第22話 出会い
※ ※ ※
ウィーネは、彼女がとても気にくわなかった。
ウィーネは精霊王の娘という立場とは関係なく、己の力のみで『選ばれた精霊』になり、人間界へとやって来た。
親が精霊王というプレッシャーは、全く感じていなかった。
彼女は、生まれながらにして強大な精霊力を宿していたからだ。
人間界に来てから十年近くは、極当たり前に、そして懸命に、水の精霊としての責務を果たしていた。
転機となったのは、今から八年前だった。
海の中を巡回していたウィーネはその日、何となく海上に行きたくなった。
そして浮上した彼女は、港へと目をやった。
いつもは全く気にすることなどない人間という存在が、なぜだかその日だけは気になったのだ。
海中にいた自分の真上を、人間の船が通って行ったからかもしれない。
ウィーネにとって人間とは、壁紙の模様みたいなものだった。
たまに目を引く。だが、常に注意を払って眺めるほどのものではない。
その程度の存在だった。
だがその日、ふと目をやった人間に、ウィーネは惹きつけられてしまったのだ。
船の出払った、閑散とした港。
そこに佇んでいた、藍色の髪の青年。
中肉中背で、他にこれと言った特徴もない。
それでも青年の醸し出す憂いを帯びた雰囲気に、ウィーネの目は釘付けになっていた。
どうしてかはわからないが、胸の奥がざわめき、鼓動が早くなる。
ウィーネはこの青年と話がしたい、と思った。
そしてその欲求に、何の
「こんにちは」
突然挨拶の声をかけられた青年は、怪訝な顔でそっと辺りを見回した。
今の挨拶が自分に向けられたものだったのか、それとも勘違いなのか、判断できないでいるようだ。
「ここよ。海の中」
見当違いな方向に視線をやる青年に、ウィーネは自分が居る場所を付け加えた。
声に従って海を見た青年は意外な存在に一驚し、恐る恐る口を開く。
「まさか、人魚?」
ウィーネが想像していたより、青年の声は低かった。
しかし鼓膜を通り抜けるその音は不快ではなかった。
むしろ落ち着き、心地良い。
「いいえ。水の精霊よ」
ウィーネは花のような笑顔で青年に答える。
自分の声に青年が反応してくれたことが、ただ嬉しかったのだ。
「驚いた……。精霊が人間の前に姿を現すなんて……」
青年は呆然とした様子で声を洩らした後、ウィーネの顔を改めて見つめ返す。
「その水の精霊が、僕に何か用なの?」
「あなたと話がしたいと思った。それだけよ」
ウィーネは素直に理由を説明し、上機嫌でくるりと横に一回転した。
青年はぽかんと口を開け、ウィーネのその様子をただ眺めていた。
「どうして、僕に?」
「自分でもよくわからないけれど、あなたに興味が沸いたの。それだけ。私はウィーネ。あなたの名前は?」
「僕は、ハーゲス・フフタ。調剤師を目指して勉強しているんだ」
「調剤師?」
聞いたことのない単語に、ウィーネは思わず聞き返していた。
「薬を調整する職業ってところかな」
「へぇ、薬? 人間って面白いわね。ねえ、あなたの話もっと聞きたいわ」
「僕は構わないけれど、人間に姿を見せても大丈夫なのかい? 精霊って存在は知っていたけれど、決して人の前に姿を現さないって聞いていたものだから。僕はそこが気になるんだけど」
ハーゲスの言葉にウィーネはハッとすると、慌てて顔半分を海中に沈めた。
「あなた以外の人間には見られたくないわ。場所を変えてもいい?」
「今日は時間があるから僕は構わないよ。あっちの倉庫街の裏に行こうか。あそこなら今の時間は人は出払っているだろうし」
ハーゲスの提案に、ウィーネは黙って頷くと海中に潜った。
それから月に何度か、ウィーネはハーゲスとの逢瀬を繰り返した。
今まで全く人間に興味がなかった彼女だが、ハーゲスの話はウィーネにとって全てが興味深く、面白いものであった。
街に住む人間の大人は働き、お金を得て生活していること。
そして様々な職業があること。
エレオニアでは特に太陽を崇拝しているので、家の屋根は全てオレンジ色で統一されていること。
最近は機械の開発も進めていて、人々の暮らしが徐々に便利になっていること――。
会う度に様々な話を聞き、そして話した。
ハーゲスはウィーネの質問に、何でも優しく答えてくれた。
逢瀬を繰り返していく内に、彼女はハーゲスに会える日を、日に日に待ち遠しく思うようになっていた。
そしていつしか、ハーゲスという人間そのものに、ウィーネは心から惹かれていったのだ。
ある日、風の精霊トルスティは、ウィーネを海上に呼び出した。
小麦色の長髪を
その顔は苦虫を噛み潰したかのように険しい。
ウィーネはそんな彼女の表情を、あえて見ないようにした。
「ウィーネ。あなた人間と会っているでしょう」
トルスティは形の良い細い眉を吊り上げさせながら、ウィーネに詰め寄る。
その言葉一つ一つは、とても刺々しいものだった。
「何のこと?」
「とぼけても無駄よ。私見たんだから。ウィーネ、馬鹿な真似はよしなさい。私達は選ばれた精霊なのよ!」
興奮の余り、トルスティの尻尾が逆立つ。
しかし、ウィーネは彼女の態度など全く居に返さない様子で切り返した。
「ちゃんと精霊としての務めは果たしているわ」
「そういう問題じゃなくて!」
ウィーネの返事に、トルスティはさらにいきり立った。
「精霊憲法第三条、人間に姿を見せるべからず! 知らないとは言わせないわ。あなたがやっていることは重大な違反なのよ!? ましてやあなたは精霊王の娘。これがどれほど大変なことか本当にわかっているの!?」
トルスティのその顔は必死そのものだ。
しかし当の水の精霊は、瞳を閉じて涼しげな笑みを浮かべるばかり。
「ウィーネ!」
何も言い返さないウィーネのその態度が、トルスティをさらに刺激した。
風の精霊は苛立ちを押さえきれず激昂する。
精霊達を治める精霊王の娘が重罪を犯したことが知れ渡ると、このままでは極刑を免れない。
トルスティは、心からウィーネのことを案じていたのだ。
「……トルスティ。私は自分の立場はよくわかっているつもりよ」
「それじゃあ――」
「あなたの言うことはもっともだわ。これからは気をつける。変な心配をさせてごめんなさい」
ウィーネの言葉を聞いたトルスティはようやく険しい表情を緩め、胸を撫で下ろした。
「良かった。あなたが捕まるところなんて見たくないもの。もう、あの人間と会わないと約束して」
「……わかったわ」
ウィーネの返事を聞いたトルスティは安堵の表情を浮かべると、空へと戻って行った。
しかしウィーネは、その彼女の後ろ姿を鋭い目付きで睨んでいた。
先ほどの言葉は本心ではない。ただ、これ以上トルスティに追求されるのが面倒だったから、誤魔化しただけだった。
ウィーネは、自分の恋路の邪魔になる要素が――トルスティが、とても気にくわなかった。
それから数ヶ月後――。
風が、
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