兵士からの手紙

ねこ

第1話

僕は戦争で戦った、いつ終わるとも知れなかった

それは目の前に無限に広がっていて、どうにも考えられなかった

その日その日より先のことなど

頭を下げてみろよ、きみ、この一時期この一日だけでも

トラブルは尽きない

でも希望は見える、明かりは見える

———Belle and Sebastian “I Fought In War”


 以下の手紙はもう使われなくなった郵便局の倉庫の中から発見されたものである。手紙の宛先の住所が不正確で実際には存在しない場所を示しており、差出人は記されてはいない。いったいどうしてこのような手紙が配送されることになったのか皆目見当もつかないが、おそらく戦時のどさくさに紛れてよく確かめもされないままにここまで来てしまったのだろう。どうしたものかと思案しているうちにすっかり忘れ去られてしまったらしい。便箋は年旧りて赤茶け、少し触れるだけでも形を保てなくなってすぐに崩れてしまいそうだ。手紙の中身もまた変色した便箋のせいで一部読み取れない箇所がある。消印の日付だけが消えずに残っているが、はたしてそれが一体いつの時代のものなのか、確かめることはできない。

 消印:一二月三十一日

 「君は今の彼の状況を知らないだろう。どうして彼が戦争に行って、そこで何を経験して、そうしていまどうなっているか、君は全く知らないはずだ。もしかしたらそっちでは戦争そのものの存在すら知られていないのかもしれないと最近彼は疑いはじめている。しかし、これは事実であり、決して嘘などではない。それはこの数か月の間に彼が経験したことと同様、動かしようのない事実なのだ。それでもやはり、いまこの手紙を書いている彼にはすべてが夢か幻だったのではないかと思われる時がある。戦線を離れて、病室の窓からぼんやりと時間の止まった外の風景を眺めているときなどは特にそう思われるようだ。彼は八月からずっと、遠い異国の地で、どこの誰とも知らない人々と戦っていた。

 まず何から書けばいいだろうか。あまりにも書くべきことがありすぎるために、彼は戸惑ってしまう。これまで試みてきた数々の記録を総合すれば、一応は彼の体験したものの輪郭をそれなりに描き出すことはできるかもしれない。とりあえず、いまの彼がどうなっているのかの簡単な説明から試みてみよう。

 彼は八月から十一月まで、この信じられない地獄のような戦場の最前線で戦っていた。何人殺したかわからないし、何人の味方を失ったのかもわからない。見つけた敵を撃ち殺すのも、隣で倒れた味方の持ち物から弾と薬を取り出すのも、いつのまにかただの作業と化していて、考えるよりも早く習慣化した動きに身を任せればよかった。しかしある時、彼は戦場で致命的なへまをやらかした。彼は彼の三十メートルほど前に一人の人影を捉えた。戦場ではもう幾度となく繰り返されていたことだったから、敵か味方か見分けるよりも早く、彼は銃をまっすぐ伸ばして照準をその兵士に合わせていた。機械化された動きで、迷いはなかった。それにもかかわらず、彼はその時とつぜん身体が動かなくなってしまった。指先一つ動かすことすら叶わない、完全な金縛り状態。彼は釘づけにされたようにその場に完全に直立していた。そして彼は鉛玉を一発頭に食らってしまった。

 目を覚ました時、彼は野戦病院のベッドの上で、頭を包帯でぐるぐる巻きにされた状態だった。ベッドは腰のところが三十度ほど傾けられていて、ゆるやかに体を起こす形になっていた。目を覚ました彼に軍医が以下のことを説明した。彼の頭にぶち込まれた弾丸は、しかし完全には貫通せず、頭の真ん中のところで止まっていること。それは脳のいくつもの大事な神経を圧迫する形でそこに留まっていて、少しでも弾丸が動けばそれらの神経を傷つけずにはおかず、したがって取り出すことは不可能であること。また、その弾丸はほんの少しの振動にも耐えられないため、彼は身体を動かすことはおろか、声を出して喉を震わすことすらしてはならないということ。彼の身体のそのほかの部位は無事だった。病気だってしていなかった。頭に弾丸が埋まっていることを除けば、彼は完全な健康体といっていいだろう。外を走り回っている兵士たちと何ら変わるところはない。しかし、この頭に埋まった一発の小さな鉛玉のせいで、運動機能にも健康にも問題のない彼はほんの少しも動くことができない。全身の動きを奪われて、ベッドの上に軽く身を起こして寝ている以外のことは、何もしてはならない。食事も水分も、身体に繋がれたチューブから勝手に入ってきては別のチューブからまた勝手に外へと出ていく。週に一度は看護師が慎重に彼の身体を拭いて汚れを落とす。無論身体が動いてはならないので、拭くというよりも軽く撫でると言った方が正しいくらいだが。何もしてはならない彼は一日中窓の外を見て生活している。しかし、窓から見えるのは常緑の鬱蒼とした密林だけで、彼の目を楽しませるものは何もない。まず目が覚める。それが一日のはじまりだが、果たしてそれが朝なのか昼なのか、彼には区別がつかない。この病室はどの方角に面しているのだろうか。少なくとも東や西でないことは確かで、薄暗い部屋に入ってくる光が朝日なのか西日なのか、彼にはわからない。一日のはじまりと書いたが、それは果たして本当に始まりなのだろうか。もしかしたら眠りで一時中断した一日を再開しただけで、その眠りは五分にも満たないものかもしれない。だとすればいったい何が始まりなのか。目を覚ます、これは始まりではないかもしれないとさっき書いた。同様に、目を閉じること、これもまた終わりとは言えないだろう。始まりも終わりもない。あるのはただ一時中断のみ、果てしなく繰り返す一時中断だけだ。彼の生命に彼の意思や行動は一切介在しない。果たしてこれで生きていると言えるのだろうか。しかし、その鉛玉の監視からただ一つだけ免れ得ているものがあることに、彼は気が付いた。それが彼の右手の親指と人差し指だ。したがって彼はその二本の指で鉛筆を掴んで君に手紙を書くことができている。看護師にいくつかの要望を伝えたり、簡単な世間話もすることができる。有り体にいえば、この二本の指のおかげで彼はまだ世界とつながっていることができる。

さて、なぜ彼がこの手紙を書くことにしたのか、そのいきさつを書かなければならないだろう。無論、それは彼がこの戦場で経験したことに深く関わっている。この数か月の間、彼はそれをどうにかして記録に残そうと何度も試みてきた。手記という形で、時には手紙という形で。しかし、そのどれも彼は最後まで書き上げることができなかった。どうしても書くことができなかったのだ。しかし今度こそ彼は、彼自身が経験したことをありのままに手紙に書こうと決めている。彼がこの手紙を書くにあたって参照しうるのは、既に消失の始まっている現在においてさえ思い出すに想像を絶する戦場の記憶と、すべて未完に終わり一部は散逸してしまった戦場での彼の手記だけだ。

 彼の経験したこと、その結果として頭に銃弾を食らい、彼をベッドの上で身動きの取れない状態に押しやったものとは、一言で言ってしまえば、彼らのなかにスパイがいたことだった。

 彼は八月にこの戦場へとやって来た。地味な色のヘルメットに粗悪な作りの戦闘服と武器を身に着けて、彼と同じくらいの年の若者たちと共に、数日後には阿鼻叫喚の地獄と化すこの密林に足を踏み入れたとき、彼はまだ戦争がどんなものかを知らなかった。戦争は決してその全身を兵士たちの前には現さない。それは遠く離れた国の政治家達だけが知っているのであって、末端の兵士達には、いま自分たちがどういう理由で誰と戦っているのかすら知らされていない。だから兵士たちに戦争というものは存在しない。ただその時その時の戦場があるだけで、その連なりは決して全体を形作ることはない。一度限りの殺し合いが奇妙な繰り返しとなって現れるのだ。

 彼が初めて人を殺したのは、密林に実戦投入されて十五分も経たないうちのことだった。熱帯の密林は日本育ちの彼にはとても耐え切れる環境ではなく、戦場へと向かうガタついたトラックの中で彼はすでに汗みずくだった。粗悪な戦闘服は通気性が悪く、中に彼の体温と熱帯のねっとりとした空気を孕み、彼の汗でずっしり重くなっていた。身体からほとんどの水分を失った状態で彼は上官から作戦を説明された。脱水でぼんやりしていたうえに、訓練以外でまだただの一度も銃弾を撃ったことのなかった彼にはその作戦とやらは理解できなかった。その作戦というのも、要するに敵がいたら撃てということにすぎないのだったが。

 彼は十数人の仲間と共に一つの班に配備された。その班を含む三つの班で、彼らは戦場となる密林を一方向から進軍した。だだっ広いこの密林には、さらに別の方向からも彼らの仲間が進軍している。そして反対側には敵だ。すっかり体中の水分を失った彼は、左右に並ぶ仲間に倣って銃を構え、上官の号令で密林の中へと入っていった。

 鬱蒼とした密林のなかは不気味なほどひっそりとしていて、八月の暑気にもかかわらず、彼は背中が冷たくなった。隊列を作ってじりじり前進していると、彼らはさっそく敵と遭遇した。小規模な戦闘だった。彼は初めて人を殺した。銃を構える。相手に照準を合わせる。相手の表情が恐怖に歪むのが見える。そして引き金を引く。相手は倒れる。たったこれだけのことだ。

 君は彼が随分とあっさり人殺しをやってのけたことに驚くかもしれない。しかし、それは戦争という実体のない全体を形作るただの作業なのだ。そこでは殺す人間や殺される人間は誰であってもかまわない。二人の関係が入れ替わってもいいし、まったく関係のない人間であってもいい。戦場にあっては個は問題にならない。敵も味方も問題にならない。彼が殺したということすらどうでもいいのだ。

 初めの三日間は順調に事が進んだ。じりじりと進軍する。時には敵の小隊と遭遇し小規模な戦闘に発展するが、いつも彼らが勝利した。彼は幾人としれない敵を殺し、幾人としれない味方を失ったが、彼自身はまだ生きていた。当面の彼らの目標は、敵の本拠地へと奇襲をかけるために密林の中ほどのぽっかり空いた地帯に到達することだった。そこを占拠し体勢を立て直すことで、全面的な勝利へとつながる敵への奇襲が可能になる。工程の順調な進みから見て、占拠もまた確実だった。

 途上で仮眠をとると、深夜未明に彼らは出発した。他の班とも合流し、彼らは大きな塊となって、目的地へと進んだ。虫の鳴き声がひっきりなしに聞こえることをのぞけば、あたりはひっそりと静まり返っていて、敵の気配はなかった。密林は巨大な闇だった。音も光も人の気配さえも、それはすっぽりと飲み込んで奥が知れなかった。彼はヘルメットをかぶって銃を鼻先に突き付けたまま、前を歩く男の背中や垢だらけの首筋から立ち上る脂臭い体臭を頼りに一歩一歩慎重に歩いていた。時々は木の根っこに躓き転びかけもしたが、彼らは数時間にわたって一度も敵と遭遇することなく行軍していた。

 本当の地獄は目的地にたどり着いてからだった。彼らが密林の真ん中にぽっかり空いた空白地帯に立ち並んだ時、風船が一斉に割れたかのような大きな爆発音が四方八方から沸き上がった。にわかに密林の夜が明るくなり、彼らを囲むぐるりから数知れない銃弾が降り注いだ。彼は慌てて身をよじり、元来た道を戻ろうとしたが、泥濘に足を取られて転んでしまった。その頭上を、数知れない銃弾の束が通り過ぎて、向こう側の闇に消えていった。彼はしばらくその場でじっとしたまま、神経を研ぎ澄ませてあたりの様子をうかがった。

 戦場は、まさに阿鼻叫喚の地獄だった。

 数時間敵と遭遇せず順調に進んできたために気の緩んでいた彼らは、突然の奇襲にあっけなく統率を失い、逃げ惑う間にも無数の銃弾の標的となって、いたるところに死体となって散らばった。耳を聾せんばかりの激しい銃声の束の合間に、一度聴いたら死ぬまで忘れることのできないような、書いている今も背筋がゾッと凍り付いてしまうほどおぞましい味方の兵士たちの断末魔の叫び声が対岸の銃声に負けず劣らずうねりをあげて銃火で赤く染まっている密林の夜へと吸い込まれていった。彼は激しく咽び嘔吐しながら、死体の間を抜けて匍匐前進で来た道へと戻っていった。その間にも新たな死体が道の障害物となって彼の目の前に横たわった。空き地を抜け出すと、命からがら逃げだしてきたほかの兵士たちとともにてんでばらばらに密林の奥へと走り去った。文字通りの敗走だった。

 生き残ったのは一つの班にも満たない人数だけだった。翌朝彼らとともに空き地に戻って見ると、まるで昨夜のことが嘘だったかのように束になった死体はすっかり消え失せ、敵の姿も当然見つからなかった。

そして彼らのなかに敵側のスパイがいるという噂が起こった。

 彼らの行軍や作戦の情報を敵側に流している兵士が存在するというのだ。そうであれば、彼らはまんまと敵の誘いに乗って、敵の兵士たちが獣のように目をギラギラさせながら息を押し殺しているまさにその場所にまんまと飛び込んで行ったのだ。途上で遭遇した小隊との戦闘の勝利も、もしかしたら彼らをあの場所に導く相手の作戦だったのかもしれない。今や彼らの作戦は失われた。何の指示も見立てもないまま、彼はだだっ広い密林のなかに取り残されてしまった。

 その夜のことだ。誰ともなく、彼らの班のある男が怪しいということを言い出した。その男というのは陰気な顔をした、とっつきづらい印象の男だった。男は顔を赤くして怒り狂い、疑惑を激しく否定した。当然彼らの誰もその言葉を信じなかった。彼らのじりじりとしたにらみ合いは口汚い口論へと発展した。

「貴様が敵に情報を流したんだろう。この裏切り者め」

「違う! お前こそ敵のスパイに決まっている!」

「お前が現にこうして生き残っているのが何よりの証拠だ。俺たちがあの空き地で銃弾を浴びている間、ただ一人お前だけは安全なところからあの現場を見ていたんじゃないのか」

「お前だって生き残ってるじゃないか!」

スパイであるという確たる証拠があったわけではなかったが、明らかにこの男の方が分が悪かった。手の付けられなくなった男が傍の太い木に立てかけてあった機関銃に手を伸ばすに及んで、彼らの間に鋭い緊張が走った。敏感にその空気を察した男は手を引っ込め、じっとりとした嫌な目つきをこちらに注いだまま、ひとり離れたところで横になった。しかし、手を伸ばせばいつでも掴める場所に銃を置いていた。男を除いた彼らは一つに丸く集まって、男が少しでも奇妙な動きを見せればすぐに対応できるように絶え間なく注意を払っていた。自軍のキャンプへと戻る道中も、彼らはひっきりなしに敵の小隊と遭遇した。翌朝の撤退では、男と彼らの間に埋めがたい溝を残したまま、敵との小競り合いは激しい戦闘へと陥った。彼は敵に銃を向けている間、絶えず男のいる方角から首元にじりじりとした熱い敵意を感じ、いまにも銃弾がとんでくるのではないかと気が気ではなかった。結局、この男はこの戦闘で死んでしまった。男を殺したのが敵なのか味方なのか、彼には分らなかった。その夜、彼らの班には弛緩した安堵の空気が漂っていた。彼もまた明かりのない夜に寝転んで手記をつけながら、張り詰めた緊張にぼってりとした重い塊が覆いかぶさって鈍くなっていることを感じた。彼は手記に今までのことを記そうとした。書かねばならないことを体験してしまったのだ。しかし、「僕は」と書いて、その先が書けなくなってしまった。

 相変わらず彼らは敗走を続けていた。作戦から著しく逸脱してしまったために食糧の備蓄はとっくに底をついていた。無論大した食料などではなかったが、それでも人間が食べるために作られたものは貴重であり、あるだけで十分ありがたかった。戦場が本格的な地獄へと化したのは、食料が尽きてからだっただろう。敵の兵士だけでなく、恒常的な飢えとそれに起因する短気が新たな敵となって現れた。敵は殺せばいなくなる。しかし、飢えと渇きは癒すまで幾度となく繰り返し悪夢となって現れた。夜な夜な地面で眠る兵士たちの空腹に苛まれた苦しげな呻き声が夜を満たした。スパイの噂が発生したのもこの恒常的な飢えが原因だったのかもしれない。兵士たちは限界だった。

 翌日には別の男にスパイの疑いがかけられた。その男もまた次の戦闘で死んだ。まるでスパイという病原菌が次から次に宿主を乗り替えて感染しているようだった。彼らのなかにねっとりとした疑心暗鬼が生まれた。彼らはいま敵と戦っている。しかし、敵とは何なのか? 何の敵なのか? どこまでが敵なのか?

 敗走はいまだ終わらなかった。彼らの間には、相変わらずお互いに向けられた猜疑心が目前の敵よりも脅威のあるものとして日ごとその存在感を増していった。彼らは敵だけでなく、味方のなかにいるスパイとも戦わなければならない。そもそも味方など存在するのか?

 作戦で予定されていたのは十四日分の食料にすぎなかったが、彼らは優に一か月を超えて敗走を続けていた。したがって、撤退のかなり早い段階で彼らは手持ちの食料を失っていた。腹が減っては戦はできぬとはまさにこのことだった。銃を持つことはおろか、彼には立ち上がることすら容易ではなくなっていた。日中は立っているだけでかなりの体力を消耗するので、陽が沈むまで茂みの中に潜んでじっとしている。しかしただじっとしているだけでも、飢えた身体が自分自身を貪り尽くそうとしているのが分かってしまう。外からの栄養供給がすっかり途絶えてしまっては、後はもう自分自身を食うしかない。貪欲な生への意思が生かすべき自分自身の身体を食らい尽くそうとしていた。生と死と、対極の二つの力が自分自身のなかで衝突しているのを彼は感じた。暮れて涼しくなってから、ようやく彼らは闇のなかからよろよろと姿を現した。スパイと目された男一人を環から外して絶えず警戒しながら、どこに進んでいるのかもわからないまま一歩一歩足を前に運ぶ。そして敵と遭遇した。限界まで餓えた身体はもはや戦闘に耐えられるものではなかった。引き金を引いて跳ね上がった銃の振動で彼は後ろに倒れた。歯同士が激しくぶつかり合い、視界いっぱいに真っ白な星が飛んだ。すぐそばに新たな死体が転がった。もはや敵か味方かもわからなかった。

 彼らはとうに限界を迎えていた。どこに潜むとも知れない敵へのストレスや、終わりのない戦いへの苛立ちにもまして、のっぴきならない空腹をもうどうにもすることはできなかった。この小競り合いは小一時間程度しか続かなかった。敵もまた限界なのだろう。彼は足元に転がった死体を見た。彼は激しい目眩に襲われた。それは彼の知らない兵士だった。いや、果たして本当に知らない兵士なのか? 実はよく知ってる兵士だった可能性はないか? その兵士はぐったりと木の幹にもたれて項垂れ、両腕をだらりと垂らしていた。目は半開きで、だらしなく開いた口元から色の失せた舌がのぞいている。ごわごわした戦闘服の上からでもわかるくらい、男の身体は痩せ細っていて、袖の先から覗く手首から先はほとんど骨だった。その戦闘服も泥濘に激しく揉まれてもはやどのような外観だったか区別することはできない。戦闘服の襟元の少し開いたところから、男の貧相な首が見えていた、その首はすっかり肉を失って、汗と垢の跡を残した皮と骨が直に接しているかのようだったが、それでもいくらか肉は残っているらしく、浮き出た喉仏のそばで薄く引っ張られた皮膚の後ろにはわずかばかりの弾力が感じられた、そして剥き出しの胸や肩には生々しい銃痕が黒々とした血の塊をこびりつかせながら三つ星座のように並んでいて、その周りの肉は銃弾の熱のために焦げて嫌な臭いを発している、その臭いが鼻に入ると胃をむかつかせ、一度胃液を吐いてから、しかし吐くような量も残っていなかったが、そのあとにやけになって暴れまくる胃を引きつかせ、痛く、痛く、食いたく、胸に切実な情けなさが込み上げてきて、これまで必死になって抑えてきた衝動が洪水となって堰を切って溢れ出した、そのままどさりと後ろに倒れた拍子に手を枝で切ったらしく、そこからじんわりと熱い痛みが広がり、中からじゅくじゅくと血液が小さな玉に膨らんでから、堪えきれず弾けて手の下へと流れたが、手の痛みはいまや鋭い疼痛となって手全体に腫れ上がり、それを振り払おうと手をぶんぶん振り回しても、手の中の血液が遠心力で一ヶ所に集められたようなぼてっとした気色悪さがますます強まってきて、兵士の何も身につけていない両足は太腿のあたりがそれでもやはりまだたくさんの肉を残しているのが目に入ると、もはやそれ以外のことは何も考えられなくなって、その太腿のところにある痣にはやはり見覚えがある気もするが、痣? そんなものあったか? ナイフを引き抜くとその太腿の付け根に一度深く差し込み、解剖すると、いや、解剖とは医療の言葉であって、これは決して医療行為などではなく、身体に付いているままでは不便だから手頃な大きさに切り離すべくつまりは調理、いや、これはそもそも調理なのか? 調理とは食べ物を食べやすく加工することだがこれは食べ物では決してなく、それを食べるとは世にもおぞましい行為であり、いや、人を殺した人間がおぞましいなどというのか? 人を食べるのは人を殺した人間だけではないのか? それは許されない行為であり、許されない? 誰に? 目の前に横たわる死体が、それは死体なのか? 戦争という産業社会が極限にまで達した末に現れた工場から生れ出たものなのだからこれは商品と呼ぶべきではないのか? 明確な意思を持ってナイフを突き立てた以上はそれを死体と呼べるのか? しかしやはり食材では当然ありえないわけであるが、そのナイフをゆっくりと足の付け根の方に向けて引いていくと、指の先に筋肉の切れる気持ち悪い感触が、気持ち悪い感触なんてものではなく、それはおぞましく、いや、ぞっとするような、そうではなくて、想像を絶するような、しかしそれは現に起きたのだから想像可能なはずだ、最後まで切り終わると力を入れて引っ張れば容易に太腿は外れる、いや、切断される、いや、取り外す、とずっしりと確かな重さで両腕を斥けるそれは当然生のままではいけないので、なぜ火を通さなければいけないのだ、そもそもそれを扱う正しい方法など存在するのか、そうでなければ当然というのはおかしいのではないか、ならばそれは








 そしてあの日だ。どうやら彼らは密林の中をジグザグに走り抜けていたらしく、本来の方面から大きく外れて、別部隊の進軍していたところまで出てきていた。そして、彼らは別部隊と敵との大規模な戦闘の現場へと迷い込んでしまった。彼らはもはや戦局がどのように動いているのかわからなかった。果たしていま勝っているのか負けているのか、この大規模な戦闘がまさに勝敗を決めるものなのか、それとも全くのくだらない衝突なのか。

激しい戦闘状態に陥った戦場は敵味方が入り乱れていた。敵も味方も全く統率がとれておらず、狭い空間の中に敵味方の区別を失った無数の兵士達が蠢いていた。そして彼は三十メートルほど前に人影を捉えた。考えるよりも早く、戦場で身に付いた動きが銃を相手に向けていた。あとは何も考えず引き金を引けば良かったが、しかし、彼はそこから先の動きができなくなってしまった。このような戦場にあっては、目の前に立ちはだかった人影が敵であるとは限らないのだ。彼が銃を向けた相手、それは実は味方かもしれない。相手の男はまず突如現れた銃口に目を見開くだろう。そして次に彼を認めて驚愕する。。それを傍から見ている味方の兵士がいるかもしれない。彼もまた目を見開いてこう思うのだ、、と。これではもう撃っても撃たなくても同じことだ。一度味方に向けた銃口はもう簡単には下すことができない。パニックになった相手が慌ててこちらを撃つかもしれないからだ。そうであれば、こちらもまた相手が撃てないようにずっと銃口を向けていなくてはならない。相手は迂闊に動けなくなる。怪しい素振りを見せたとたん彼が撃つかもしれないからだ。しかしそれは彼にしても同じことだ。頬を流れる汗粒一つ拭う仕草が、相手の指に引き金を引かせるかもしれない。しかし、それはやはり敵かもしれない。だとするなら躊躇なく撃たなければならない。さもなければ自分が撃たれてしまう。しかし、本当に敵なのか? これが味方だったら冗談では済まない。だが迷っている間にも人影はこちらを撃つかもしれない。彼が銃を向けた相手は、敵なのか、味方なのか。相反する二つの可能性に挟まれて、彼は全く動けなくなってしまった。

 目を覚ましたとき、彼はここにいた。近くいた味方によって後衛の野戦病院へと運び込まれたらしい。この野戦病院はその前後に果てしなく広がっている銃弾の地獄とはうってかわって、嘘みたいに静かだった。ここは二つの戦線の間に挟まれた、ほんの一瞬の虚をついたように戦場の中にできた空白、場所とは言えない場所だ。ここでは時間は完全に止まっていた。目くるめく戦場の変化とは異なって、ここでは何も起こらない。彼は動くことを許されず、ただじっとベッドの上に身を起こしていなければならないからだ。いったいあの戦場の日々からどのくらいの時間が流れたのだろうか。彼はいま本当に生きているのだろうか。生きてはいるものの、ベッドの上で外を見ている以外なにもしてはならないのならば、それはもう死んでいるのと同じではないのか? 

 いまこの手紙を書いている最中に、報せを持った軍医が部屋へと入ってきた。彼の目の前に立つと、軍医は、遠い国で停戦協定が結ばれたことを告げた。もう戦争は終わったんだよ、と軍医は言った。「散々殺し合った挙句が、この結果だ。死んだ連中も浮かばれないな。しかし、いずれにしろ戦争は終わったんだ」そう言うと軍医は同意を促すように彼を見たが、彼は全くそうではないことを知っていた。戦争は終わったのではない、「停まった」のだ。殺した分だけ殺され、殺された分だけ殺し、勝ったとは言えないが負けたとも言えない状態、勝ちにも負けにも転べず、どうにもならなくなった末に戦争は停止したのだ。押し黙った彼を尻目に軍医はいまだ彼に何かを話していたが、すでに別のことを考えていることは明らかだった。戦闘が停まった以上、ここに留まり続ける意味はなく、しばらくすればここを引き払わなければならない。そうなったとき、動かすことのできない彼をどうすべきか思案しているのだ。トラックや船の振動は言うに及ばず、このベッドから彼を下ろすことさえ出来ない。おそらく軍医は彼をここに置いていくことを考えるだろう。それよりほかどうしようもないのだから。そしてその結論に至ると、軍医はもう目の前の戦争のことなど忘れて、国にかえったら何をしようか、もうずいぶん長い間食べていない分厚いステーキをほおばってみたいものだ、と考えているのだろう。しかし軍医と違って、彼には未来はない。彼に残されているのは果てしなく延長していく現在だけだ。彼にはもはや戦場ではなくなってしまったこの場所、場所とも言えない場所にしかいることができない。そしてそこで、一時中断した戦争がまた再開されるのをいつまでも待ち続けるのだ。それまで彼は、とりあえず眠ることにしよう。」

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兵士からの手紙 ねこ @tomoneko11

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