3



 令嬢が出て行ってそう時間を待たずに、また誰かが牢を訪れる靴音が聞こえて来た。



「……お父様?」



 姿を見せたのは、紅華が心配していた父親だった。


 憔悴しょうすいしきってはいるものの、後ろ手に縛られたりといった拘束をされている様子はない。どうやら連座は免れたらしい。


 それが分かっただけでも、紅華はとりあえずの安堵あんどの溜息をつけた。


 その様子を痛ましげに見つめた父親は、地面に膝をつき、首を深く垂れてしまった。



「紅華、すまなかった! 最後だからと会わせたのが間違いだったっ!」

「え? 本当にどういうこと?」



 それは誰と誰のことだ、とは問わない。今までの流れからして、自分と皇太子殿下のことだと紅華も簡単に見当がついた。


 父親は紅華の言葉にわずかに責める響きを感じ取り、すでに小さくなっていた背をさらに縮こませた。



「うちは家名だけ名門で、他は一般庶民しょみんとそう変わらないだろう?」

「そうね。でも、みんな仲が良くて好きよ?」

「そうだな」



 ここでようやく父親の目元に嬉しさがにじんだ。しかし、それはすぐに消え去り、また元の姿に戻っていった。



「一言で言えば、家名降格による婚約不履行だ」

「……えっ!?」



 父親の口から告げられた一言が、紅華の胸に突き刺さった。


 婚約の件は今は横に置いておいて、問題は家名降格という事態だ。想像はしていたけれど、実際そうなるとなると信じたくないという気持ちがき起こってくる。


 反応が一瞬遅れる一方で、父親は憔悴しょうすいこそしているものの、至って冷静に事実を告げてきた。



「家格を落とされることになったんだ。我が家が」

「どうして!? ……もしかして、今回ので?」



 紅華が眉を下げて問い返した。


 冤罪えんざいかどうかにかかわらず、家格を落とされるような処罰を受けることは貴族にとってこれ以上ない恥辱ちじょくとされる。連座で皆捕えられるのは免れても、他の貴族達から冷遇されているのは目に見えている。


 そんな状態を招いたのが自分かと思うと、今まで一生懸命家族や使用人達、自領の民達のために働いてきた父親に申し訳ない。


 紅華は表情に影を落とした。

 そんな娘を見て、父親は慌てて首を左右に振って見せた。



「いや! 違う! 実は元々陛下には言ってあったんだ。私が小さい頃から料理人になりたかった話はしているだろう?」

「うん。耳にタコができるくらい」



 昔から父親は事あるごとに言っていた。文官として名のある家に生まれたが故に叶わなかったけれど、彼の一番の夢は料理人として働くことだった。王宮の料理人として働くことも視野に入れたが、やはりそれは家名故に叶わなかったらしい。


 料理人の夢を追い求めるためには、家格を落とさざるを得なくなる。長年皇帝のまつりごとを影に日向に支えてきた家名を他の貴族からあなどられるようなことになるのは父親も気が引けていた。だからこそ、今まで現在の地位に甘んじていたのだ。


 けれど、人の一生は一度きりのこと。やはり諦められなかったらしい。



「随分と慰留いりゅうされたが、ようやく聞き入れてくれることになったんだよ。だから、お前と殿下は家格が釣り合わなくなる。その前に最後だからと殿下にわれて。仕方なくお前をあの場に連れて行ったら、あんな事が起きたというわけだ。……そうか、殿下は最初からこのつもりで」



 最後の言葉はあまりにも小さくつぶやかれ、紅華の耳には入ってこなかった。



「そう。……てっきり、見放されたもんだと」

「なっ! まさかっ! そんなわけがないだろう!」



 大きく目を見開いた父親はぎゅっと眉を引き絞り、口調を強めた。



「じゃあ、私がしたんじゃないって信じてくれるの?」

「もちろんだとも。完璧な料理ものに、お前が毒なんて不純物入れるわけがないじゃないか」

「そう、そうよ! 私がやるなら、毒香よ!」



 この場に家族一冷静で頭の良い母親がいたならば、そこじゃないと合いの手を入れただろう。けれど、今、その母はいない。自然、若干の天然が入る父親と娘の会話は斜め上をいくことになった。



「夜が来たら、その闇に乗じて逃げよう。母さんも準備を進めている」

「本当? ……あ、でも、柴家の娘が、殿下と二度と会わないって条件で今夜逃してくれるって」

「なに? ……怪しいぞ、それは。なんで毒殺されそうになった者が毒殺しようとした者を逃がそうとするんだ? 罠じゃないのか?」

「うぅーん」



 確かに。

 条件が条件だったから保留にしてあるが、それは正解だったかもしれない。



「人を用意しよう。なに、それくらいのツテはある」

「分かった。待ってるわ」

「あぁ。後少しの辛抱だ、我慢しておくれ」



 父親は鉄格子の間から紅華の手をしっかりと握り、離れていった。


 最後まで名残惜しそうに振り向きつつ去っていった父親の背中を、紅華は姿が見えなくなるまで手を振って見送った。


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