後編


 嫌な汗が噴き出して、せっかくの涼しい夜が台無しになるほど体が濡れています。

 お昼ご飯も食べずに眠ってしまったのかと思い、時間を確認して驚きました。


 お昼どころか夕飯も食べ損ね、日付が変わってからもまだ眠っていたからです。

 空には月があり、あと少しで沈みそうな位置にあるため、今から寝直そうにも眠れません。


 祖母が起きる前に目が覚めてしまった私は、お風呂場に行って残り湯を汲むと、タオルを濡らして体を拭き始めました。

 お風呂に入ろうかと思いましたが、田舎の夜は私の住んでいるところよりもずっと涼しく、お湯もそれほどぬるくはなかったので入る気になれません。


 本当はしっかりと浸かって汗を流したかったのですが、機械でお湯を沸かせるとはいえ、それなりの音がするので、眠っている祖母を起こしそうで気が進みませんでした。


 とりあえず体を拭いて、頭から冷めたお湯をかぶると、少しだけ気持ちがよくなります。

 汗が流れてさっぱりしたからか、同時に夢の内容を思い出してしまいました。


 落ちた彼の顔はよく見えませんでしたが、服装から智さんに思えます。

 そして一緒にいたあの女の子は、祖母に見せてもらった写真に写っていた女の子とそっくりでした。


 不機嫌な顔でカメラを見ていたあの子。

 あれは……。


 その時です。

 いきなり玄関の方から物凄い音が鳴りました。


 最初は何の音なのかと思いましたが、服を着替えて近づいてみると、誰かが玄関を叩いている音だと気がついたのです。


 玄関に行くと、ガラス越しに人影が見えます。

 起きた時は午前三時を過ぎたばかりだったので、今はおそらく四時くらいでしょうが、こんな時間に誰だろうと考えていると、玄関の戸を叩いていた人が怒鳴りました。


「開けてよ! いるんでしょ!」


 その声を聞いて血の気が引きました。

 遠い町にいるはずの母の声だったからです。


 昨日の朝に話したばかりでしたが、戸の向こうから聞こえてくるのは間違いなく母親の声です。

 なんで、どうして、という言葉が頭に浮かびましたが、母は近所迷惑など考えていないのか、日が昇り始めた薄暗い時間帯に押し掛けてきて、めいっぱい実家の戸を叩き続けます。


 母の声に目を覚ました祖母が起きてくると、震える私の背中に触れてから、戸の向こうにいるであろう母に声をかけました。


正子まさこかい? こんな朝早くにどうしたの」


 すると戸を叩く音が止み、母が「いるんなら早く返事しなさいよ!」と怒鳴る声がしました。


「こんな朝早くに起きているほうが珍しいじゃないか。御近所さんに迷惑だから、とりあえず落ち着きなさい」


「落ち着けるわけないでしょ! それより早く入れてよ! ったく、これだからあんたは愚図なのよ!」


 怒りのままに戸を叩き始めた母は、痺れを切らしたのか戸を蹴り始めました。

 入れてくれないと思ったのか、戸を蹴破ろうとしているのです。


 これには祖母も驚いて鍵を開けようとしましたが、戸が揺れるのでうまく開けられません。


「早く開けて! ねえ! 開けろってば!」


 ヒステリックに叫んで戸を蹴る母に、近所の人も起こされたのか外がざわめいています。

 ようやく祖母が鍵を開けると、戸を開けて驚きました。

 いつも身なりを整えていた母が、ボロボロの姿で立っていたからです。


 乱れた髪と汚れた服。

 お気に入りだと聞いたことがあるその服装で、母は私を睨みつけているのです。


 どこかで転んだのだろうかと思いましたが、母は祖母を押しのけると、しっかりした足取りで私に近づいてきます。

 その姿をただ見ていると、頬に痛みを感じたのです。


 母に叩かれた。

 そうわかった時には、私は母に、もう一度殴られていました。


「あんた、私に何してくれてんのよ! 今までの仕返しでもしたつもり? おかげでお兄ちゃんは塾を追い出されるし、私も夫も近所から白い目で見られたんだからね! 何か言いなさいよ!」


 母は喚きますが、私には何の事だかわかりません。


「や、やめなさい。何をやってるの!」


 押しのけられて尻もちをついた祖母も、母の異常さに気がついたのでしょう。

 慌てて母の両肩をつかんで引き離そうとしますが、祖母の力ではどうにもできません。

 何かを察した近所の人が玄関先に来ると、騒ぎに気がついた母が玄関の外を睨みつけました。


「……何見てんのよ。あんた達もあたしを馬鹿にしてんの? ねえ、答えなさいよ!」


 私に拳を振り落としてそう言った母に、玄関先にいた人達は肩を跳ね上げます。


 これはおかしい。


 誰もがそう思いましたが、私も誰も、なぜ母がこんな状態になっているのかわからないのです。


 母に再び転ばされた祖母は、駆け寄った隣のおばさんに肩を支えられながら外に出ますが、広い玄関だとはいえ、私の肩をつかんだまま怒り狂う母を刺激できないと、誰も中に入ってはきません。

 どうにかして母を落ち着かせようとしてはいますが、その態度が癇に障るのか、母はますます怒りの形相を強めました。


「……お母さん」


 ポツリとつぶやくと、母は私を見ました。

 ボサボサの髪の間から見える目は恐ろしかったですが、見た目より服は汚れておらず、転んだようには見えなかったので怪我はないようです。

 しかしその顔は腫れていて、頬が特に腫れていることから、誰かに殴られたのではないかと考えました。


「もしかして、お父さんと喧嘩したの?」


 殴られるのを承知で聞きましたが、母は答えません。

 ならば父は関係ないのでしょう。


 私の肩をつかむ手に力はありませんが、視線はいつもより冷たく、いつ殴られてもおかしくはない状況です。

 それでも、こんな騒動に発展している原因が知りたいと思い、私はもう一度聞きました。


「もしかして、お兄ちゃんと何かあった……?」


 瞬間、私は軽く飛ばされました。

 母の拳が頭の横に入り、私は玄関の床に倒れたのです。


 それを見た祖母が悲鳴を上げましたが、私は黙って起き上がりました。

 母はゆっくりと私に近づくと、お風呂上がりで濡れたままの髪をつかみ、持ち上げたのです。


「……お兄ちゃんね、塾のテストで悪い点数をとったの。今まで一度もなかったのに」


「え……」


「お父さんも私もね、それはそれは心配したのよ。だって、今まで一度もなかったんだもの。だから聞いたの。どうしたのって。そしたらね……」


 ゆっくりと合わさる視線が恐ろしく感じられ、私は知らずに唇を震わせていました。

 歯がカタカタと鳴る音が聞こえ、そこでようやく私は恐怖の正体を知ったのです。


「あなたがいるから、お兄ちゃんは成績を落としたんだって。そう言ったのよ」


 母の目は私を映していますが、その視線にあたたかさは一切ありませんでした。


 兄が私のせいだと言った。

 しかもそれは、成績を一度だけ落としたからだというのだ。


 祖母にもおばさんにも聞こえていたのか、二人は私と母を見比べてポカンとしています。

 しかし母だけは真剣で、私の髪をつかむ手をユラユラと動かしては、思い出すように話し始めました。


「……昨日ね、塾でテストがあったのよ。お兄ちゃんは自信満々に解いたんだって。そしたらね、テストで八十点しかとれなかったって言うの。先生にも聞いたけど、間違いは間違いだって言われたらしくてね。お兄ちゃん、怒っちゃったのよ」


 髪が引っ張られて痛かったのですが、母の手は止まりません。

 それどころか揺さぶる手をさらに強め、私の髪が数本抜ける感覚がありました。


「先生のこと殴っちゃったから、家に警察が来てね。警察に連れて行かれたお兄ちゃんが暴れてて、それで聞いたのよ。どうしてそんな事をしたのって。そしたらね、妹が悪いんだって言ったのよ」


 だんだんと母の声に力が篭もってきました。

 髪をつかむ手にも力が篭もり、髪が抜けて痛む頭を押さえるように、私は母の手を上から押さえます。

 しかし、私の抵抗に気づかないのか、それとも気にしていないのか、相当な力で押さえているにも関わらず、母は話を続けました。


「妹の出来が悪いから、僕にもそれが移ったんだって。だから悪い点をとってしまったんだって、そう言ったのよ。だから私はお兄ちゃんに約束したの」


 母の顔が私に近づきます。

 血走った目と振り乱した髪が目の前に現れ、私は息を飲みました。


「だったら、妹を消してくるわってね」


 母はスカートのポケットに手を入れると、ゆっくりと何かを取り出しました。

 パチリという音で姿を見せた銀色の何かに、私も祖母も息が止まる気がしたのです。


 母が持っていたのは折りたたみ式のナイフで、それは父のコレクションの一つでした。


 父は昔サバイバルゲームが好きだったらしく、書斎にかつてのコレクションを置いているのを見たことがあります。

 特にナイフ系は大のお気に入りで、大きな物から折りたたみ式のものまで種類があり、兄にいろいろと教えていた事を思い出しました。


 殺される!


 そう思うのに時間はいらず、とっさに母の胸を押しました。

 いきなりの事で母も対応が遅れ、私の髪をつかんだまま後ろに倒れます。


 腰から転んだ母が痛みでうめく間、私は必死になってつかまれた髪を母の手から引っ張って抜くと、何本もの髪が母の手に残ったのを見ながら玄関の出入り口に向かって走りました。

 見ていた人達によって、引っ張られて外に出されると、ようやく息ができた気がしました。


 何度も深呼吸をして、太陽があと少しで見えるという空を見上げた時、後ろから悲鳴が聞こえたのです。

 それは近所に住むおじさんのもので、彼は手のひらから血を流していました。


 どうやら母がナイフを振り回した時に切られたらしく、取り押さえようとした男の人達はみんな固まっています。

 母はナイフを振り回しながら外に出ると、私を見つけて叫んだのです。


「殺してやる!」


 見た事のない母の形相に驚いた私は、慌てて戸口から飛び出しました。

 道には何人かの村人がいて、私を見て驚いた顔をしています。


 後ろから「待てえ!」と母が追ってくる音が聞こえ、脇目もふらず走りました。


 村にいてはみんなに迷惑をかける。


 ここにいちゃダメだ。


 そんな考えが頭をよぎり、ただただ走ったのです。


 走って走って息が上がり始めた頃、気がつけばあの川沿いの道に来ていました。

 夢と違って砂地になった道は歩きやすく、土手には大きな木もありません。


 夢だと思うほど似ている光景に足を止めると、道の向こうから走ってくる智さんーーいいえ、正太さんを見つけたのです。


 必死になってこちらに走ってくる彼に安心したのか、私は急に足が動かなくなりました。

 昨日のように裸足で駆けてきたのが悪かったのか、昨日の傷口が開いた上に、また怪我をしたらしく、足の裏がひどく痛みます。

 正太さんが近づいてくる姿を見ながら私が微笑もうとした時、背後から母の低い声が聞こえました。


「見つけたわ……」


 後ろを振り向くと、十メートルしか離れていない距離に母が立っていました。

 履いていたヒールはどこかで脱げたのか、足元が破れたストッキングでここまで走ってきた母は、家で見た時よりもずっと恐ろしい姿になっていました。


「あんたがいるからよ。あんたがいるからお兄ちゃんはおかしくなったのよ。だから私は嫌だったのに……出来の悪い子は悪い子にしかなれないんだから……なのにあの人がもう一人欲しいって言うから……だから産んであげたのに……」


 ゆっくりと歩きながら、ブツブツと呟き出した母。

 その姿は明らかに異常で、私は初めて母に恐怖を覚えました。


 痛む足を引きずるように距離を取りますが、母は痛みなど感じていないようで、私よりも速く歩いてきます。

 道の向こうから走ってくる正太さんとの距離も縮まっていますが、それでも母の方が近いのです。


 左には田んぼ、右には急な土手の下にある川、背後には恐ろしい母。

 逃げ道が限られた状況で、それでも正太さんに近づこうと歩き出しますが間に合いません。

 あっという間に距離を縮めた母は、私の服を引っ張って転ばせると、血走った目で叫びました。


「あんたなんか、あんたなんかいなくなればいいのよーー!」


 振り上げられたナイフが太陽にきらめき、私に向かって下りてきます。

 ああ、もうダメだ、と思い目を閉じると、ふとあの夢の出来事を思い出したのです。


 突き落とされた男の子と、突き落としたと思われる母によく似た女の子。

 そこで私は、ある恐ろしい想像が浮かびました。


 瞬間、私は誰かに突き飛ばされました。

 思わず目を開けると、追いついた正太さんは私に手を伸ばし、私は宙に投げ出されていました。

 正太さんの背中には振り下ろされたナイフが見え、あと数センチで刺されるところです。


「危ない!」


 自分の状況を忘れてそう叫ぶと、彼は優しく笑いました。


「大丈夫。俺が守るからーー」


 落ちていく体と遠ざかっていく彼。

 振り下ろされたナイフが彼の背中に刺さったのを見て、私は川の中へと落ちたのです。


 上から見ているとそうでもないように思えましたが、落ちてみてその危険さがよくわかりました。

 体にまとわりつく冷たい水をかき分けて、どうにか水面に顔を出しましたが、重く速い流れに自由を奪われて、また沈んでいくのです。


 何度も何度もそれを繰り返し、どうにかバランスをとって目を開けると、土手の上にいる二人を見ようと顔を上げました。

 しかし、そこにいたのは小さな女の子です。


 一人きりで土手の上に立つ彼女は、両手を突き出した状態で私を見下ろしています。

 太陽の光が強すぎて顔はよく見えませんが、小学生くらいの彼女は、たしかに私を見下ろしているのです。


 この光景は見たことがある。


 私はあの土手の上にいて、そして彼が突き落とされるのを見たんだ。


 あの夢を思い出した私は、どうにか助けを呼ぼうと口を開けます。

 しかし水が入るだけで、声を出せば出すほど体が沈んでいくので、しだいに叫ぶ力も無くなっていきました。


 溺れ出した自分に焦りを覚え、土手の上に立つ彼女に手をあげて知らせようとしますが、彼女はいつの間にか突き出していた両手を下ろして、静かに私を見ていました。

 私に気がついているのは明らかですが、何もしない様子から、私はそこではっきりと気づいてしまったのです。


 私は彼女に殺される。


 それは確かなことでした。


 泳ぐ力がなくなって沈み始めると、彼女は土手沿いに下流へと歩いて行きます。

 その様子を流されながら見ていましたが、彼女は何も言わず、私の方を見ようともしません。

 途中で誰かが見えたので、最後の力を振り絞って声を上げますが、女の子はその人に声をかけると話し始め、まるで私の存在を気づかせないようにしているようでした。


 その姿から理解しました。


 彼女は私を……いえ、智さんを殺そうとしているのだと。


 そのまま流れに呑まれた私は、口に入ってくる水に抵抗できないまま、意識を失ったのでした。




 気がついたのはベッドの上でした。

 真っ白い天井に消毒液の匂いがして、ゆっくりと首を動かしてみると、驚いた顔のナース服を着た女性と目が合ったのです。

 彼女は数秒だけ驚いて固まっていましたが、気がつくとすぐにナースコールを押して、私が意識を取り戻したと誰かに伝えたのです。


 それからは質問の嵐で、担当医だという先生と数人のナース、そしてその後には警察の人まで現れて、次々と私に質問してきました。


『具合はどう?』


『川に落ちた時に何か見た?』


『この人が誰か知ってる?』


 矢継ぎ早に聞かれて混乱していましたが、冷静なナースが一人いて、その人が間に入ってくれたことでどうにか乗り切ることができました。

 冷静なナースは高橋さんといい、十年以上の経験を持つベテランだと茶目っ気を交えて説明してくれて、大騒ぎしていたみんなに変わって、あれからの事を少しだけ教えてくれました。




 母が私を殺しにきた前日、兄は塾のテストで八十点台をとりました。

 その日のテストは特に難しく、応用問題が多かったテストだったので、平均で六十点台だったというのですが、いつも満点を取っていた兄は納得できなかったのでしょう。


 採点をした塾の講師に文句を言ったところ、いつもと同じ勉強ばかりしていては成績が伸びないという話をされ、最近勉強がうまくいっていなかった兄は切れてしまったのだといいます。

 勉強だけが取り柄で、勉強ができない人を馬鹿にしていた兄にとって、テストの結果は信じられないものだったのでしょうが、だからといって暴力が許されるわけではありません。


 案の定警察に捕まった兄は、両親に切れただけだと正直に原因を説明できるわけもなく、苦し紛れに私のせいだと言ったのだそうです。

 両親が私を嫌っている事を知っていた兄は、普段から見下している私を鬱陶しく思っていた事もあり、逃げるように遊びに出かける私を懲らしめてやろうと考えたようで、私がいるからテストの成績が悪かったなどという嘘を思いついたのだそうです。


 父は少し疑ったようですが、兄を溺愛していた母はそれを鵜呑みにし、父の書斎から折りたたみ式のナイフを持ち出すと、タクシーで実家まで来て私を襲ったのだと言っていたそうなのです。

 母の頬にあった腫れは、ナイフを持ち出す際に父親と口論になり、止めようとした父が殴ったものでした。


 母は玄関先で暴れ、止めに入った男性数人を切りつけた後、私を追いかけて川まで走り、そこで私を殺そうとしました。

 しかし、急に現れた男の子に邪魔されてしまい、私を庇ったその子を殺そうとしましたが、その男の子の顔を見た母は狂ったように叫んだといいます。


 母を追いかけてきた人の話だと、ナイフで刺されそうになった私を川に突き飛ばした男の子がいて、母はその子の背中にナイフを突き立てました。

 その後で、男の子の顔を見た母は急に叫びだし、それからはずっと何かに怯えているそうなのです。


 私は落ちてから数時間後に下流で発見され、流されている最中に岩にでもぶつけたのか、片足を骨折していました。

 命に別状はありませんでしたが、話はそれだけで終わらなかったのです。


『この人に見覚えはありませんか?』


 警察が見せたのは手描きの似顔絵で、そこに描かれていたのは正太さんーーいえ、智さんの方でした。

 はっきり似ていると判断できるような絵ではありませんでしたが、とりあえず知っていますと答えると、どんな人で、どこで知り合ったのかを詳しく聞かれたのです。


 話せるだけの事は話しましたが、実は正太さんの姿を見た人は祖母と私以外にいなくて、さらにはとんでもない事実が判明したというのです。




 祖母の家から一番近い大きな病院に入院した私には、村の人から様々な差し入れが届きます。

 その中にあったいくつもの新聞社で発行されていた過去の新聞には、私達に関する事件が大きく掲載されていました。


“静かな田舎で見つかった過去の骨。犯人は被害者の親戚か?”


 一番有名な新聞に掲載されていた殺害未遂事件は、そんな見出しから始まっていました。

 兄の成績に納得がいかない教育ママの暴走だとか、妹を蔑ろにしていた虐待家族だとか、週刊誌などでもいろいろと叩かれているようなのですが、この新聞には、余計な感情が入っていない事件の詳細が載っていました。

 



 ーー今から三十年以上も前。

 私の母がまだ小学生の頃にまで遡るその事件は、黙って村を出た少年の話から始まります。


 少年の名前は智といい、誰よりも頭が良く、人思いの優しい人だったそうです。

 彼には年の近い姪がいて、その姪は愛想が悪く、母親を亡くし父親にも捨てられた子供として、村中から噂されていたそうです。


 智はそんな姪でも可愛く思い、時間があれば構っていました。

 いずれは村を出て、良い学校に行くか就職するだろうと噂されるほど出来の良かった彼は、それでも姪を可愛がり続けたそうなのです。


 智は成長し、中学校を卒業する頃に村を出ていく事を周りに伝えていました。

 荷物も既にまとめていて、卒業してしばらく経った頃に、『俺は近いうちに村を出ていく』と言っていたそうで、みんなが彼の独り立ちを応援していました。


 そんなある日、智は突然いなくなりました。

 最後に彼を見たという姪の話によると、見送られるのが恥ずかしいから黙って出ていくとだけ伝え、一番可愛がっていた彼女にだけは川沿いの道まで見送りを頼み、それから出て行ってしまったのだそうです。


 川沿いで彼女に会ったおじさんに、たしかに女の子がいたと証言された事で姪は信用され、以来、智の姿を見た人は誰もいません。

 連絡一つ寄越さない彼を怒る人もいましたが、連絡を寄越さないほど幸せなのだろうという人もいて、結婚して子供が生まれれば挨拶に戻ってくるだろうと、みんなは今か今かと待っていました。


 しかし、その日は結局訪れなかったのです。

 私が母に追いかけられて川に落ちた後、村中の人と警察の人が懸命に捜索してくれた結果、私は無事に保護されました。


 しかし私を見つけた時、私の姿を見た人は全員悲鳴を上げたそうです。

 下流で腰から下が水に浸かった状態で発見された私ですが、その体には抱きつくように白骨死体が覆いかぶさっていたそうなのですから。


 現場はパニックになりましたが、どうにか白骨は外されて私は病院へ行き、骨は警察が持って行きました。

 調べた結果、白骨死体は十代後半の男性で、死後数十年は経っているとわかり、怯える母に尋ねたところ、過去の事件が判明したというわけなのです。


 母は叔父である智さんにコンプレックスを抱いていて、ずっと彼を嫌っていました。

 村を出ていくという話を聞いた母は、用事があるからついてきて欲しいと頼み、智さんを川沿いに連れ出すと、これまでの本音をあらかた話して突き飛ばしたそうなのです。

 すぐに溺れると思っていたそうですが、智さんはなかなか沈まず、川沿いの道を歩いてきた男性に声をかけて誤魔化しつつ、自分のアリバイを作ったというわけなのでした。


 当時の母にしてみれば、それほど計画を練ってはいなかった事でしょう。

 小学生の頭脳で出来る事など限られていますし、ただ運が良かっただけなのかもしれません。


 母の企み通り、智さんは黙って村を出て行った事になり、子供が少なくなった村で、母は誰とも比べられる事なく大人になりました。

 そして夢だった高学歴の相手を見つけ、結婚し、父親に似た優秀な息子を産んだのです。


 しかしそこで誤算がありました。

 夫はもう一人子供が欲しいと言ったのです。


 母は優秀な息子がいれば十分でしたが、夫は納得せず、もう一人を望みました。

 そして私を身篭もり、母は私を産んだのですが、母とそっくりな顔で生まれた私は、かつての母のように育っていったのです。


 無愛想で勉強がそれほど出来ず、いつも叔父と比べられていた自分に似ていく娘に、母はますます兄を可愛がるようになりました。

 兄は母の理想通りに成長していき、あと少しで有名大学に合格できるという時に暴力事件を起こしたのです。


 とうとう母の夢は実現できなくなり、それなのに、かつての自分によく似た娘は普通に生活している。

 しかも大嫌いな実家にいるのですから、母の妄想は過激になりました。


 娘が悪い。


 娘がいるからだ。


 そんな考えが暴走した結果、兄の嘘と重なって何かが壊れてしまったのでしょう。

 自身も息子と同じく、殺人未遂の現行犯で捕まってしまったのです。



 

 この時に知ったのですが、兄は暴行事件ではなく殺人未遂事件として罪に問われる事が決まっていました。

 講師への暴力があまりにもひどく、あと少し遅ければ死なせていたかもしれないと判断されたからだそうで、その事を母が知ったのはタクシーに乗り込む直前だったそうです。

 警察からの電話でその事を知り、息子の人生はもう終わりだとでも思ったのでしょうが、結局は母も同じ形で自分の人生を狂わせてしまったのですからどうしようもありません。


 足を捻挫した祖母と再会した時に、母の様子を聞きましたが、面会は出来るもののまとな会話はできないと言われました。

 母に切りつけられた人達の怪我は浅かったそうで、私が目を覚ます前に仕事に戻ったと言われましたが、彼らの元に父が謝罪に行く事はついにありませんでした。


 父は私のところに一度も顔を出しませんでしたし、母の裁判が始まる前に離婚届を提出したらしく、私の気持ちが落ち着いた頃にはもう父親では無くなっていたのです。

 どうやら父には好きな人がいるらしく、お見舞いに来てくれた母の友人だという人の話から、離婚してすぐ、その人と再婚したらしいと教えてもらいました。


 教えるかどうか迷っていたと言われましたが、不思議と嫌だという気持ちはなく、むしろ縁が切れてホッとしたくらいです。

 それから父とは完全に縁が切れ、きっともう二度と会う事はないでしょう。


 退院後、私は一度だけ祖母の家に行きました。

 町にある私の家に戻れず、他に頼れる親戚もいませんでしたが、祖母に甘えるつもりはありませんでした。


 昔から私の家族が迷惑をかけて、しかも今回は怪我人まで出してしまったのです。

 村人達にも顔向けできないと説明しましたが、それでも祖母は私を引き止めてくれました。


 数日の滞在で終わらせるつもりでしたが、祖母の涙を見ると離れがたく、そのまま一週間以上はいたと思います。

 それから少ない荷物をまとめて、家族の分まで村人全員に謝罪をし終えると、迎えに来てくれた人と一緒に村を出たのでした。


 村を出る時、いつもなら山側を通ります。

 そちらの方が舗装された道があり、車も通行しやすいのですが、この日だけは川沿いの道を通ってもらいました。


 祖母に別れを告げ、見送ってくれた村人達に頭を下げながら向かうのは、犯罪加害者家族の一時避難所です。

 風潮から、被害者の家族であれば同情されるのに、加害者側の家族は攻撃対象にされてしまいやすいため、身を守るための一時的な措置だと警察から説明されました。


 避難所といっても、どこかの施設に行くのではなく、警察官の家族や関係者の家に匿ってもらうもので、行き先は到着するまで教えられません。


 車を運転している人は加害者家族の保護団体を名乗る組織の一人で、どこからどう見ても普通の女性でした。

 彼女と一緒に長い時間をかけて移動するのですが、村を出ると顔を見られないようにずっと頭を下げていなければならないため、私は後部座席に座りながら最後のわがままを口にしたのです。


『村を出る時に、川沿いの道をゆっくり走ってください』


 女性は例の白骨死体の事を知っているので、複雑な表情を見せましたが、私の真剣さが届いたのかうなずいてくれました。


 村を離れて川沿いの道に入ると、約束通り車はゆっくりと走り始めました。


 川は以前と変わらない様子ですが、流れは相変わらず速いのでしょう。

 激しい水音が聞こえ、落ちた時の感覚が蘇ってきました。


 女性は運転しながら私を気遣ってくれますが、それでも私は川から視線を逸らしませんでした。


 ここで智さんは亡くなったんだーー。


 そう考えると、全てが繋がった気がしたのです。


 似た顔を持つ二人は、実は一人で、私の前に現れた正太さんは、すでに亡くなっていた智さんだったのだと思います。


 母に似た私を見つけたから復讐に来たのか、それとも昔可愛がってくれていた祖母に会いにきたのか、どんな理由であれ、彼は私の前に現れました。

 そして祖母にも姿を見せた事で、生きていると思われていた智さんの孫だと思われたのでしょう。


 あれから警察は智さんの事を調べましたが、どこにも生きていたという記録は残っていませんでした。

 彼の就職先だった会社はすでに倒産していて、彼らしき戸籍の人も誰一人見つからなかったそうなのです。


 母の証言から、推測を踏まえた上で出した結論が、智さんは母によって川に突き落とされた後に溺死し、何らかの理由で川のどこかに沈んでいて、白骨化して時間が経った頃、川に落ちた私が偶然、彼の遺体と一緒に下流まで流されたのではないかというものでした。


 この事件は、教育ママの殺人未遂と同じくらいの衝撃で世間に広まり、忘れ去られかけた過去の殺人事件として、たくさんの新聞の一面に載ったりもしました。


 しかし、なぜ三十年以上も昔に川に落ちた彼の遺体が、今になって見つかったのか。

 それもほとんど完璧な白骨死体として、私に抱きついていたのか。


 それについては誰もわかりませんでした。


 一部では、智さんが私を川に引きずり込もうとしただとか、自分の死体を見つけてほしかったからだとかと騒がれましたが、その骨は今、祖母の手によって実家の墓に入れられ、家族と共に眠っています。


 彼の事を思い出すと、今でも胸がドキドキします。

 母の叔父である彼に、私は恋をしたのかもしれません。


 川沿いを走る車は徐々にスピードを上げ、あっという間に川の横を通り過ぎて行きました。

 振り返ってみても、もう見えない川は、音すらも遠くになってしまっています。


 窓を開けて顔を出すと女性に叱られましたが、これが最後だからと話を無視して川の方を見ました。

 すると車が通ってきた道の向こうに、人影が見えたのです。


 目を凝らしてみると、それは白と黒の服を着た男の子だとわかりました。

 彼は手をあげるとゆっくりを左右に振り、遠ざかっていく車を見送っているように見えます。


 私も手を上げて振り返すと、彼は少しだけ手を振るリズムを崩しましたが、それからずっと、姿が見えなくなるまで手を振ってくれていました。

 彼が見えなくなってからも手を振り続けた私は、遠ざかる彼の姿に涙が出てきました。


 人がいる場所まで手を振り続けた私は、さすがに女性に怒られ、後部座席で横になるとゆっくりと目を閉じます。


 小さい頃から私を受け入れてくれた村の景色や村人達の笑顔。


 亡き祖父が見せていた優しい笑み。


 そして祖母が最後に見せた泣き顔。


 そのどれもが二度と会えないものばかりです。


 最後まで私を気遣ってくれた優しい人達に、私は涙が止まりませんでした。

 次々と溢れてくる涙を拭わずに流しながら、運転を続ける女性の後ろ姿を見上げるだけで、もう二度と昔の自分には戻れないのだと理解したのです。


 誰にも言えない初恋を思い出に、私は全てに別れを告げました。



 

「ーーこうして女の子は、誰も自分を知らない場所に引っ越すと、たくさんの人に助けてもらいながら幸せに暮らしましたとさ」


 布団を叩く手を止めて顔を覗き込むと、いつの間にか娘は眠っていました。

 もう小学生になるのに、珍しく愚図った娘に話をねだられ、懐かしい思い出話を聞かせたのですが、途中で眠くなってしまったのか、私が離れても起きる気配はありませんでした。


「……まったく、いつまで経っても赤ちゃんみたいねえ」


 特別に甘えん坊というわけではないのですが、こうしてたまに甘えたがる癖があるため、そんなところも可愛いと思ってしまうのは母親だからでしょうか。

 娘の部屋を出てリビングに戻ると、夫がコーヒーを片手に新聞を読んでいるところでした。


「もう寝たのか?」


「ええ、やっとね」


 私の分を受け取って飲むと、夫は娘の駄々っ子状態を思い出したのか笑います。

 私も釣られて笑いますが、夫は私に視線を向けて手を握ってきました。


「……今日ね、あの子に昔話をしたの。もちろん私の話だって事は伏せて、とある女の子の話だって言ってからね」


「そっか。それでどうだった?」


「もちろん、途中で眠っちゃったわ。念のために最後まで話したけれど、あの子には難しかったみたいよ」


 夫の手を握り返すと、彼は優しい笑みを浮かべて「そうか」と呟きました。


 娘に話しながら思い出した、かつての故郷。

 私が保護されいる間に祖母は亡くなり、母の実家は取り壊されたと聞きました。


 兄は裁判中に自殺を図り、そのまま精神病院へ入院。

 母は裁判前の検査で精神面に問題があると診断され、そのまま病院へ連れて行かれたといいます。


 現在でも二人は入院患者ですが、良くなったと判断されればすぐに裁判が始まるそうです。

 それがいつになるのか、一生始まらないのかは誰にもわかりません。

 法律などによって二人は裁かれないままですが、だからといって罪が消えたわけではないので、二人がきちんと罪を償わない限り、私も加害者の家族として動けないままなのです。


 あれから時間が流れ、私は引っ越し先で友達を作り、同じ土地で就職して夫と出会いました。

 結婚して娘が生まれましたが、今では忘れ去られようとしているあの事件は、いつニュースに取り上げられるかわからない状況です。


 たまに連絡される二人の容態は、少しずつですが回復してきているといいます。

 医師達の判断で、もう入院は必要ないと判断されると、これまで止まっていた裁判が始まってしまうのです。


 夫は知っている事ですが、娘は私の過去も、私の家族の事も知りません。

 いつ何があっても良いようにと、いつかは話そうと思っていますが、なかなか決心がつきませんでした。


 今日こそはと寝る前のお話で聞かせましたが、ほとんど覚えてはいないでしょう。

 夫は私を気遣ってくれますが、今でも不安で仕方がありません。


 私は夫の肩に頭を置いて呟きます。


「あの子と離れたくないな……」


 夫は私の頭に手を当てて、優しい笑みで答えました。


「あの子なら大丈夫だよ。君に似た強い子だ。君の過去を知ったって、時間が経てば受け入れてくれるさ」


「ふふ。そこは“すぐに”じゃないのね」


 夫らしい慰め方に笑うと、彼は私の顔を覗き込んで言いました。


「大丈夫。俺が守るから」


「……ありがとう」


 涙を浮かべて彼に抱きつくと、彼も背中に腕を回して抱きしめてくれました。


 思い出すのは川沿いの道で突き落とされた記憶。

 大好きだった彼が私を助けてくれた、暖かくて優しい記憶です。


 夫の背中をつかみながら、私は心の中で彼に言いました。


『さようなら、私の初恋。叶わない恋だったけれど、せめてお友達でいる事だけは許してね』


 あの車の中で、保護活動団体の女性の背中を見ながら思った言葉を思い出しながら、私は夫から離れて微笑みました。

 夫も優しく微笑むと、私の頬に手を当てたので、その手に頬ずりをします。


 今でも思い出す初恋の彼。


 友達として別れたあの日から、私は今でも恋をしています。


 目を開けると、夫は不安げな目をして私を見ていたので、もう一度背中に手を回して抱きしめました。


「君は昔から変わらないね。甘え癖は誰に似たんだろうね」


「そうかしら。あなたも変わらないわよ」


 二人で笑い合いながら温もりを感じ合うと、彼は呟きました。


「君と出逢えて良かったよ」


 私も彼に呟きます。


「私もよ。出逢ってくれてありがとう」


 結婚して子供が生まれて、今まで私を支えてきてくれた夫。

 彼の広い背中を撫でると、ある部分に出っ張りと窪みを感じます。


 そこを中心に撫でていると、彼はすねた声で「またやってる。そんなに気に入ってるの?」と聞くので、私は「撫でやすいからよ」と答えます。

 お互いの体温を感じながら、夫は私を強く抱きしめました。


「ーー生きていてくれてありがとう」


 その言葉に涙が出そうになります。


 彼と出会うまで、私はずっと一人で戦ってきました。

 友達にすら本当のことを話せない中で、彼だけは私を受け入れてくれたのです。


 本当の自分を唯一知っている彼は、私を抱きしめながら何度でも無事を確かめるので、私はいつもこう答えます。

 そして、心から微笑むのです。


「私こそ、助けてくれてありがとう……さとしーー」




 私達の本当の名前はお互いしか知りません。

 “友達”はいなくなってしまいましたが、それ以上に大切な“彼”を手に入れられたので、私はもう過去に戻るつもりもないのです。


 兄と母の精神状態が安定するまでの平穏ですが、それでも私は構いません。

 大切な家族といられれば、私はもうじゅうぶんなのですから。

 

 失ってしまった大事な“友達”。

 けれど、彼は私のところに戻ってきてくれました。


 もう“友達”はいませんが、私には大切な“夫”がいます。


 私は今も恋をしています。

 記憶の中の“彼”と、今目の前にいる“彼”に。


 だからさようなら、もう逢えない“人”ーー。




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もう逢えない人(分話版) 逢雲千生 @houn_itsuki

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