第30話 決断

「う……」


 静寂を破ったのは、小さな呻き声。

 声の主はハーゲスだった。


 リーズとラウドに緊張が走るが、エンシオが静かに手を挙げ、ここは任せておけ、という視線を二人に送る。


「これは禁じ手なのだが……」


 エンシオはハーゲスに向けて、腕を横に振るった。

 彼を囲っていた水の檻が霧散し、蒸発する。

 エンシオは迷いなく、ハーゲスのもとへ足を踏み出した。


 声は発したが、ハーゲスはまだ起き上がる気配はない。

 エンシオはそんな彼の頭に、そっと手を置いた。

 次いでぷつぷつと口の中で何かの詠唱を始める。


 直後、一筋の閃光が部屋を走り抜けた。


「青年の記憶を操作させてもらった。起きた時には精霊に関することは、きれいに忘れているだろう」

「精霊王様……」


 体内に水分を有する生物全てに、水の精霊は内側から干渉することができる。

 記憶操作は、言わば水の精霊の禁じ手だ。


 あっさりと禁呪を使ってしまった精霊王を、ラウドが苦渋の表情で見据える。


「どうせ牢に入る期間が延びただけだ。気にするな」


 そんなラウドに、エンシオは微笑しながら答える。


 部屋のドアが開かれたのは、その時だった。


「サフィア……?」


 壁に身体を預けながら姿を現したのは、アメジアだった。

 まだ意識が朦朧としているのか、足元はおぼつかない。

 しかしアメジアは、床に伏し眠り続けるサフィアのもとへと、迷いなく向かっていく。


「アメジア。大丈夫か?」


 リーズが慌ててアメジアに駆け寄り、身体を支える。

 そこで初めて、彼女はリーズ以外の精霊の存在に気付いたようだ。


 紫の瞳は、エンシオとラウドの間を交互に移動していた。


「ラウドさん、いつの間に……」

「あぁ、まぁ。ついさっき」


 土の精霊は頭を掻きながらばつが悪そうに呟くと、明後日の方向へと視線を投げた。


「あの、リーズさんにラウドさん。この方は……?」

「……俺達精霊を束ねる、精霊王様だ」

「――!?」


 リーズの返答にアメジアの瞳が揺らいだ。


 アメジアは、エンシオが精霊にとってどれほど絶対的な存在であるかは知らない。

 それでもいきなり『王』という存在が目の前に現れては、萎縮してしまうというもの。

 アメジアの全身が急に強張った。


「此度はそなたにも迷惑をかけてしまった。ただただ、申し訳ない」

「い、いえ……」


 声を詰まらせるアメジアにエンシオは軽く笑いかけた後、顎でサフィアを指した。

 早く彼女の元へ行ってやれ、という意味を込めて。


 リーズの手を借り何とかサフィアの所まで辿り着いたアメジアは、床に広がる少女の白い髪を優しくいた。


「寝ているだけみたいね。良かった……」


 サフィアの穏やかな寝顔を確認したアメジアから、笑みがこぼれる。

 その様子を見ていたリーズは、ある決心をした。


 アメジアに言わなければならないと。


「アメジア……言っておかなければならないことがある」


 顔を上げたアメジアに向けて、リーズはあえて抑揚のない口調で続ける。


「俺の姉貴の魂は、サフィアの中にある」

「なっ――!?」


 アメジアはサフィアとリーズの顔を交互に見やる。

 誰も言葉を発しない。


 その周囲の空気から、アメジアはリーズが言ったことが真実であることを察したのだろう。


「そう……だったのね……」


 小さく呟き、ただ静かに目を閉じた。


 リーズはエンシオへと振り返る。


「あの。精霊王様でも、姉貴の魂はどうしようもないのですか?」


「その娘は鷹の魂と融合してから、かなり時間が経過しておる。すまぬが、私でも……」

「……わかりました」


 エンシオならもしかしたら――という淡い期待は、瞬時に消滅してしまった。

 リーズは唇を噛み、俯くしかない。


 姉は、死んだわけではない。

 だがリーズの知っている風の精霊としての姉は、もういなくなってしまった。


 肉親が、戻ってこない。


 例えようのない悲しみが、虚しさが、リーズの全身を切り裂いていく。


 突然、リーズの背に何かが触れた。

 振り返ると、すぐ後ろにラウドがいた。

 ラウドはリーズの背に手を置いたまま、静かに目を伏せた。


「……大丈夫だ」


 リーズが慰めてくれる親友に答えたその時、アメジアの声が響いた。


「サフィア! 目が覚めたのね。良かった……。怪我はない?」

「アメジア……」


 アメジアの名を囁くように呟いた後、サフィアはアメジアの存在を確かめるかのように背中に手を回す。

 アメジアは自身の身体をぎゅっと抱き締め続けるサフィアを安心させるように、肩をそっと撫で続けた。


 エンシオは視線をサフィアに合わせたまま、この場にいる者に聞き取れるほどの声量で静かに告げる。


「その娘は、完全な精霊ではなくなった。故に、精霊としての責務を全うする義務もなくなった」


 その場に居た者全ての視線が、一斉にエンシオへと集まる。

 エンシオは微動だにせず、表情のない顔で続けた。


「これからは、娘の好きなように生きるが良い。だが一度精霊界に帰ると、今まで通り人間と接触することはできなくなる。こればかりは例外を作ってはならんのだ。今後、娘のような悲劇を繰り返さないためにも」


「…………」


 人間に姿を見せるべからず。


 なぜ、人間と接触を禁ずる法が存在するのか。

 リーズは今、なんとなくだが理解した。


 人間という存在は、精霊にとって魅力的すぎるのだ。

 星の命の流れを手助けするという、精霊としての使命を放り出してでも親密になりたくなるほどに。


 事実、昨日と今日人間に接触しただけのリーズだったが、既に人間に情が移り始めてしまっていた。


「リーズ」


 黙ったまま動かないリーズに、ラウドが促す。


 リーズはそれを受けて、自分を縛っていた見えない鎖を引き千切るかのごとく、サフィア方へ強く足を踏み出した。

 その気配を察したサフィアが、アメジアから少し身体を離す。


「サフィアは、これからどうしたい?」

「私は……」


 リーズの問いに、サフィアは小さく俯きながら声を絞り出す。


「私は、精霊だった時のこと、何も覚えていないの……」

「…………」


「だから私は、これからもアメジアと一緒に暮らしたい。リーズ、ごめんね。私はリーズのお姉さんみたいだけど、でも――」


 そこで俯いていた彼女の顔は、真っ直ぐとリーズに向けられる。

 空色の人口眼には、強い意志が滲み出ていた。


「私はサフィアとして、生きていきたい」

「……わかった」


 はっきりと言いきったサフィアにリーズは一言だけ答えると、そのやり取りを見守っていたエンシオへと向き直った。


「あの、精霊王様、お願いです。アメジアの記憶だけは――」

「それくらい言わずとも心得ておる。安心せよ」


 その言葉を聞いた瞬間安堵したのか、リーズの肩が僅かに下がった。


「リーズ……。本当にいいのか?」


 ラウドがリーズに近寄り、彼にだけ聞こえる声で遠慮がちに尋ねる。


「姉貴が――いや、サフィアがそう言うのなら、俺からは何も言うことはない。俺は姉貴が無事なのかどうか知りたかっただけだし。そして、こうして見つけることができた。俺の目的は達成だ」


「…………」


 リーズは視線を落とした親友の脇腹を、軽く肘で小突き小さく笑った。

 気遣いは不要だと、そんな意味を込めて。


「サフィア。それじゃあここでお別れだ。親父達には俺からきちんと説明してとくから。って言っても、親父達のことも覚えていないんだよな」


「ごめんなさい……」

「謝らなくていい」


 リーズは苦笑しながら、サフィアの白い髪をくしゃりと撫でる。


「アメジア。サフィアをよろしく頼む」

「ええ。頑張って長生きするわ」


「元気でな。……行くぞラウド」

「それじゃあ」


 ラウドが彼女らに向けて微笑んだ後、エンシオが印を結んだ。


 空気が震え、光が天を貫く。

 そして彼らの目の前に現れたのは、大きな光の扉だった。

 精霊界と人間界を結ぶ扉を召喚したのだ。


 エンシオは部屋の隅で倒れていたままだった、娘の身体を担ぎ上げた。

 ぐったりとしたまま動かない彼女の周囲を、青い球体が飛びまわる。


「精霊界に戻ってからだ、ウィーネ」


 エンシオが低い声で言うと球体は彼女の身体から離れ、父の元へと戻った。


 先にエンシオが光の扉を押し開けて進む。

 彼の傍で浮遊していた『ウィーネ』もそれに続き、たちまち彼らの姿は見えなくなった。


 リーズはサフィアとアメジアに対し、軽く微笑んだ。

 それを見てサフィアが口を開きかけるが、上手く言葉が出てこなかったらしい。

 唇を噛み、項垂うなだれる。

 空色の瞳から、透明な液体が溢れ出していた。


(あぁ、大丈夫だ)


 リーズはサフィアのその涙を見て安堵した。


 人間と変わらぬ感情を持つ彼女。

 風の精霊の魂を持つ彼女。


 身体こそ作り物だが、きっとサフィアはこちらの世界で生きていけると、根拠のない確信をリーズは抱いた。


 彼女らに背を向け、リーズは光に向けて歩き出す。

 その後ろからラウドが小走りで追いつき、リーズの横に並んだ。


 サフィアとアメジアは、光の中に消えていく精霊達の背をずっと見つめていた。


 光の中でリーズは思う。

 今、隣に親友がいてくれて良かったと。


 そうでないとおそらく、恥も体裁もかなぐり捨てて、泣き崩れてしまっていただろうから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る