中編


 次の日、終わった課題を鞄に詰めると、持ってきていたスマホが鳴りました。

 旅行に行った友人からの連絡で、大量の写真と共に「お土産期待しててね」という言葉で締め括られていました。


 友人の家族は大所帯で、祖父母の他に両親と七人の兄弟がいます。

 にぎやかで羨ましいと言った事はありますが、本人はうるさいだけだと言いつつも、こうして一緒に過ごす写真を見ると、それが本音ではないのだとわかるのです。


 私も「期待してるね」と返信すると、既読のマークがついたのでスマホの画面を落としました。

 夏休みの宿題はすでに終わっているので、後は自由時間です。

 何をしようかと思いながら一階に下りると、朝ご飯の準備をする祖母が笑顔で「おはよう」と言ってくれました。


「今日は久しぶりにパンにしたよ。食パンしかないけど、好きなジャムを塗って食べてね」


 家から少し離れた所にある祖母の友人は、お嫁さんが焼いたという食パンを村中に配ることで有名です。

 お嫁さんは昔パン屋でアルバイトをしていたらしく、彼女が作るパンはどれも、手作りらしい優しい味がしました。


 パンと一緒に作ったというジャムは何種類かあり、それも全てお嫁さんの手作りです。

 私は、めったに出会わないママレードとラズベリーのジャムを塗って食べると、そのままでも美味しいパンがなおさら美味しく感じられました。


 私の家では、母が兄にかかりきりだったため、渡されたお金で買ったインスタント物しか食べていなかったので、白いご飯と味噌汁だけでも嬉しく感じる事があります。

 祖母は「質素な食事でごめんね」と言いますが、いつも一人で食べている私には、祖母と一緒に食べるご飯は何でも美味しいものでした。


 お腹が膨れると、祖母は地元の婦人会というものに行ってくると言って出かけてしまいました。

 婦人会というのは、地元のお母さんや奥さん達が有志で集まり、村や町などで行われるイベントの食事などを作る組織のようなものらしいです。

 他の町や村にもあるそうですが、私の村では年に数回、男性達の間で大きな飲み会が行われるので、その時の配膳係を行うために、話し合いをするのだと聞いていました。


 祖母を含めた、村の婦人会メンバーの平均年齢は六十八歳。

 一番若い人でも五十四歳だそうなので、ここでも高齢化のあおりを受けているのだそうです。


 人手が足りない時には、働きに出ている若い女性に頼む事もあるそうですが、だいたいは何も言わなくても手伝いに来るそうなので、そういう気遣いはさすがだなと思っています。

 祖母の楽しみでもある婦人会の集まりは、必ずお昼をまたぐので、今日のお昼ご飯用にとおにぎりを握ってもらい、私は祖母を見送りました。


 一人になったので出掛けられなくなりましたが、出掛けたところで遊び相手などいません。

 地元の子供達とは年齢が合わず、下はよちよち歩きで、上は高校三年生、小学生はいますが中学生の子は去年でいなくなってしまいました。


 たとえいたとしても、地元の子供達の輪に入れなかったので、何年も通っているのに打ち解けてくれない私を、子供達は遠巻きに見るようになっていたので、遊ぶことなどないでしょう。

 幼い頃に何度か遊びに誘われた事はありますが、田舎の遊びを知らなかった私は断り続け、すっかり気まずくなってしまったからです。


 人付き合いが苦手なほうではありませんが、知らない土地で知らない人に一人で立ち向かうのには勇気がいります。

 せめて一度くらいは……と思ってはいましたが、今はもう諦めてしまいました。


 祖母が帰ってくるまで母から出された課題でもやろうか、それとも暇そうな友達に連絡を入れて話し相手になってもらおうか、とあれこれ考えていると、後ろから「こんにちは」と声をかけられました。

 驚いて振り向くと、そこには昨日の男の子がいたのです。


「驚かせてごめんなさい。戸口が開いていたから、誰かいるのかと思って入らせてもらいました」


「あ……そう、ですか」


 おそらく祖母の閉め方が甘かったのだろうと、すぐにわかりました。

 敷地を出入りする戸口は、私の胸辺りまで高さがありますが、敷地は私の身長くらいはある生け垣で囲われています。


 人が来ると、子供でなければ頭は見えるので、すぐに誰か来たとわかりますが、たいていは戸口から顔を出すまで気づかないため、防犯としての役割はほとんどありません。

 幸いにも、こんな田舎まで泥棒に来る人はいないらしく、いつでも玄関の戸が開いているくらいです。


 それを知った時は嘘でしょうと驚きましたが、何度も来ているうちに本当だと知り、今では特に気になりません。

 朝昼晩と、時間に関係なく玄関を開けてお裾分けをしていく人も多いので、せっかくの野菜を獣に食べられないようにとの配慮もあるのだそうです。


 たまにですが、勝手知ったる何とやらで、戸口が開いていたからと家の中に入ってくる人もいますが、私と同じくらいの歳に見える彼まで、それをやるとは思いませんでした。

 祖母に文句を言いつつ縁側に行くと、彼は片手に持った風呂敷を差し出しました。


「昨日はごめんなさい。これ、うちからのです」


 そう言って渡されたのは水羊羹の箱でした。

 彼の顔と交互に見比べて受け取りましたが、何度見ても何も思い出せなかったので、やはり彼は私の知らない人なのでしょう。

 古い印象の制服姿で現れた彼は、私に勧められるまま縁側に座ると、冷たい麦茶を飲みながら笑いました。


「昨日といい今日といい、突然すみませんでした。キネさんに会いにきたのですが、どうもタイミングが合わなかったようで……驚かせてすみません」


 彼は私に、自分はこの家の遠い親戚だと教えてくれました。

 亡くなった祖父と繋がりがあるらしく、祖父には生前親しくしてもらっていたらしいのですが、亡くなったことを最近知ったのでお線香をあげにきたのだというのです。


 半信半疑でしたが、遠いところから来たという人を無碍にもできず、おそるおそる彼を家にあげて仏間に案内しました。

 仏間は家の奥にあるため涼しく、たまに野良猫がどこからか入って来て、堂々と寝ている時があるくらいです。


 少し埃っぽい仏間の風通しを良くしようと、襖を開けられるだけ開けると、神妙な面持ちの彼に「どうぞ」と言って座布団をすすめました。

 仏間用の座布団は他よりも高そうなデザインなのですが、これに座る機会はほとんどありません。

 人が来ても普通の座布団を出すので、私もめったに見られないほど良い物なのだそうです。


 姿勢良く正座をして線香に火をつけた彼は、手を合わせてゆっくりと目を閉じました。

 私は斜め後ろからその様子を見ていましたが、私の知っている男子よりもずっと上品に見えます。


 祖父が亡くなった時に、男友達に「お葬式で休むね」と伝えたことがありますが、彼らはいまいちピンと来ていなかったようで、「お土産期待してるからな」と笑っていました。

 おそらく彼らは、お葬式というものを軽く考えていたのでしょう。

 旅行じゃないんだから……と考えて苦笑いしてしまったのですが、同じくらいの男の子が大人みたいな振る舞いをするというのは、こんなにも目を奪われるものなのでしょうか。


 あれほど警戒していた気持ちが薄れ、彼の事を少しだけ見直しました。

 昨日に比べると見方も変わってきていて、なんだか少し、胸がドキドキしてきました。


「……ありがとうございました」


 そう言って座布団を下りると、膝をついて頭を下げてくれて、その姿に顔が赤くなる気がしたのです。

 このまま帰すのも失礼だと思い、彼を居間に連れて行ってお茶菓子を出しました。


 コップに氷を入れ直して冷たい麦茶を注ぐと、居間にある古い写真を見上げる彼に出しました。

 彼は「ありがとうございます」と笑って麦茶を飲むと、「あれは誰ですか」と一枚の写真を指さしました。


 彼が指さしたのは、私のおじいさんとおばあさんの写真で、唯一、二人で撮ったというものです。

 二人とも仏頂面で、これを撮ってくれた写真屋さんは困った顔をしていたと亡くなった祖父は話していましたが、それでも唯一の写真だからと大事にしていたものでした。


「私の祖父母です。あの写真しか二人で撮ったものがないそうで、今でも大事に飾られています」


「私の……? 木野嶋さんは、たしかキネさんと正治しょうじさんが家を継いだと聞いたのですが……」


「二人は、私の母の養父母です。実の叔父夫婦でしたが、本当の祖母が早くに亡くなったので、仕事人間だった本当の祖父に代わって母を育ててくれたそうです。ですから、あの写真の二人が血の繋がった祖父母で、キネおばあさん達が育ての祖父母なんですよ」


 育ての祖父母とは変な言い方でしたが、説明するのがややこしい人間関係なので、わからない場合は質問してもらおうと思いました。

 しかし正太さんは理解してくれたのか、それ以上の質問はせず、黙って麦茶を飲み続けていました。


「……キネさんはまだ戻らないようなので、今日もこれで失礼します」


「すみません、今日はお昼頃まで出かける予定だったので、その事を忘れてしまっていて……。本当にすみませんでした」


 正太さんへのドキドキで祖母の帰宅時間を忘れてしまい、けっきょく一時間も無駄話をしてしまいました。

 彼は気にした様子ではなく、むしろ「楽しかったです」と笑ってくれて、その大人な対応にもドキリとしたのです。


 戸口で彼を見送りながら、遠ざかっていく背中を見つめました。

 けしてイケメンだというわけではありませんが、なぜか胸がドキドキして仕方なかったのです。


 午後に帰宅した祖母に、正太さんの事を話しましたが、やはり知らない人だと言われてしまいました。

 亡くなった祖父には親しい親戚が何人もいましたが、もしかすると自分は会った事がない人なのかもしれないと言われて、少しだけ祖母に優越感を持ったのです。


 祖母相手に何を考えているんだと思ってしまいましたが、私だけしか知らないという事実を考えると、どうしても顔がにやけてしまいます。

 その様子を見ていた祖母は不思議そうな顔をしましたが、すぐに優しく微笑みました。


「正美ちゃん、元気になってくれて良かったわ。ここに来てから一度も笑わないし、隣のおじいさんも心配していたのからねえ」


「え? そうだった?」


 顔に手を当てて確認してみますが、当然わかるはずがありません。

 私の様子を見て、祖母はまた微笑むと、冷たい麦茶を出してくれました。


「うんうん。絶対お兄ちゃんと何かあったんだって、シナダのじいさんが言っていたくらいだからねえ。みんな心配してるんだよ」


「そっかあ……」


 シナダのじいさんというのは、隣に住むおじいちゃんの愛称です。

 由来はわかりませんが、昔からそう呼ばれているらしく、「シナダのじっちゃん」と呼んだりもします。


 私もたまに「シナダのおじいちゃん」と呼びますが、そうすると嬉しそうに笑って返事をしてくれました。

 それが嬉しくて、小さい頃は何度も呼んでおじいちゃんを困らせていましたが、今でも変わらず可愛がってくれるおじいちゃんの事は大好きです。


 祖父が亡くなった時も心配してくれて、実の祖父のように何かと声をかけてくれていたのですが、今ではその優しさに苦しくなる時があります。

 なぜ苦しくなるのかというと、それは祖父の葬式の日までさかのぼります。




 ーー祖父が亡くなった時、これまで実家に寄りつかなかった私の家族は全員この村に来ました。


 いかにも不本意だという表情で、無愛想に対応する母達にみんなは苦笑いしていましたが、それでも来てくれたからと、葬儀についていろいろと助けてくれていました。

 そんな時に、テスト勉強を中断して来ていた兄がキレたのです。


『こんな低レベルな村にいて何になんだよ! 馬鹿なのにあれこれ指示すんな!』


 空気が凍るという瞬間を、この時初めて体験してしまいました。

 それまで弔問客の相手をしていた人達も、夜の食事を作っていた人達も、みんなが兄を信じられないと言った目で見ているのです。


 それに気づいた兄は、さらに『見てんじゃねーよ!』と怒鳴りましたが、さすがにこれはマズいと思った父が止めに入り、けっきょく兄は夜まで二階に篭もっていました。

 父はとりあえずといった感じに村人に謝っていましたが、母は謝るどころか、村人に謝る父を怒っていました。


 その様子を、手伝いに来た人達は信じられないといった目で見ていましたが、私はいたたまれなくなって逃げ出したくなりました。

 祖母は気丈に振る舞っていましたが、きっとすぐにでも怒りたかったのでしょう。

 私の手を握って『大丈夫だよ』と微笑んでくれましたが、その手は私の手を握りつぶさないように震えていたのです。


 夜になって少しは落ち着いたのか、兄の機嫌は少しだけ良くなっていましたが、彼を見る近所の人達の目は冷たいものでした。

 父や母に対する目も厳しいもので、兄を本気で叱らないその態度に、まとめ役だったシノダのおじいちゃんが怒ったのです。


『お前らは子供が悪い事をしたのに叱らんのか! そんなだから、こんな男に育つんだろうが!』


 すると兄はまたキレてしまい、おじいちゃんに殴りかかったのです。

 運良く兄の近くにいた近所のおじさんが止めに入りましたが、兄の暴言は止まりませんでした。


『んだよ! 離せクソジジイ! 中卒の男が何触ってんだよ! そっちのジジイだってそうだ。あんた小学校しか出てないくせに、何でけえ顔してんだよ! 母さんが言ってたぞ。あんたは頭が悪いってな。あんただけじゃねえよ、この村の奴らみんなだ。どうせまともな学校出てねえんだろ? なら、あいつと同じバカじゃねえかよ』


 そう言って私を指さし、兄は楽しそうにゲラゲラと笑い出しました。

 この頃の私は小学校の成績が悪く、担任の先生から兄と同じ中学校は無理だと言われていました。

 それを両親に責められ、兄にも馬鹿にされていたので、優しくしてくれた村人達を馬鹿にする兄に、思わず殴りかかってしまったのです。


 殴りかかったといっても、しょせんは小学生の腕力です。

 片手が自由だった兄にあっさりとやられ、次の日には顔を腫らしていました。


 それ以来、村では私の家族をよく思わなくなり、私も来づらくなっていたのですが、祖母に誘われて来てみると、おじいちゃん達は変わらず私を可愛がってくれたのです。

 それからも祖母の家に来られたのは、おじいちゃん達のおかげでもあったのですが、それ以上に、受け入れてくれる祖母のおかげでもありました。


 兄のようになれない私を責める両親と、私を見下す兄。

 いつの間にか顔に出ていた私の気持ちに気がついたおじいちゃんは、励ます意味で昔話をしてくれたのだと、祖母の言葉で気がついたのです。


「私だって小学校しか出ていないけれど、ちゃんと今までやってこられたんだから、あなただって大丈夫よ。困った時はいつでも遊びにおいで。ね」


 そう言ってくれる祖母に目頭が熱くなり、誤魔化すように麦茶を勢いよく飲みました。

 恥ずかしい気持ちで部屋に戻ると、正太さんの事を思い出してまた恥ずかしくなりました。


 また来ると言っていましたが、それが本当かどうかはわかりません。

 それでも、少しだけ楽しくなった明日に期待しながら眠りについたのでした。




 次の日は朝から暑い日でした。

 汗だくになって目覚めた私は、いつもより早い時間に一階に下りると、祖母と一緒に朝ご飯の支度をしました。


 卵を焼いて味噌汁を温めていると、スマホが着信を知らせました。

 友人の誰かだろうと思って画面を見ると、そこには母の名前が浮かんでいたのです。


 いったい何の用なのだろうと思いましたが、待たせるとひどく怒られます。

 考えるより早く電話に出ると、母は相変わらずの不機嫌な声で私に言いました。


『早く出なさいよ、どんくさいわねえ』


「ご、ごめんなさい……」


 私の声で相手を察したのか、祖母が心配そうな顔になりました。

 煮立ち始めた味噌汁が音を立てはじめ、祖母は私を気にしながら火を止めます。


『まあいいわ。それよりあんた、いつまでそっちにいるつもり? お兄ちゃんは毎日塾で頑張っているっていうのに、あんたはいつまで遊んでるのよ。課題はやってるの? ただでさえ成績が悪いんだから、それくらいはやりなさいよね。そうそう、帰ってきたらすぐに塾に行くのよ。来週には始まるからね』


「え? 塾ってどういうこと」


『はあ? あんた馬鹿なの? 塾って言ったら塾でしょうが。他に何があるのよ。ったく、これだからあなたは嫌なのよ。お兄ちゃんがかわいそうだって言うから電話してあげたのに、本当に馬鹿なんだから』


 いつもと変わらない心に刺さる会話。

 母にしてみれば、私は何もできない駄目な子で、兄の足元にも及ばない馬鹿な子なのだ。


 とっくにそれを知っていましたが、こうして久しぶりに会話する母は、私の気持ちなど知る気もないでしょう。

 目の奥が熱くなり、こぼれそうな涙を我慢していましたが、もう限界でした。


『そっちであの人が何言ってるかわかんないけど、あんたは馬鹿なんだから、さっさと帰ってき』


 それ以上は聞きたくないと電話を切り、心配する祖母を押しのけて外へと飛び出しました。

 もう我慢できなくなった涙は次々と溢れ出し、熱い日差しなど感じないままひたすら走りました。


『馬鹿なんだから』


 物心ついてから今まで、母の口からその言葉を何度聞いたことでしょう。

 出来のいい兄に愛情をとられ、両親からは将来を諦められ、それでも私は何を期待していたのでしょうか。


 祖母に甘え、村人達にも甘え、本当の自分を見ないようにしていた私は、この時急に何かが切れた気がしたのです。


 昨日までは幸せでした。


 たくさんの人の温かさを知り、正太さんと出会ったことで有頂天になっていたのでしょう。


 走って走って、ただひたすら走って、ようやく足の痛みで我に返ると、村外れにある大きな川の近くまで来ていました。


 振り返ると村が遠くにあります。

 うっかり来てしまいましたが、この川は流れが速く、見た目より深いため、村人ですら近づかない場所です。

 空にある太陽は容赦なく私を照らし、シャツと短パンだけの私の肌を容赦なく焼いていきます。


「……朝ご飯」


 祖母と用意していた朝ご飯を思い出し、置いてきてしまった祖母が心配になりました。

 砂利道を走ってきたからか、足の裏はひどく痛み、近くに立つ木に寄りかかって確認すると、ところどころ血が出ています。

 自業自得だと思いながら道に戻ると、向こうから人影が来ました。


「ああ、良かった。ここにいたんだね」


 それは正太さんでした。

 祖母に会いに来た時に、偶然家を飛び出した私を見て、慌てて追いかけてきてくれたのだそうです。


「ああ、足から血が出ているじゃないか」


「す、すみません」


 思わず謝ると、正太さんは虚を突かれた顔になりましたが、すぐに笑顔になりました。


「気にしないで。ああ、敬語じゃなくなってましたね。ごめんなさい」


「い、いいえっ。同い年くらいなんですから、むしろいりません! 大丈夫です!」


 思わず声を張り上げてそう言いましたが、彼は驚く事なく笑うと、すぐに「じゃあ、そうするね」と言ってくれたのです。


「さっそくだけど、歩ける? 痛くない?」


「あ、大丈夫、です」


 彼に敬語を話さなくていいと言いましたが、私はどうしても敬語が抜けませんでした。

 彼はそれに対して何も言わず、歩けないと判断した私を背負うと、また笑って「送っていくよ」と言ってくれたのです。


 彼の背中は大きいものでした。

 同い年の男子と軽い触れ合いはありますが、せいぜい手を叩き合ったり肩を叩き合ったりする程度です。

 父や兄との接触は皆無でしたし、男の子と付き合った事もなかったので、ここまで男の人と近い距離になるのは初めての事でした。


「少し揺れるけど大丈夫?」


「は、はい」


「このまま家まで連れて行くね。つかまってて」


 言われて肩につかまりました。

 最初は首に手を回そうかと思いましたが、ほとんど初対面の相手にそこまでするのは恥ずかしく、また、胸のドキドキが強かったので、それが限界だったのです。


 彼に背負われて村に戻ると、心配する祖母が戸口に立っていました。


「正美ちゃん、大丈夫だった?」


「うん。心配かけてごめんなさい」


 泣き出す祖母に手を差し出すと、正太さんは察してくれたのか私を下ろしました。

 祖母に抱きついて無事を教えると、成り行きを見守ってくれていた正太さんにお礼を言おうと振り返りました。


「あの、ありがとう……あれ?」


 振り返った先には誰もおらず、周囲を見回しても人の気配は感じられません。

 祖母と二人で家に入ると、彼を見た祖母が思い出したように一枚の写真を見せてくれました。


 そこには若かりし頃の祖父とおじいさんがいて、足元に小さな男の子がいました。

 坊主頭でくりっとした可愛らしい姿の男の子は、祖父の足にしがみつくようにカメラを見ていました。


「あのね、正美ちゃん。もしかしたらなんだけど、あの正太って子はこの人の孫かもしれないわ」


「この人って、この男の子?」


「そう。この子はさとしって言って、おじいさん達の末の弟だったんだけどねえ、中学校を卒業してからすぐに就職しちゃって、村を出てから一度も連絡がなかったの。おじいさんもお義兄さんも、それはそれは可愛がっていたらしんだけど、向こうの暮らしが良かったのか、一度も帰っては来なかったのよねえ」


 祖母に見せられたのは、祖父達が可愛がっていたという末の弟。

 祖母の話では、私の母と数歳しか歳が変わらない男の子だったそうです。

 彼のことは祖母も知っていて、生まれた時から祖母も可愛がっていたらしく、人懐っこくて人見知りがない良い子だったと言います。


「智くんはとても賢い子でねえ。誰よりも頭が良かったのよ。私も可愛がっていたけれど、うちも貧しかったから高校は出してあげられなくてね。亡くなったおじいさんも、その事をずっと悔やんでいたわ」


 この智という人はとても賢く、なんでもすぐに覚えて忘れなかったらしいのです。

 この人が四、五歳の頃に私の母が生まれ、高齢だった曽祖母に代わって祖母が育て、私の母を引き取ってからも、可愛い義理の甥っ子として世話をしていたのだと教えられました。


 写真は幼かったのですが、たしかに正太さんと面影が似ています。

 十五くらいで村を出たとしたら、早くに結婚して子供が生まれていてもおかしくはありません。


 そう考えて写真をじっと見ていると、祖母がもう一枚写真を見せてくれました。


「これはあなたのお母さんと写っている写真よ。あの子ったら、正太くんにまったく懐かなくてねえ。ほら、写真でも不機嫌でしょう」


「ほんとだ……」


 初めて見る幼い母は、今よりもずっとあどけない顔で、今と同じ不機嫌な顔をしていました。

 隣には困り顔の智さんがいて、正太さんと同じ顔で笑っていました。


 この写真の数年後に村を出たらしいのですが、どうやら智さんは人より成長が早かったらしく、村を出る頃には私より背が高かったそうです。

 そのため高校生や大人に間違われることも多く、親戚達からも頼りにされていたそうです。


 懐かしそうに写真を見つめる祖母でしたが、その目には寂しさもあり、本当に可愛がっていたのだという事がよくわかりました。


 遅い朝食を食べ、母が言っていた塾についてどうしようかと考えていましたが、足についた石や泥をお風呂場で落としながら、少しだけ気持ちが軽くなっていることに気づいたのです。

 母の話を聞いて落ち込んでいたのに、二人の男の子の話を聞いたら、気持ちが軽くなった気がしました。


 痛む足を引きずりながら部屋に戻ると、母からの怒りのメールを開いて、またため息が出たのです。


『来週の火曜日には塾が始まるわ。遊んでないで早く帰ってきなさい。課題が出来てなかったら、塾で一番取るまで夕ご飯は抜きだからね』


 相変わらずの母に、もう返事を送る力も残っていませんでした。


 今は何も考えたくない。


 そう思いながら目を閉じると、昨日は胸のドキドキで眠れなかった事もあり、あっという間に眠りに落ちてしまったのです。




 夢を見ました。

 この村の夢です。


 見慣れた道も木々も、遠くに見える山や森も、今とほとんど変わりがありません。

 しかし村にある家はどれも古く、全て木で作られたものばかりです。


 周りを見渡しながら歩いてみようとしますが、なぜか体が動きません。

 ここは私の夢なのに……と思っていると、突然場所が変わりました。


 次に見えたのは広い場所で、一面が平らな庭でした。

 また周りを見てみると、今度は体が動くのがわかりました。


 おそるおそる庭らしき場所を歩いてみます。

 手入れはされているようですが、人の気配はなく、少し離れたところに家が建っているくらいです。


 夢にしてはリアルだなと思いましたが、知らないところにいるはずなのに、あの家を知っている気がしたのです。


 ゆっくりと家の玄関らしき扉の前に立ちました。

 閉められていて中は見えませんが、曇りガラスが入っているので、それほど昔の建物ではないようです。


「すみませーん。誰かいませんかー」


 怖い気持ちで声をかけますが返事はありません。

 何度か声をかけてみましたが、誰もいないようでした。


 夢だとわかっているはずなのに、この場所にいる自分の方が異質だと、とっさに感じるほどの違和感。

 ここにいてはいけないと思うのですが、夢が覚める気配はありません。


 体は動くので庭のほうに戻ると、何もなかったはずの場所に花が植えられていました。

 ずっと昔に見た、森に咲く小さな花です。


 祖母が「いつの間にか咲いていたのよ」と言っていたそれは、何もなかった庭に色をつけ、周囲に植えられた小さな木を守るように咲いているのです。


 ーーあれも知っている。


 そう思ったら足が動いていました。

 花に駆け寄って中腰になると、咲いている花をよく見てみます。


 顔を上げてもう一度周囲を見回すと、ぼんやりとですが、知っている場所に似ている気がしました。

 もう一度だけ確認してみようと玄関に走りましたが、今度は開いていました。


 いつの間に、と考えることはせず、自然な気持ちで戸の内側に入ると、土間になっている場所を早足で抜け、奥にある靴の脱ぎ場へと行ったのです。


 外から見てわかってはいましたが、この家はとても大きくて広い家です。

 お店のような広い土間と、そこから続く広い部屋だけでも、小さな家であれば一階分にはなるでしょう。


 どんな人が住んでいるのだろうと普通は考えるのでしょうが、この時の私はもう知っていました。


 履いていた靴を脱いで家に上がれば、囲炉裏がある部屋に続いていて、両脇の襖も開いていました。

 広い部屋が左右に続いていましたが、私は迷わず開いていない正面の襖を開けます。


 今度は何もない広い部屋があって、また両脇の襖が開いていました。

 ここでも迷わず正面の襖を開けると、今度は子供が遊ぶおもちゃが転がる部屋があったのです。


 突然生活感のある場所が現れたので、思わず襖を閉めかけました。

 見てはいけない場所を見てしまったという気まずさがあったのですが、同時に、なぜ我が家で遠慮しなければならないのだと閉める手を止めたのです。


 部屋の中には誰もおらず、おもちゃは放り投げられたように散乱しているだけです。

 そしてまた両脇だけが開いた襖がありましたが、そこには目もくれず、閉め切られた正面の襖に近づきました。


 襖の向こうに人の気配を感じます。

 耳を近づけると、かすかにですが大勢の声が聞こえてきました。


 ゆっくりと襖に手をかけると、襖越しのざわめきが大きくなります。


 向こうにいる人は自分に気づいているのだろうか。


 そう考えながら、緊張で震える手に力を込めて、勢い良く襖を開けました。


 ーーしかし、中には誰もいませんでした。


 薄暗い部屋に人の気配はなく、あれほど騒がしかったのに、今は怖いほど静かです。

 他の部屋では開いていた襖が開いておらず、それどころか、部屋の中に知っているものが置かれていたのです。


 それは仏壇でした。


 家にあるのと同じくらい立派な……いえ、まったく同じデザインの仏壇が、部屋の右側に堂々と置かれていたのです。

 急に知っている場所に来てしまったという気持ちと、入ってはいけなかったのではないかという気持ちになりましたが、私は一歩だけ部屋の中に入ってみました。


 夢の中とはいえ、あまりにもリアルな畳の感触に驚きましたが、それでもここに入らなければいけないと思い、おそるおそる仏壇の前まで歩いて行ったのです。


 仏壇にはお線香があげられていて、誰かの写真も置かれています。

 怖い気持ちを抑えながら写真立ての写真を覗き込むと、そこでまた場所が変わってしまったのです。


 今度は川沿いの砂利道でした。

 母の言葉に耐えかねて逃げたあの場所です。


 知っている道ではありましたが、今よりずっと草木が多く、道もガタガタで、ところどころに大きな石が半分ほど埋まっています。

 今度はなんだろうと辺りを見回してみると、少し離れたところに人影を見つけました。


「あれは……」


 知っている人のような気がしましたが、それほど視力が良いわけではないため、ぼんやりとしかその人を確認できません。

 見た目はきちんとしているようなので、ここがどこなのかを聞こうと歩み寄っていくと、だんだんと姿がはっきりしてきました。


 白いワイシャツに黒のズボン。

 頭には昔の学生がよく被っていたという学生帽があり、そこで相手が男子学生だとわかったのです。


 まだ距離はありましたが、その姿には見覚えがありました。

 違う名前で、よく似た顔を持つ二人と同じ姿なのです。


 しかし、正太さんは帽子を被っていなかったので、あれは智さんのほうだろうと、なぜかそう思いました。

 どちらも似たような顔でしたが、写真で見た智さんは学生帽を被っていたので、だからそう思ったのかもしれません。


 智さんは川を見ながら立っているだけで、私には気づいていないようでしたが、これは夢なのだから何かあればすぐに覚めるだろうと考えて、声をかけるために近づいて行きました。


 ある程度近づいたところで気がつきました。

 彼の隣には小さな子供がいたのです。


 子供は少し髪が長く、ズボンを穿いてはいましたが、雰囲気から女の子だとわかりました。

 彼は女の子の手を握っているのか、女の子の片手が浮いているように見えます。


 よけいに話しかけづらくなったと思いましたが、このまま声をかけたほうが良いのか、それとも黙って夢から覚めるのを待ったほうがいいのか。

 どちらにすれば良いのかと悩んでいると、突然女の子が腕を振り上げたのです。


 距離が離れている上に、川の水音で何を話しているのかは聞こえませんが、どうやら女の子が彼に対して怒っているように見えます。

 彼はどうにか女の子をなだめようとしているのか、抵抗はせず、女の子に何かを言っているようでした。


 止めに入ったほうが良いのだろうか、と思いましたが、下手に第三者が口を出してもこじれそうだとも思いました。

 ゆっくり近づきながら二人の動向を見ていると、突然女の子が両手を突き出して、彼のお腹を押したのです。


 それからはあっという間で、彼はバランスを崩して川のほうに倒れて行きました。

 女の子は両手を突き出したまま動かず、私は届きもしないのに手を伸ばしましたが、彼は帽子を風に飛ばされながら川の中へと落ちて行きました。


 ちょうど深い場所に落ちた彼は、数秒の間沈んでいましたが、顔を出すと必死に泳ごうともがいています。

 しかし川までは木々で覆われた土手が続いていて、とてもじゃありませんが助けに行けそうにはありません。


 どこかの木に引っかかりはしないかと、流されていく彼を見ていましたが、運が悪いのか流れがそうなのか、土手近くまで彼が流れて行く事はありませんでした。


「ね、ねえ。あなた、お父さんかお母さんは近くにいないの? 近所の人でもいいから、誰か声をかけてきて!」


 出来る限り大きな声で、離れたところにいる女の子に声をかけました。

 遠くて聞こえないのか、それとも気が動転していて気がつかないのか、女の子は何の反応も示しません。


 彼の姿が川の中に何度も消えていくのを見て、慌てて女の子に駆け寄ります。

 周囲に田んぼはありましたが人影はなく、村までは距離があるため、人の声など届かないでしょう。


 子供二人で来ているのならば、どこかに大人がいるかもしれない。

 そう考えて女の子に駆け寄りましたが、彼女の顔を見た瞬間息が止まりました。


 女の子は笑っていたのです。

 それも、子供らしい無邪気な顔で、ではありません。


 まるで企みが成功したとでも言いたげな不気味な笑みで、彼女は沈んでいく彼をジッと見つめていたのでした。

 川の水音にかき消され、彼の叫びは私にも聞こえません。


 しかし、彼が何を言っているのかは嫌でもわかります。

 それを実現しようと私は動いたのですが、間違えて突き落としたと思っていた彼女は、その不気味な笑みから、これがわざとやったことだと教えてくれました。


 そしてそこで気がつきました。


 この子を知っている。


 そう思った瞬間、私は目を覚ましたのでした。



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