二宮玖美のいつもより特別な二十九日

えどわーど

本編

「しぃくん、うるう年だよ!」

 二月二十九日土曜日、休日の昼下がり。自宅で昼飯を食っていた僕の元にやってきた二宮にのみや玖美くみは、幼い声で叫んだ。いつでもいいから来い、とは言っておいたが、なかなか中途半端な時間に来たものである。

 小さい頃から面倒を見てきた、四つ年下の妹分。それが僕の恋人になって、もう三年ほど経つ。というものの、中学の頃から成長に乏しい玖美と僕の歳の差は、縮まるどころかむしろ広がり続けているように思えてならない。

 成長がないというのは外見に留まらない。舌足らずな喋り方や、時折飛び出す妙に幼稚な発想は、とても大学二年のものとは思えない。何かにつけて不安を感じさせてくれる彼女である。

 僕は器に残ったうどんを一口で啜った後、どうでも良さそうな口調で、

「そーだな」

「そーだよっ」

 その間に靴を脱いで部屋に上がり込み、机を挟んで僕の反対側に座り込んだ玖美は、その小さな手で机を叩きながらおうむ返しに言った。どうやら僕の白け切った態度がお気に召さないらしい。

「何をそんなに怒っている?」

 問えば、玖美は河豚ふぐもかくやという剣幕で頬を膨らませて、

「しぃくんは事の重大さを理解してない!」

「その通りだな。じゃあお前が説明してみろ」

「つまりっ、今年はの日が十二回もあるんだよ。こんなことそうそう無いよ!」

「そうだな。具体的には四年に一度だ」

 僕が素っ気ない反応を寄越すのも想定内だったらしい。たじろぐ気配もなく、堂々とそう告げる玖美は、これ以上ないドヤ顔だ。

 僕は熱量の欠片もない目で玖美を見つめながら、やはり冷めた声で確認する。

「で、今日の晩飯は肉がいいと?」

 手放しに喜ぶかとも思っていたが、玖美は僕の言葉を聞いて、一層頬を丸くした。もう一度机を叩きながら、彼女は机に乗り上げるように僕との距離を詰めてくる。

「しぃくん、さては面倒くさがってるだけでしょ」

「さてどうだか」

 凄むように細めた眼差しが僕に向けられるが、生憎と玖美の眼光に威圧感などはない。それを自覚してもいるようで、僕の無反応にも関わらず、同じ勢いで続けてきた。

「そもそもしぃくんが言ったんじゃない、毎月二十九日は大人の恋人扱いしてくれるって!」

「言ったな」

 妹分だった期間が長かったせいかそんな目で玖美を見られず、月一くらいは特別な日を決めて心に留めておかないと、いつまでもこいつを子供扱いしかねないと思い、やむを得ず決めた習慣だ。

「大人のキスも同衾もしてくれるって!」

「大変遺憾ながら、言ったな」

 思いっきり渋い口調で繰り返す。

 恋人らしい触れ合いへの憧れ、率直に言えば肉欲に屈して馬鹿な台詞を吐いた過去の自分を、今からでも殴りたい気分になった。間違いなく、これまで二十四年の生涯の中で最大の汚点がそれだ。

「遺憾って何だ!?」

「遺憾というのは、要するに残念という……」

「言葉の意味なんて聞いてないっ」

 ばんばんっ、と二度机が打ち鳴らされる。うるさい。苦い顔で僕が睨みつけると、玖美は口を真一文字に結んだまま、真っ赤な顔で震えていた。自分で口にした言葉に恥ずかしくなったらしい。子供か、と思ったが中身は実質子供のままだった。

 聞えよがしに溜息を一つ。だが逆効果だった。途端に期待に目を輝かせ始めた玖美を見て、以前「お前は交渉事で折れるとき、いつも溜息つくな」と友人に指摘されたのを思い出した。失態である。

「つまり、そういうことをしろと?」

 真っ赤な顔で力強く頷かれた。

「息が切れるくらい長いキスをした後、ベッドまで連れて行けと?」

 さらに赤く茹だった顔で力強く頷かれた。

 その反応を見届けた後、僕は大きく頷き返した。パッと顔を綻ばせた玖美の瞳をしかと覗き込み、

「駄目だ」

「何でッ!?」

 肩透かしを食らったかのようにバランスを崩す玖美を後目しりめに、僕はうどんの器を手に立ち上がり、それをシンクに持っていく。よろよろと身を起こした玖美の恨みがましげな眼差しが、僕の姿を追って宙を泳いだ。

 少し迷った末、僕は器に水を張ってシンクに置き、玖美の方へ歩み寄る。床に腰を下ろしたままの姿を見下ろし、僕はいたって平静という声で言う。

「さっきまでうどんを食ってたんだぞ。キスなんて出来るか」

 告げれば、玖美はどこか負けん気の滲む表情で僕を睨み、

「出汁の香りがして素敵じゃない」

「斬新な発想だな……」

 思わぬ反論に軽く引いた。が、だからといって食い下がる気はない。

「第一、 まだ昼間だ。こんな時間から盛り上がる気か?」

 やむなく僕が次の指摘を繰り出すと、玖美はまたも顔を赤くした。それでも閉口するわけではなく、目を逸らしながらも応えが返ってくる。

「じゃあ、キスだけでいいから……」

「気が進まない」

 億劫な口ぶりで嘯きながら、僕は玖美から顔を背けた。

 苦しい言い訳だという自覚はあった。事実、玖美は火を噴きそうな目をして僕の方へ視線を戻してきた。

「何で? この日はいつもよりちゃんと恋人扱いしてくれるって、しぃくんが言ってくれたんだよ?」

 怒り心頭の様子だ。叫ぶような口調から一転して、低く唸るような声で立て続けに問いかけてくる。

「私に子供っぽいところがあるのは分かってるし、しぃくんがそういうとこ馬鹿にするのだって我慢できるけど、今日は二十九日でしょ? 特別でしょ? なのに何でいつもより冷たいの? 私、しぃくんを怒らせるようなことした?」

「……馬鹿にはしてない。心配してるだけだ」

 一つだけ聞き流せず、僕は否定の言葉を口にしていた。とはいえ、それ以外の疑問に答えなかったことが、よほど玖美の気に障ったらしい。ますます細く研がれていく双眸を前に、流石に僕も己の不利を悟った。

 僕は観念したと言わんばかりに諸手を上げる。僅かに表情を緩ませた玖美に視線を重ねて、僕はゆっくり口を開いた。

「玖美。お前、僕がどうして二十九日を特別な日にしたのか分かってるか?」

 彼女の問いに答えるより先に僕が新たな問いを投げた格好だが、反発はない。玖美なりに以前から思っていたことはあったらしく、意外にも返答はすぐだった。

「『二』宮『玖』美だから、じゃないの?」

『に』と『く』の音を強調する玖美に、僕は唖然と顎を落とした。拍子抜けした僕の表情を、彼女は不思議そうに眺めていた。

 今日ここにやってきたときから、妙な予感はしていた。そんな馬鹿なと思いながらも様子を窺っていた。だが改めて思い出す。こいつの発想は、時に常軌を逸して幼稚なのだ。

「もしやと思っていたが、やっぱりお前は時々ものすごく馬鹿だな」

「さっき「馬鹿にはしてない」って言ったのはどの口!?」

 批難の声を黙殺し、僕は思わず手で顔を覆った。言葉以上に、僕の仕草がショックだったらしい。怒りと困惑の同居した半端な顔色で、僕の方を見ていた。

 そんな玖美に、僕は心底呆れかえった声で言い聞かせる。

「今日はお前の二十歳の誕生日だろう」

「……へっ」

 たっぷり間を空けた後で、間抜けな声が返ってきた。本当に忘れていたらしい。

 四年に一度しか歳を取らないわけではないとはいえ、彼女の生まれた月日は四年に一度しか巡って来ない。恋人同士となってからは初めてだ。故に僕は彼女の誕生日を彼氏相応に気に掛けていたのだが、当の本人がこの様では何とも締まらないものだ。

「だ、だってぇ。去年や一昨年と違って、今年は二月も特別な日があるんだって意識したら、それ以外の予定なんて吹っ飛んじゃって」

 などとよく分からない言い訳を紡ぐ玖美を遮って、僕は告げる。

「今日からお前も成人だ。酒も飲めるし煙草も吸える。定義は状況次第とはいえ、もう大人と言って差し支えないだろう」

 僕の言葉に、玖美はぽかんと口を開けて呆けていた。対する僕は、一度言い出した手前、さっさと言いたいことを全部言ってしまうつもりで続けた。

「二十九日の大人扱いが特別なのは先月までだ。今日からはもう、子供扱いなんてしてやらない。心しておけ」

「……ふあっ!」

 僕の台詞を、十秒以上かけて咀嚼した玖美が、顔を真っ赤に爆発させて呻いた。

 かくいう僕も、流石に平常心ではいられない。頬から耳まで赤くなるのを自覚しつつ、さりげなく玖美から目を逸らした。

 時が経てば人は成長する。していないように見える玖美だって実際には成長するし、僕は今まで気づくことが出来なかった彼女の成長を実感出来るようになった。本音を言えば、最近はもう玖美を単なる子供、妹分扱いする方が苦痛だったほどだ。月に一度の特別な日を、ガス抜きにしなければならないほどに。

 そんな日々とも、もうお別れだ。

「だから、もう少し待ってくれ。キスも、その先も。夜になったら嫌になるほど味わわせてやる」

 頭を撫でてやると、玖美は照れくさそうに身動ぎしつつも、確かに頷いてくれた。安堵の息を漏らす僕を見上げ、彼女はか細い声で囁いた。

「しぃくん、ありがとね」

「何がだ?」

「月に一度の特別な日より、四年に一度の誕生日、覚えててくれて」

 忘れるのはお前くらいだ、という台詞を、僕は寸でのところで飲み込んだ。代わりに笑みを浮かべて、

「四年に一度じゃない、今日は一生に一度の大事な日だよ。玖美にも、僕にも」

 我ながら少し気障な台詞だったと思う。似合わないことを言った僕を、玖美も意外そうに見上げた。

 そして、ふわりと柔らかく微笑むと、彼女は僕の前まで身体を寄せてきて、内緒話でもするかのように小声で告げた。

「ねぇ、やっぱり私、キスだけでもして欲しいな、今すぐ」

「……堪え性のない、困った奴め」

 苦笑し、僕は玖美の頬に手を添える。

 今の台詞は、果たして彼女に向けたものか、それとも自分自身か。そんな自問をしながら、僕は玖美の唇にそっと触れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

二宮玖美のいつもより特別な二十九日 えどわーど @Edwordsparrow

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ