いの入り方が違う服装をまじまじと見る。
コートの下はストライプの開襟シャツで、足元は名前は忘れてしまったがそこそこ有名なブランドの革靴だ。
やはり先約があったのではないかと心配になると、彼は困ったように笑いながら小さい声で耳打ちしてきた。
「本当の所、この格好窮屈でしようがないんです」
「え」
内緒話の様に告げられた言葉に久慈くんを見詰めると、彼は俺の手を引いて駅へと向かっている。
「誘ったのは折山さんですから、ちょっと俺のわがまま付き合ってください」
夜の新宿駅は人通りが多くて、先程は気が付かなかったが横を通り過ぎる人がちらりと俺達を伺い見ている。いい歳をした素面の男が二人手を繋ぎながら歩いているのは、随分と不思議な光景なのだろう。
俺は久慈くんの背中を見つめながら、ただ着いていくことしか出来ない。なるべく周囲を見ないようにしながら、意識を彼に集中させた。
最初に会った時に天使に見えたが、その背中には羽が生えている様子はない。いや人間に化けているだけかもしれないが。
繋いでいない左手で彼の背中を触ろうとした瞬間、久慈くんがくるりと俺の方に向き直った。余りの唐突さに固まってしまった俺は伸ばしかけて固まってしまった左手を、どうしようか考えてから何事も無かったかの様に下ろした。
「ここで少しだけ待っててください」
「えっ、ここって・・・」
着いた先は駅に併設されたビルの中に入っている服屋だった。服屋といっても大手チェーンの安価な服を置いている店だ。
店のすぐ外にあるベンチに無理矢理座らされて、早足で自動ドアをくぐる久慈くんの背中を見詰める。
何も考えずに素直に待っていると5分ほどで、久慈くんは上には黒いヨットパーカー、下には緩めのデニムパンツというラフな出で立ちで現れた。
片手には店の少し大きめの袋が握られており、恐らくではあるが先程まで着ていた服はそこに入れられているのだろうと言うことが分かる。
「すみません。お待たせしました。やっぱり、ダメですね。楽な格好じゃないと息が詰まってしまって」
「あのさ、予定もないのになんであんなちゃんとした格好してたんだ?」
先程からずっと気になっていた言葉を久慈くんに投げれば、彼は笑いながら「どうしてですかね」と悪戯に笑ってみせる。その意味が分からずに見詰めていると、彼は俺の手を引いて改札へと向かう。
「えっ」
「うちのマンションの近くに美味い中華屋あるの知ってますか?」
「いや」
「そこ行きましょう」
やけに上機嫌な久慈くんの様子に何も言い返せなかった。折角新宿にいるのに自宅近くの中華屋に行くのかとか、美味そうな店ならそこらへんにもあるとか、もっとオシャレな店の方がいいんじゃないかとか、言葉が何個か浮かんだが久慈くんのSuicaが改札でエラーになったせいで全部忘れてしまった。
電車に乗ってからも上機嫌は続いていて、今に鼻歌でも歌い出すのではないかとさえ思える。そんな姿も可愛くて仕方ないのだが。
「機嫌いいね」
「そうですね。いいと思います」
「理由を聞いてもいいか?」
その質問に彼はにまぁと俺に可愛いのか、不気味なのかわからない笑みを向ける。
「実はですね、本当はこれから予定があったんです」
彼は楽しそうな様子のままで、言葉を紡ぐ。全く焦る様子も無く、至極楽しそうな様子に俺の方がぎゃくに焦りを感じている。
社内のアナウンスが次の駅名を読み上げる声が聞こえて、取り敢えず降りた方がいいか考えていると久慈くんの手が膝に置かれた自分の手に重なった。突然の事にあ、と短い声が自分の口からこぼれ落ちる。
「合コンだったんです。大学の友達に誘われて」
「合コン・・・」
彼の言葉に俺はオウムの様にただ同じ言葉を呟いた。そうか、久慈くんの年なら合コンくらい誘いは沢山あるんだなという常識的な自分と、俺の天使が合コンに参加するなんて・・・という非常識な自分の言葉が頭でせめぎ合う。そして重ねられた手が少しだけ力を強めて来たせいで、年甲斐もなく心臓がバクバクと早鐘を打つのが聞こえた。
久慈くんにはバレないようになるべく平静を装いながら、視線を車内の中吊り広告へと向ける。他に意識をやらないととてもではないが謎の緊張感でいてもたっても居られない。
「本当は行きたくなかったんですけど、実は結構仲のいい友達で。どうしても断れなかったんです」
「その、それなのにすっぽかして大丈夫なの」
「さぁ、どうですかね」
「さぁって・・・」
思わず中身は全然読めていなかった中吊り広告から視線を外して久慈くんを見る。彼はまだ笑いながら暗くなってしまった車窓を眺めている。
「あっ、いや折山さんのせいではないですから、そこは勘違いしないでください。本当に気乗りしてなくて、偶然折山さんに会えた時にはラッキーって思ってしまったくらいでしたから」
ぐるり、と思い出したように俺の方に向き直った久慈くんは、焦ったように言葉を紡いでいく。
久慈くんがこんなに喋るところは初めて見たので、思わず物珍しさに口元が緩んでしまった。
「逆に折山さんの方が心配ですよ。予定とか無かったんですか?お店の前で立ち止まってましたけど」
「あ・・・いや、その」
「あの店」
久慈くんは俺の目をじっと見つめながら、乗せられていた手をまた少しだけ強く握った。
キリキリと隠し事をしていることに対して罪悪感と、鈍い胃痛を感じて息を呑みこむ。
『次は品川、品川、右手側の扉が開きます・・・』
「久慈くん!あの、もう次降りないといけないから」
俺の慌てた声に久慈くんは何か言いかけていた言葉を飲み込んで、さざ波の如く静かに手を引いた。
何を言おうとしたのかは分からないが、疲れ過ぎてゲイバーに遊び半分で行こうとしたと笑い話にするには俺達の間柄はまだ近しくない。いいタイミングで鳴った車内アナウンスに心の中で礼をいいながら、何故か少しだけ早足て電車を降りた。
◆◇◆
目の前のテーブルには、思ったよりも大皿に大量に盛られたチンジャオロースと酢豚。大食い選手権でも始まるのではないかと思う量に目の前に座っている青年を見つめる。
久慈くんに連れられて入った店は家から数百メートルの路地に立っていた、小さな中華屋だった。愛想のいい厨房のおじさんに、壁に貼り付けられた何枚ものメニューの紙、なんだか定食屋みたいな雰囲気だ。久慈くんはニコニコしながら「ここ美味いんです。安いし」とチンジャオロースと酢豚、ビールをジョッキで二杯頼んだ。
確かに紙に書いてある値段は比較的安価で、これで美味いなら常連になる理由も分かるなと納得する。店の中には何個か俺達の座る席と同じテーブル席と、カウンターが五、六個あるだけだ。時間が夜の九時近いことから俺達の他には作業着姿のおじさんがカウンターでビールとつまみを頼んでいるだけだ。
店内を見回していると美味しそうな食材を炒める音が聞こえ始めて、ごくりと喉を鳴らした。すると間もなくしておじさんがビールジョッキ二つと、大皿に盛られたモンスターをテーブルに置く。
もうもうと湯気が立ち上るそれはあまりに量が多い。しかし目の前の久慈くんはニコニコと涎をたらさん勢いで料理を見ている。
「お、多いね」
「安いし、早いし、量多いし、めちゃめちゃいい店ですよね」
「取り敢えず乾杯する?」
お互いにビールジョッキをガチンと当てて一口飲めば、空腹が急激に襲ってきて二人で我先にと皿の料理を食べ始めた。
食レポの経験があるわけでは無いため表現が難しいが、端的に言うと料理はめちゃめちゃ美味かった。空腹のせいもあるかもしれないが、口の中に詰め込んだ料理をビールで流し込む快感が堪らない。
お互い会話もそこそこに貪るように食べ進め、気がついた時には大皿モンスターは全て俺達の胃袋に収まっていた。
「うはー、食ったぁ」
「もう食えない・・・」
お互い限界まで詰め込んだ料理でいっぱいっぱいになりつつ、久しぶりに信じられないほど満たされた自分がいるのに気がつく。
「あー、飯ってこんなに美味いんだね」
「え?」
「いや、何か最近は食事するのも健康管理のために仕方なくって感じだったから」
空腹が過ぎると胃痛が酷くなることが多いし、一度食事を取るのすら面倒になって簡易食ばかり食べていたら職場で倒れてしまい上司にネチネチと嫌味を言われたことさえある。だからこそOLのごとく野菜を中心に摂取するようにしていたが、食事も仕事の一環の様にただ栄養を摂る工程になっていたのだ。
しかし目の前の大皿をこんなに幸せな気持ちで平らげてしまうなんて、本当に久しぶりの事だった。
「実は僕もなんです。最近やっぱり仕事量増えてきてて、帰るのも遅くなってしまうからコンビニ常連になるし、家に帰ると疲れちゃってご飯食べるのも面倒になっちゃって」
「天使も大変だな」
「え?」
「え?」
俺の言葉に久慈くんは呆然としてから、声を上げて笑ってみせた。けらけらと笑う顔色は先程新宿で出会った時よりも血色がよく、見ているこっちが安心してしまう。
「もしかして、白衣の天使って言うことですか」
「あ、ごめん、つい」
ずっと思っていたことを口に出してしまったことに気がついて、俺は慌てつつも否定の言葉は出てこなかった。本当に出会った時の印象が強くて、俺の中では立派な天使なのだ。
久慈くんはまだ堪えきれない笑い声を上げながら、ジョッキに残ったビールを飲み干した。
「こんな飲んだくれの天使がいたら間違いなく神様に怒られちゃいますね」
アルコールのせいかややぼんやりとした焦点でこちらを見つめてくる久慈くんに心の中身を見透かされている様な気さえしてくる。アルコールでやや上気した肌を見ていると、何だかいけない気分になってくるのでそっと目を逸らした。
「そ、そろそろ帰ろうか」
「あー、そうですね。帰りましょうか」
先にトイレに行くという久慈くんを見送って、先に会計を済ませる。年下に払わせるというのもどうかと思い、二人分の会計をした。
「お会計・・・え、折山さん払っちゃったんですか?いくらです?」
「誘ったのは俺だから久慈くんは払わないでいいよ」
「でも」
しばらく財布を片手に思案している様子の彼に、俺の中の計算高い悪魔が笑う。
「それなら、今度ご飯行く時は久慈くんの奢りで頼むよ」
どうしても次の約束をしておきたかった。
アパートの玄関まで戻ると、久慈くんは人好きする笑顔で「まだ飲み足りないですね」なんて言うものだから、俺は思わず玄関のカギを探す彼の手首を掴んでいた。
「あ、うち、この前会社のパーティー出席した時にもらったビールあるんだけど」
よかったらあげようか、という言葉より先に久慈くんは何とも嬉しそうな天使の笑顔で「おじゃましていいんですか」と半ば呂律が怪しくなった様子で返事をした。その笑顔に勝てるはずもなく、その言葉を否定しないままで俺は慌てて自分の家の玄関を開けて彼を家に招いた。
「この前も思いましたけど、折山さんの家っていい匂いがしますね」
「え。くさい?」
鼻をすんすん鳴らしている久慈くんとともに家に入り、さりげな空気清浄機の電源を入れる。
「いや、お世辞じゃなくいい匂いですよ」
「うーん、自分じゃよく分からないな。だってほら、久慈くんの方がいい匂いだよ」
彼に近寄って髪に顔を近づけると、ふわりとシャンプーなのか柔らかい石鹸の匂いがする。何度見てもくせっ毛なのか柔らかい髪がぬいぐるみのようだと思う。明るい茶色だがよくよく見ると根本は黒っぽいので、もともとは黒髪なのだろう。
まじまじと見ていると、不意に髪の隙間から見える耳が赤く染まっていて、動きを止める。
「あ」
「あの」
「ごっ、ごめん!」
「いえ」
あまりの近距離で見た久慈くんの顔は耳だけでなく、顔全体が真っ赤だった。口元を手で覆いながら、彼は俺から視線を逸らす。まずい。近づきすぎて気持ち悪がられたかもしれない。しれないというより、いい歳した男に髪の匂いを嗅がれて気分がいい奴なんていないだろう。
今の時代では匂いを嗅ぐだけでスメルハラスメントなんていう新手のセクハラになってしまう事だってあるのに。
自分の顔が熱い。恐らく久慈くんと同じくらい真っ赤になっているだろう顔を手で覆い隠しながら、なるべく足早にキッチンへと引っ込む。
「…いい匂いだった」
ぼそっと呟いた言葉に我ながら本当にセクハラじみている事に慌てて、冷蔵庫を開ける。ビールを探す振りをして、熱くなった顔を冷やすためにチルド室に頭を突っ込んだ。
少しして缶ビールを両手で持ちながら部屋に戻ると、久慈くんはまだ赤い顔を自分の手で仰いでいた。
「適当に座ってね」
「はっ、はい!」
久慈くんは緊張しながらゆっくりとソファに座る。
その姿をみて思わず俺が噴き出すと、彼は不思議そうに俺の事を見つめる。
「いや、最初に来た時を思い出しちゃってね。ほら、君が鍵無くしちゃった時もそこに借りてきた猫みたいに座ってたから」
「そういえば」
椅子をみて思い出したのか、先ほどまでの緊張の色が少し和らいだのを感じる。缶ビールを手渡すと、久慈くんは一瞬だけ俺の顔を見てからおずおずとそれを受け取った。
「あの、本当に折山さんには迷惑かけっぱなしで。最初の時も、今日だって奢ってもらってしまって。なんてお礼を言ったらいいか」
「俺は君と仲良くなりたかったから、こうやって一緒に飯食いに行ったりできること自体がお礼かな」
「折山さんってモテるでしょう」
「えっ!?」
じと、と少しばかり恨みがましい視線を向けられ俺は思わず声が裏返る。
実際にはこんな目の下に毎日隈を作った草臥れた男がモテるはずはないのだが、何だか久慈くんに言われると想像以上に驚きを隠せなかった。
とにかく久慈くんの様子を見ながら、機嫌の是非を推し量る。何か気に触るようなことでも言ってしまったのだろうか。あんまり怒るような子ではないが何か彼のプライドを傷つけてしまったのかもしれない。
嫌われるかもしれないと思った瞬間に、嫌な汗が手のひらから滲んでくるのを感じた。
俺はおずおずと彼を盗み見ながら、缶ビールを1口飲んだ。
「折山さんが言ってくれる言葉一言一言が嬉しくて、なんかいい匂いするし、なんかふわふわして、頭が痛いのも無くなるし。こんなに人と話してて楽しくなれるのは、きっと折山さんが俺が喜ぶことを言ってくれるからです。ちょっとキザだし」
「キザって・・・」
浮遊感は酒のせいなのではないかという言葉は敢えて飲み込む。久慈くんが俺の言葉で喜んでくれているなんて微塵も考えていなかったせいで、照れている彼の顔を見て口元がにやける。想像していたのは本当に杞憂だった様で、取り敢えず安堵のため息を吐き出す。
ただ久慈くんが言うことも分かる気がした。確かに俺の胃痛も彼といる時はあまり感じない。久慈くんの一挙一動がめちゃくちゃ愛らしくて、自分の胃痛なんて何処かに飛び立っていってしまっているのかも。
「面と向かって言うのも恥ずかしいんだけど、俺も久慈くんといるとなんか・・・楽しい」
緩みきった口元がバレないように敢えてそっぽを向いて言えば、久慈くんは面食らったように呆然としてから持っていたビールを一気に飲み干した。男らしい飲み方に、なぜか対抗心が湧いて俺も持っていたビールを一気飲みする。
「折山さんより、俺の方がもっと幸せ感じちゃってますよ」
「何?久慈くんの可愛い顔みてると俺の方がもっともっと幸せだよ!」
「いやいや、折山さんのイケメンオーラで俺の方が・・・」
酒にはあまり弱くないはずだったが、最近の疲れもあるのか頭はふわふわして確りとした思考ができない。ただ目の前の酔いどれの天使と言い合いをするのがやけに楽しくて、とにかくこのまま楽しい時間が続いて欲しいとさえ考えしまった。
久々に完全に泥酔した俺は、それからの記憶が曖昧で、次に目覚めた時にはもうすっかり日が昇っていた。時計は午前十時を示していて、一瞬だけ仕事の事が頭を過り冷や汗が出る。
「あ、休みか」
ベッドから飛び起きてから、部屋を見回す。
全身がだるい様な二日酔い特有の感覚に苛まれながら、ゆっくりと起き上がる。
あんなに酔っていたのに机の上は綺麗に片付けてあって、空き缶も分別されてゴミ箱に捨てられている。取り敢えず水を飲もうとキッチンまで行くと、小さなメモと一緒に見知らぬ鍋が置いてある。俺の家にはインスタントラーメン専用の銀色の片手鍋しかないが、ちょこんとキッチンに置いてあるのは緑色のオシャレな片手鍋だ。
ひとまずコップで水道水を汲んで一気に飲み干してから、メモ用紙を見る。四角いメモ用紙にはゆるキャラみたいな丸っこいクマが印刷されていて、その中央にやや斜めった文字が書かれていた。
『昨日はありがとうございました。日勤なので挨拶なしですみません。鍵はかけてポストに入れます。あとよかったら味噌汁作ったので食べてください』
メモと鍋を交互に見てから閉まっていた蓋を開く。
冷めてしまっているが美味そうなしじみの味噌汁だった。
「そこら辺の女子よりツボを心得ている・・・」
鍋を火にかけながら、目頭が少し熱くなる感覚がしてキッチンの床にしゃがみこむ。
文房具の企画制作する会社に新卒で入ってからブラック企業であることが分かり、毎日必死に働いた。実家も遠く家族や友人も近くに居ないから誰も褒めてくれる人がいなくて、毎日毎日叱られ続けるのは心を折るには十分だった。胃炎がひどくなって医者に通いだしても、仕事の量は減らず一瞬本当に死んでしまった方が一層のこと楽な気さえした。
年下の男の子に縋りたくなるなんて大人としてどうかと思うが、それでも最近は辛くなると頭を過ぎるのは久慈くんの事ばかりだ。
「俺、絶対に久慈くんのこと好きだよなぁ」
もともとはストレートの異性愛者なのだが、何故だか久慈くんの事を思うと好きというのが一番しっくりくる。まだ会ってから日は浅いが、俺はもう完全にあの天使に落とされている。
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