第29話 父と娘

 二人の拳は、ラウドが作り出した巨大な岩の盾が受け止めた。


 生み出されたばかりの岩の盾は両側からの衝撃に耐え切れなかったのか、瞬く間に崩れ去り、早々と役目を終えて消え去っていく。


 突然現れた土の精霊に、ハーゲスは眉根を寄せ、好奇と嫌悪の混じった複雑な表情を向けている。


「戻ってきたのは良いけれど、どうして邪魔を!? ていうか、いきなり真ん前に出てくるな! 危ないだろ!」


 リーズが抗議の声を上げるが、ラウドはそれに応酬する素振りをみせない。

 険しい顔をリーズに向けるばかりだった。


「……オレだけじゃ、ないんだ」

「え?」


 ラウドの言葉に首を傾げたその時、リーズの背後から声がした。


「ラウド。案内、ご苦労であった」


 低く落ち着いたその声は、リーズの顔を強張らせ、全身を硬直させるには充分すぎた。


 なぜ、『彼』がここに居るのか? 


 リーズの頭の中は、一瞬で混乱状態になる。


 錆びた歯車を無理矢理回すように、リーズはゆっくりと声のした方へ首を捻る。


 威厳溢れる佇まいでリーズの後ろに立っていたのは、ウィーネの父親――精霊王エンシオだった。



「精霊王……様……」


 背筋が凍るのは、人間界へ来てから何度目だろうか。

 ありえない存在を前に、リーズはただ尻尾を震わせる。


「ラウド……。何で……」


 リーズは茫然自失の体のまま、親友へと視線を移す。


 リーズの気持ちが理解できると言ってくれた彼。

 ウィーネは精霊王の娘だと教えてくれたのも、彼だ。


 そして精霊王に対し、疑念が消えない様子を見せていた。

『長老に知らせて何とかする』ために、精霊界へと戻って行ったはずだ。


 それなのに。

 なぜ彼は、精霊王と共に現れたのか。

 まさかラウドは、やはり精霊王の命令に従うことにしたのだろうか? 


 リーズの心に黒い波が立っていく。


 そんな彼の心情を汲み取ったのか、ラウドはリーズから視線を逸らす。

 次いで喉の奥から絞り出すような声を出した。


「違うんだリーズ。オレは、全てを終わらせるために精霊王様を連れてきた」

「全てを、終わらせる?」


 ラウドを見るリーズの目から、いぶかしさはまだ消えない。


 そんな二人の精霊のやり取りは、彼らの後ろに佇む精霊王の耳には届いていなかった。


 王としての衣服に身を包んではいるものの、布に覆われていない箇所からは、ウィーネ同様の青い肌が覗いていた。

 まるで海の底を彷彿とさせる顔色。


 その彼の頬を、一滴の水滴が滑り落ちていく。


 精霊王の灰色の瞳は、真っ直ぐとハーゲスを捉えていた。

 彼の奥に『在る』娘を感知していたのだ。


「人間に、精霊の力を与えるなど……」


 寂しげに呟かれたその言葉は、誰にすくわれることもなく、少し冷える部屋の空気に溶けていく。


 精霊王は無言のまま、ハーゲスに向かって右腕を伸ばした。

 ハーゲスの眉が上がる。


 ハーゲスは突如現れたこの精霊が、精霊王だということを知らない。

 ただ、水の精霊を取り込んだハーゲスの内部から、ある感覚が湧き上がってきていた。


 彼は、同属だと。


 精霊王は伸ばしていた腕を、素早く縦と横に振るった。

 部屋の空気を切り裂く、水の破裂音。


 次の瞬間には水でできた檻がハーゲスの周囲に出現し、彼を閉じ込めていた。

 だが、ハーゲスは慌てた素振りを見せる様子はない。小さく肩をすくめただけだった。


「僕も舐められたものだね。こんなもので拘束したつもりかい?」

「一応私も、その子の父親なのでな」


 父親、という単語が紡がれた瞬間、ハーゲスの双眸が見開かれる。


「娘を、返してもらう」


 エンシオは両手を組み、指を複雑に絡ませていんを結んだ。

 直後、ハーゲスの頬に浮き出ていた青白く光る刺青が、さらに激しく発光を始める。


 イィィイイイイイイイイン。


 それはまるで、耳鳴りのような音だった。

 突如部屋中に響き始めたその不快な音に、リーズとラウドは思わず顔をしかめ、両耳を押さえた。


「ぐっ――!? やめ、ろ!」


 音は次第に大きくなる。

 それと同時に、ハーゲスが身体を前に折り曲げ、頭を抱えて呻きだす。その顔は苦悶で歪みきっていた。


「ウィーネ、精霊王として命ずる。帰ってこい」


 エンシオの低く鋭い声が、空間を切り裂いた。直後。


 ゴポッ!


 ハーゲスの口から、青い球体が勢い良く飛び出してきた。

 床に崩れ落ちていく彼の身体は、瞬く間に青を失い、元の人間のものへと戻っていく。


 球体はエンシオの周りを一度だけ一周した後、あとは彼の掌の上でただふわふわと浮遊していた。


 リーズは水の檻の中へと視線を移す。

 ハーゲスは完全に意識を失っているらしい。

 指先一つ動かす気配はない。

 リーズは誰にも聞こえない程度に、安堵の息を吐いた。


 エンシオは意識のないハーゲスと、青い球体を交互に見やる。


「馬鹿な……娘だ……」


 哀れみと、慈愛と。


 交わることが許されていない、禁忌の恋にその身を捧げた娘。

 エンシオは精霊王として、そして父親として、娘に対する複雑な胸の内を吐露した。


「いや。馬鹿なのは私だな」


 その小さな自嘲の声は、静かになった室内に、波紋のように広がった。


「リーズ」


 エンシオに低い声で呼ばれたリーズは、小さく肩を震わせた後、ぎこちなく彼へと振り返った。

 緊張からか、両の拳は強く握られている。


 精霊界を抜け出してきたことへの非難か。

 それともウィーネのことなのか。


 精霊王がリーズに何を言おうとしているのか、彼には全く見当がつかなかったのだ。


「……はい」


「想像以上に、業務引継ぎの準備に手間取ってしまってな。結果として七年もお前を待たせる羽目になってしまった。本当に、すまなかった」


 そして、エンシオはゆっくりとリーズに頭を下げた。


 精霊王のありえない行動に、リーズの理解が追いつかない。


「ちょっ、ちょっと待ってください精霊王様。とりあえずお顔を上げてください。何を仰っているのか、俺には全く――」


「トルスティが行方不明になった原因が我が娘にあると、私は七年前に既に把握していたのだ」

「――――っ!?」


 精霊王の口から語られた事実に、リーズは息を呑み呆然とする。


「そんな……。だったら、どうして……」


「人間との接触。そして同族の魂を抜くという行為。娘が犯してしまった罪はとんでもなく大きい。だから私は部下に命じ、『紡ぎの間』の用意をさせていたのだ」

「なっ――!?」


 紡ぎの間――。


 精霊界のどこかにあるとされる、罪人を閉じ込めるための場所。

 そこは一年が百年に感じられるほど、時の流れが非常に緩い場所であるという。


 これまでにその紡ぎの間に入った罪人は、数えるほどしかいないとされる。

 その扉が開かれる時は、死罪すら温いと判決が出た場合のみだったからだ。


「人間と接触していることを知りながら、娘を止めることができなかった私にも責任がある。だから私も、娘と共に紡ぎの間へと入るつもりだ。私が王の座から引いても問題のないように、業務の引継ぎも済ませてきた。新しい精霊王は長老様が指名してくださるだろう」

「…………」


 そこでラウドが俯いた。

 精霊王が長老の元へ訪れた理由は、そのためだっだのだ。


 精霊王が紡ぎの間に入る――。


 そうなれば当然、精霊界には大混乱が生じるだろう。

 その混乱を最小限に抑えるために、エンシオは今まで念入りに準備をしていたのだ。


「私はこれから精霊界に帰り次第、娘と共に紡ぎの間に入る。出てくるのは数百年後になるだろう」


 大きく穴が空いた天井から風が流れて、この場に立つ者、倒れている者の体を等しく撫でていく。

 生温かい、少し湿りを帯びた風が。


「本当に、すまなかった」


 エンシオは再度、リーズに頭を下げた。

 リーズはそのエンシオに何も言うことができなかった。


 そこまで覚悟をした者に、何も言ってはいけない気がしたのだ。

 自分に許されているのは、この謝罪を受け入れることだけだと。


 しばらくの間誰も動けず、そして言葉を発することもできないでいた。

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