第11話 終わりの救世主
私の物語の始まりはどこだったんだろう。今でもたまに考える。
月華の真実を知った日か、キョウさんと出会った日か、それとももっとずっと前、月華が私を助けてくれた日か。
「月華、終わったよ」
「ありがとう蓬生」
あの日。小学五年生の夏。
下校途中に知らない大人の車に乗せられて、気付いたら真っ暗で知らない場所にいた。自分がこれからどうなってしまうのかも分からなくて怖かったけど、泣いたら怒鳴られるからひたすらに唇を噛みしめて身を縮めていた。
ただ一心に、誰かが助けにきてくれることを祈っていた。
「………大丈夫?」
急に真っ暗だった場所に光が差し込んだ。でもその時はまだ、助けが来たなんて信じられなくて、こちらにかけられた声がまだ幼い子どものものだったから、声を出すのが怖くって必死で寝たふりをしてたんだ。
「息はあるよ」
「そっか、気絶しちゃってるんだね」
少女と少年が対話する声だけに耳を澄ませる。いつも私を怒鳴りつけていた怖い大人の声はない。
「じゃあ早く警察呼んじゃおう」
二人の声が遠ざかっていく。気になってほんの少しだけ目を開けた。そして私に背を向けて小屋から出ていこうとする人物に見覚えがあって、私は小さく息を呑んだ。
「………つきか?」
疑惑交じりの小さな声はあの日、月華には届かなかった。
そのまま彼女は立ち去って、数分後、私はたくさんの大人に保護されることになる。月華はそれ以降、私にあの日の話を一度もしなかった。私の思い違いだったんじゃないかと思うくらい、月華は普段通りの寡黙で同級生と距離を置く生活をしていた。
「ねえ、月華っていっつも本読んでるよね」
だから一年後、私から話しかけた。その瞬間、驚いたように目を丸くした月華の表情を覚えている。そして。
「………うん、好きだよ」
そう答えた声を覚えていた。あの暗闇から私を助けてくれた彼女の声だと理解した。彼女こそが私のヒーローだと確信した。月華はきっと、私が知ってることなんて知らなかったけれど。
———あのね月華。私、本当はずっと覚えてたの。いつか月華が困ってる時は助けようって思ってたの、本当だよ。
「それでたぶん、今がその時だよね」
本当はね、月華。私、世界の救世主になりたいなんて思ったことはないんだよ。
それはちょっと嘘かもしれない、本当は色んな人を助ける月華のことが羨ましかった。ごめんね、役立たずの私で。月華の眠りを覚ますことも心を癒すこともできない私で。
傷ついてる月華を置いて、逃げ出してごめんね。謝って許されることじゃないことじゃないのは分かってるよ。分かってるけど、私はやっぱり弱いから。
「せめて月華の夢くらいは守ってみせるから」
その程度の覚悟でごめんね。もし私じゃなくて月華がこの場にいれば、きっと私よりもいっぱい人を助けれるのにね。出来損ないの死に損ないが私だけど、それでも今はこの場にいる私が救世主だって言うのなら。
「———————キョウさん!」
隠れていた木の間から飛び出して、交戦中の魔法使いの名前を呼んだ。
トオヤくんの目は一瞬だけ私を向いて、けれどすぐにミナトさん達の方に戻される。当然だ、死にかけの私より最強の魔法使いとトオヤくんの天敵である葛葉ちゃんの方が危険だ。でもキョウさんは違う。
「………なんだ、まだ生きてたの」
動きが止まる。さっきまでミナトさんを圧倒していた勢いを完全に殺して、まるで彫像のように。キョウさんは突然現れた私のことだけを見つめていた。呆けたように呟いてから、紫色の瞳が半月のように歪んだ。
「殺したと思ったんだけどなあ」
「まだ私、死んでないよ」
浮かべている表情は笑顔だけれど、殺意は隠しきれていない。ミナトさんでも葛葉ちゃんでもなく、いつ死ぬとも分からない私を、私だけを——————殺すべき敵として認識している。
「生きてる。キョウさんには殺されてないの」
「俺、そんなに刃物の扱い下手だった?」
「自殺は上手かったけどね」
本当は殺されてるに等しい状態だ。でもそんなことは関係ない。今私が生きて、立って喋っていることが重要だから。痛いのも苦しいのも押し殺して、笑え、私。フレアさんみたいに、キョウさんみたいに、ミナトさんみたいに、まるで世界の敵みたいに、不敵に、笑え。
「キョウ!そんな奴はいいからこっちに集中しろ!」
ミナトさんと葛葉ちゃんの相手を一人でこなすトオヤくんが怒鳴る。
それはもちろん正しい判断で正しい指示。でもキョウさんに正しさは無意味だ。
「ほら—————殺さなくていいの?私の敵」
キョウさんにとっては私が唯一の人間だ。私以外はみんな食料にしか見えない歪んだ認知の中で、ようやく見つけた敵が私だった。だからキョウさんは私から目を離せない。
これまで食欲を満たすためだけに人を殺して、戦ってきた彼は、初めて人間と相対して、自分の感情を合理的にコントロールできていない。殺意なんていう最も原始的な衝動を、堪えることができないはずなんだ。
「キョウ!」
だからトオヤくんの呼び止める声も聞こえない。脇目もふらず一直線にこちらに向かってくる。
——————私を、唯一無二の敵を殺すためだけに。
「わっ、」
行動は予想できていた。でもほとんど予備動作なしで地面を蹴って距離を詰めてきたキョウさんの運動能力は予想外だった。咄嗟に一歩下がったけれど、さっきまで私の立っていた位置に見事な着地をしたキョウさんが、唇を吊り上げてうっそりと笑うから背筋が凍る。
「俺に殺してもらうためだけにここまで来たの?健気だね」
「違うよ、私も私の敵を殺しにきたの!」
「へえ、逃げてるだけに見えるけどなあ?」
「戦略的っ、撤退!」
くるりと不気味な笑顔に背を向けて、通い慣れた山道を一気に走り抜ける。脱兎のごとく、つまりは逃走だ。
振り返ってる暇はない。トオヤくんも追いかけてきていたらどうすることもできないけれど、それはミナトさんと葛葉ちゃんが足止めしてくれていると信じることにする。というより、信じる以外の選択肢は私にない!
「その怪我でいつまで逃げる気?」
「逃げ切れるところまで!」
私には地の利があるから山を走るのはかなり早いけれど、やっぱり魔法使いの身体能力は十分脅威だ。すぐに踵を返して逃げ出したはずなのに、からかうような声は思ったより近くから聞こえてくる。
「キョウさん足速すぎるよ!」
「あはは、狩りは得意だよ、俺」
夜の山の中、命がけの鬼ごっこだ。捕まったらどうなるか考えたくもない。
「でもこんな風に人間を追いかけるのは初めて、かなあっ」
やっと視界が開けてきた、木々の間を抜けてようやく山から出た、瞬間。
「ぐうっ!」
助走をつけたキョウさんの膝蹴りが背中に直撃して、私は地面に倒れこんだ。もう山は抜けてしまっていたから、それなりに整備された土の道の上に倒れて顔が痛い。自分の走ってるスピードも加わって結構な衝撃だった。お嫁にいけない顔にはなったかもしれない。
「はい、鬼ごっこおしまい」
いくら痩せ型とは言っても、助走をつけたドロップキックから背中に乗られてしまえば起き上がることはできない。加えて私は死にかけの身だ。簡単に私を制圧したキョウさんが、これも乱暴にうつぶせに倒れた私の体をひっくり返す。
「あれ、なんだちゃんと刺さってるじゃん。無理やり止血して俺に会いに来たの?紅ったら情熱的だなあ」
「う、ぐっ、」
おまけに包帯に滲んだ血に気付いて患部を強く抑えてきたので、脳髄を焼くような痛みが全身に回る。本能的に振り回した腕は当然のようにかわされて、抵抗の意味さえない。
「でもごめんね、俺、人間を殺すのは紅が初めてだから、下手だったかも」
「………そうですね」
私も殺されたことないけど、なんて嫌みを言う余裕もない。それでもキョウさんの顔をちゃんと見るだけの余裕はある。
「でもまあ、許してあげます」
こちらを見下ろすキョウさんの笑顔は、人間を殺せることが嬉しいとでも言うような、恍惚とした笑みだった。
——————初めて自分のために人の命を奪うのが、そんなに嬉しいことなのかと聞きたくなってしまうくらいには。
「ありがと。今度はちゃんと殺すから、じっとしててね」
そんなことを言われてじっとしてる人なんてどこにもいないと思うけれど、さっきのドロップキックで開いた傷口からまた血が流れたし、フレアさんに分けてもらった生命力も尽きかけだ。物理的に暴れる体力がないのだから、細い指が私の首に手をかけても抵抗できない。私に魔法がきかないと言っても、首を絞めれば普通に死んじゃうだろうなあ。
「キョウさん」
「ん?」
「私に会えて、よかった?」
「うん、勿論。俺に出会って、殺されてくれてありがとう、紅」
「………うん」
ゆるゆると首を絞めながら、キョウさんはそれでも私に目線を向けた。
ああ、ちゃんとそんな風に、これから命を奪う人の言葉に耳を傾ける人だったんだ、キョウさんは。人間にはそんな優しい目を向ける人だったんだ。
私、やっぱり甘いから、キョウさんのことを憎めないし、じわじわと気道が締まっていくこの瞬間もまだ、キョウさんがそんな顔を向けてくれる私でよかったとか思ってるんだけど、でも。
「———————私、救世主だから」
世界を託された。命を託された。だから。
「ごめんねキョウさん——————一緒に死んで」
瞬間、すさまじい熱の塊がキョウさんの体を吹き飛ばした。
※
「トオヤくんは死にたくても死ねないって言ってました」
数時間前。傷が治った直後、私はフレアさんの深紅の目を正面から見つめていた。
「魔法は自分に危機が迫ったら自動発動するものなんですか?」
「全員がトオヤみたいに自動発動じゃない」
リュックサックの中に包帯を戻しながら、フレアさんは首を横に振る。
「そんなことができるのは一部の魔法使いだけだ。そうじゃなきゃ俺も自分に触った奴は全員燃やすくらいの魔法を使えてる」
「あ、そっか………」
それができないからフレアさんはキョウさんに片足をとられたのだ。魔法使いといえども油断はあるし隙もある。ただルールが人間と違うだけだ。
「それならなんとかなる、かも………」
「かもじゃダメだろ、確実に殺せ」
「私にキョウさんを殺すのは無理ですよ?」
なぜか私には魔法がきかないけれど、ただそれだけだ。
魔法使いの身体能力は、魔法なしでも軽く人間を凌駕する。極端な話、魔法使いがその気になれば人間の首の骨を折ることだって容易いはず。でも。
「魔法使いが私たちに物理的な暴力を使わないのは、人間の強度をよく知らないから………って認識、合ってます?」
「………人間、そんなに弱いのか?」
そう答えたフレアさんの言葉が何よりの証明だ。魔法使いは魔法の世界での戦いに慣れている、その時の常識を人間の世界にも持ち出しているのだ。つまりそれは、人間のことを知らないからに他ならない。
「キョウさんも私を刺す時に言ってたけど、人を殺すのは初めてだそうです。それってつまり、物理的に人間を殺したことはないってことですよね?」
「合ってる………と思うけど、刺されたあれだけ内臓の熱止血されてよくそれだけ頭が回るな?」
「………九死に一生ハイかもしれないです。アドレナリンが」
私の言葉の意味が伝わったのか伝わってないのか、フレアさんはほんの少し笑って「魔法使いだったら傭兵に向いてる」と呟いた。褒め言葉として受け取っておこう。
「とにかく、それならどうするんだ?」
「私が隙を作ります。人の強度をよく知らないキョウさんは、たぶん私をすぐには殺せないはずなんです。それにキョウさんはきっと、私にこれ以上ないってくらい執着して、フレアさんの接近に気付かないはず、なので——————その隙に私ごと燃やしてください」
魔法は自動発動じゃない。魔法使いは人を物理的に殺した経験はあまりない。加えてキョウさんは精神的にすごく歪んでいて—————純粋だ。だから騙せる。
そう言い切ればフレアさんはしばらく口を閉ざしたけれど、やがて小さく頷いた。
「分かった、その作戦で行こう」
こうして私たちのキョウさんを殺すための作戦は成立した。
私は囮で、殺すのはフレアさん。あとはキョウさんの行動任せの、作戦として成立しているかどうかも怪しい作戦だ。それでも今の私にとっては最善策だった。だから。
※
「………成功したの?」
半信半疑。自分のすぐそばをすさまじい熱の塊が通過したのは分かる。
首にかけられていた指の圧もなくなって、急に気道に流れ込んできた空気に咳き込んだ。そうして口から零れた問いかけは、あまりにも弱々しくて聞き取ってもらえたか不安だけど、きちんと答えは返ってきた。
「予定してた位置よりだいぶ前だったからかなり待たせたけどな、生きてるか?」
「生きてる………っていうか、てっきり私ごと燃やすと思った、んですけど、」
地面に倒れたまま、意外と近くから聞こえるフレアさんの声が聞こえる。
土を踏みしめて、松葉杖のフレアさんが近付いてくる音がしたけれど、もうそちらに視線を向ける元気もない。山の中を走ったのも、ドロップキックをくらったのも首を絞められたのも、今の私には致死量のダメージだ。さっきと比べて体が冷えているのが自分でも分かる。
「………対価はもらった。被害を拡大させても意味ないだろ」
言葉と同時に、思ったよりも優しく体を起こされて、ようやく周りを確認することができた。私の体に垂直になるように、熱の塊が通過した場所は地面が焦げていてすさまじい魔法だったのがよく分かる。
「キョウさんは………?」
「だいぶ吹き飛んだな。まともに食らっただろ、たぶん。見に行くか?」
「………はい」
ちゃんと殺したか確認しないといけない、それはきっと敵である私の役割だ。本当は誰の死にも触れたくはないけれど、キョウさんの最期だけはきちんと見ないといけないと思う。唯一無二の私の敵なんだから。
「その、もう一歩も動けない感じなので、連れてってもらえると嬉しいです」
恐る恐る、口にしたお願いは、仕事に忠実な傭兵さんの肯定一つで叶えられた。そして。
——————キョウさんは、まだ生きていた。
生きていたけれど、残された命はきっと私よりも少ない。一目でそれが分かるくらい酷い有様だ。首から上だけは無事みたいだったけれど、体のほとんどが焦げて炭化していた。
「あーあ、油断しちゃったなあ。分解、全然間に合わなかったよ」
そんな状態でもフレアさんに支えられた私が近付くと、紫色の目がくるりとこちらを向いた。爆風で切れた唇から、意外なくらい平坦な声が零れる。
「しくじったなあ………っていうかフレア、紅に協力しちゃうくらい俺のこと嫌いだったの?」
「お前、俺の足とっただろ。ついでに俺の家族も食った」
「そういえばそんなこともあったかな………いたた」
喋りかけて、呻く。どうして喋れているのかも不思議な状態だ。誰が見ても瀕死の状態なのに喋り続けることができるのは、魔法使いがタフだからだろうか。
「こんなに痛いんだったら中途半端にかわさないで一思いに死んどいた方がよかったかもね」
「………それ、意味ないよ。キョウさんはもう生き返れないから」
「へえ?トオヤがいるのに?」
「それは、キョウさんの体が残っていたらって話でしょ?」
トオヤくんの魔法は単純な時間操作だ。それは脅威になる魔法だけど、なんでも元通りにできるわけじゃない。キョウさんの魔法で食われて、「初めからなかったことになってしまった」フレアさんの足を元に戻せないように。例えば、時間を巻き戻すべき対象がなかったら、魔法は役に立たないはずで。
「キョウさんが死んじゃったら、フレアさんに灰にしてもらうよ。今はトオヤくんもすぐにキョウさんの所には来れないんだから、その間に。………私の国ではこういうの、荼毘にふすって言うんですけど」
私の説明を黙って聞き終わったキョウさんは、何度か瞬きを繰り返して—————笑う。
「それならこれは紅の勝ちだね」
死に際に笑う。これからキョウさんが迎えるのは、きっととっても無様な死だ。痛くて苦しくて、おまけに亡骸も残らない。それを理解してもなお、キョウさんは笑う。
「キョウさん、私に殺されて嬉しいの?」
「まさか!悔しいよ、こんな人間の小娘と雑な傭兵なんかに殺されて」
聞きなれた悪態だ。でもフレアさんはいつもみたいにキョウさんの悪態に反応しなかった。それが何より、キョウさんの死が近いことを証明しているようで、キョウさんは笑っているのになんだか私の方が泣きそうだ。
「普通の人間に魔法使いを殺すのはきっと無理だと思うよ」
とはいえ自分が普通じゃない人間だなんて少しも思っていないけれど。
魔法使いは人間のことをよく知らない。でもそれは人間の側にも言えたことだ。特にキョウさんみたいに倫理観が狂ってしまった魔法使いの行動は読めない。何をするか分からないから作戦を立てることもできない。本来だったらそういう存在だった。
「でも私、ずっとキョウさんと一緒にいて、いっぱい喋ったから」
時間にすればわずか四日程度だけど、それでも一緒にいた。最初は意味が分からなかったキョウさんの価値観が、笑顔のどこかに漂う独りぼっちの寂しさが、他の人と同じように自分も自分のために戦いたいなんていうわずかな願望が、分かるようになっていったんだ。
「キョウさんのことがちょっと分かるようになったんだよ」
結果として結んだ関係性は敵だったけど、だから分かったのだ。
お互いがお互いに、唯一無二の宿敵だと見定めたかったから。お互いがそれぞれの世界にとっての敵だったから。剥き出しの殺意をぶつけられた私だから。
「………はは、なにそれ」
キョウさんが笑う。どこから声が出てるのかも分からない、笑う余裕なんてきっとどこにもないはずの体で、笑ってみせた。
「俺のことを理解できたから、俺のことを殺せたって言うの?」
「………うん」
酷い有様だ。本当は目を逸らしてこの場を立ち去りたいくらい、キョウさんはボロボロだ。あれだけの熱が直撃したんだから当然だし、こうなることは分かってたはずなんだけどなあ。なんでこんなに苦しくなってしまうんだろう。
「あは、くだらないなあ。そんなロマンスみたいな!ああもう、笑わせないでよ、息が苦しいんだから」
「うん、私も苦しいんだよね、なんでだろうね」
息が苦しいのは私が死にかけてるからか、キョウさんが死にかけてるからか。
唯一皮膚が残っている顔に触れる。触れたからって彼の痛みが和らぐわけじゃないのは分かっていたから、これもきっと自己満足だ。
「………ねえ紅」
「ん?」
「もし、もうちょっとだけ、世界が違ってもさ」
唯一彼の感情を表していた左目がゆっくりと閉じられる。お互いがお互いを殺せるくらいに分かり合っていた。種族も環境も違ったけれど、そんなもしもがあるのなら。そんな前置きをして、消えそうな息と一緒に言葉が、ぽつりと。
「俺と紅は殺し合ってただろうね」
負け惜しみのようで、遺言のようで、呪いのようで、それでいて告白のような言葉と一緒に最後の息が吐きだされた。閉じられた目はきっともう開かれない。キョウさんが死ぬのを見るのは二回目だけど、どう頑張ってもこんな感情には慣れそうにない。
だから私も、ぼろぼろ零れる涙のせいで言葉が喉に引っかかるけど、ちゃんと言うんだ。
「おやすみ、私の敵——————来世は友達になりたいな」
呪詛と祈りを、地獄に落ちても忘れないように。
「よかったな。最期の無様な死に方は、お前の好きな人間そのものだったよ」
フレアさんの吐き捨てるような別れの言葉と同時に、散々私たちを翻弄してきた魔法使いの体はあっけないくらいさらさらと灰に変わった。
※
「………それでどうするんだ、非常食」
キョウさんが二度と生き返れないようにと、遺体を灰に変えたフレアさんがこちらを向いて問いかける。どうする、この後、どうしよう。酸欠と失血のせいでろくに頭が回らないけれど、考える。
「あー………えっと………トオヤくんを連れて帰ってほしいなって思うんですけど、それは求めすぎですか?」
「求めすぎというか、必要ないな。ほら」
頭上の空を指差すフレアさん。視線を指先に向けると、さっきまで固まっていた雲がゆっくりと流れだしていた。時間が、動き出してる?
「トオヤの魔法が解けかかってる………ってことはあいつも死にかけだ」
「え、っと、それは、」
複雑だ。本部を潰す目的があったとはいえ、私の願いだけは最後に叶えてくれようとしたトオヤくんが、今まさに死にかけてる。でも彼は放っておけば人間の敵にしかならないから、やっと倒せたと喜ぶべきなのかもしれないけれど。
「………いいんだよ。あいつ、長いこと生きすぎてるから、本人としては本望なんじゃないか?それはともかく、トオヤを殺せる奴が誰なのかに興味はあるが」
確かに。自動無限再生能力持ちのトオヤくんを殺せてしまう人、とは誰なんだろうか。順当に考えるとミナトさんだと思うけど、それを口に出すのももう億劫だ。
「じゃあ、特にやることはないですね………フレアさんはどうしたいですか?」
「元雇い主の命令に背いたし、お前は死にそうだし、次の就職先を見つけるかな」
「あはは………それがいいですよ」
「看取ってやろうか」
こちらに目を向けずに、なんてことないように言うフレアさん。
時間が動き出したとはいえ、本部にいる他の人間はまだ硬直した姿勢から動き出しそうにない。魔法が解けるまでにもそれなりに時間がかかるんだろう。
それなら私はこのまま誰にも見られずに、息絶えるってことになってしまう。そんな現状を見て「看取る」ことを申し出てくれたのなら。その言葉だけで十分だと思った。
「フレアさんの方が、ここにいるの、見つかったら攻撃されちゃうでしょ?早く逃げた方がいいと思うよ」
「生意気だなお前、人間のくせに」
そう言いながらフレアさんがこちらに背を向けるのが分かった。視界も霞んでいるからよく見えないけど、きっとそうだ。
「その生意気さに免じて、もしお前が生き残ってたら次はサービスで雇われてやるよ」
「それは、嬉しい、なあ」
ひらひらと手を振って魔法使いは遠ざかる。ありもしないもしもを語ってくれたのはきっと彼なりの選別だ。こうして私は一人になった。もう誰もいないし、何も聞こえない。
上下左右、全方位が真っ白の部屋。清潔さよりも異質さを感じる、現実感のない光景の中に私はいた。
「やあ、目が覚めた?」
耳に届いた少年の声ですべてを悟る。死に際にまた意識が夢か現か曖昧なラインをさまよっているらしい。それか既に私は死んでいて、これは走馬燈ってやつなのかも。
「………すっかり自由の身、みたいだね」
「まあね」
くるくると私の前で回る少年は、お札もなければ縛り付けられてもいない。もう彼の動きを妨げるものは何もなくて、それが嬉しいとでも言うように彼はスキップでもしそうな勢いだ。
「それで君は晴れて英雄になって命を散らして、大満足って感じ?」
「嫌みな言い方だなあ………昔からそんなんだったっけ、蓬生くん」
軽やかな回転がぴたりと止まる。私に背を向けたまま、少年改め蓬生くんがため息をつくのが分かった。
「——————気付いてたの」
言葉は平坦で、この言葉に込められた思いが落胆なのか安堵なのかは分からない。
「僕が蓬生って名前で呼ばれてたって、思い出した?」
「………随分時間がかかっちゃったけど、思い出したよ。ごめんね」
ナイフで刺されて床に倒れこんだ時、私の意識の中に現れたお札のはがれた彼の顔でようやく気が付いた。半信半疑だったけれど、蓬生くんの反応を見る限り正解のようだ。
「小学生の頃、月華の家に行くとたまに蓬生くんがいたのを思い出したの」
月華は確か、彼のことを親戚の子だと紹介していた気がする。けど今思えばおかしな話だ。彼女は両親が死んでしまってから、血縁者との関係が希薄になっていた。ほぼ一人で生活していた月華の家に、明らかに月華より年下の子どもを預ける理由もない。
「小学生の頃の話だったから、蓬生くんがあの時と変わらない姿で夢に出てるって気付くのに時間がかかっちゃった。………蓬生くん、人間じゃないんだよね」
「正解!鈍いくせによく分かったね、朱雀」
振り返って軽やかに笑った蓬生くんの姿を見ていると、嫌でも小学生の頃の記憶が甦る。誰かの困りごとを依頼と称して、少し迷惑そうな顔をした月華を連れまわしていた日を。
あの頃から蓬生くんは私たちについてくることもあった。あの時は分からなかったけど、彼はきっと人間じゃないし優しい性格でもない。
「でも朱雀が忘れるのもしょうがない話だよね。僕がちゃんと朱雀にも見える形で月華と一緒にいたのは中学生くらいまでの話だから。ほら、僕は月華が不幸であればあるほど強くなるんだよ。成長と同時に月華の心が健康になって、僕は消えていった。それでよかったのに、なあ」
人間じゃない蓬生くんは、私につかつかと近付いてきて、顔を覗き込んで笑う。笑っていたけれど、なんだか迷子になって泣きそうな子どもみたいにも見える。
「世界が滅亡して君が行方不明になって、精神的に月華が追い詰められたから僕はまた昔みたいに月華と一緒に話せて——————嬉しかったんだ」
もし体が動けば蓬生くんを抱きしめたかった。それくらい、蓬生くんは苦しそうだ。嫌なことは話さなくていいのに話し続ける理由はきっと私と同じで、懺悔をしたいから。
「世界はずたずたで人もいっぱい死んじゃってたけど、元々月華には君と僕以外なんにもなかったんだ。喜んじゃったんだよ僕、月華に頼られることが」
ぎゅうっと、蓬生くんの手が私の服の襟をつかんだ。俯いてしまったせいで表情は見えなくなったけど、彼が償いきれない後悔を抱えていることはよく分かる。
「だから僕のせいなんだ。ごめんね、朱雀に八つ当たりして」
蓬生くんはきっと、月華を助けたかっただけだ。
でも自分の手で月華を助けたかった—————彼自身が月華の救世主になりたかった。それだけが、彼の犯した間違いだったと、きっと蓬生くんは思ってるんだろう、なあ。
「………蓬生くんは月華を助けたよ」
「………なんにも分からないくせに」
八つ当たりについては謝っても、態度を改める気はないらしい。そういうところはなんだか見た目通りの少年のようだと思って、ほんの少し苦笑い。分かってないなあ、蓬生くん。でもしょうがないか、私もそうだったから。
人間も魍魎も魔法使いも、自分のことになると途端に何も分からなくなっちゃうものだから。
「少なくとも蓬生くんはずっと月華のそばにいたでしょ?」
世界が滅んだその時も、彼女が深く傷ついた時も、彼女が幸せだった時も欠かすことなく、彼女の半身のように当たり前にそばにいた。きっと息絶えるその時も、月華は一人にならない。それが何よりの救いになる時だってある。
「私にはそんな人はいなかったから、ずっと寂しかったよ。たぶん私はこのまま一人で死んじゃうし、強がって一人でいいって言ったけど、本当は泣きたいくらい寂しい」
私は、月華のそばにずっといることはできなかった。だから蓬生くんには感謝しかない、なんて言ったらきっとまた彼は嫌そうな顔をするんだろうなあ。それでもいいか。
「月華のそばにいてくれたのが、奇跡を起こせる神様じゃなくて、月華のことを大好きな蓬生くんでよかった—————ありがとう」
じわじわと視界が滲んでいく。私の命もあと少しだ、でも蓬生くんにこれだけ伝えれてよかった。
「………どいたしまして」
一瞬だけ、目を丸く見開いた蓬生くんが、私と距離をとって不敵に笑う。
「そうだ、死にかけの朱雀に一つ教えてあげる。君に神様がくれた加護ってやつ?君に有害なものは全部弾くっていう、あの訳分からない奇跡、奪っちゃったから」
「………そっかあ」
「君の中に住み着いてた神様の奇跡ごと、僕が食べたよ。文句ないでしょ」
なんでそんなことをするんだろう、とは思ったけれど聞いてももうしょうがない。それにしても私、キョウさんといい蓬生くんといい、腹ペコキャラと縁があるんだろうか。
「だから神様の奇跡はもう朱雀に起こらないよ————だから精々、」
救世主にでも祈ったら?なんて、変な蓬生くんだなあ。私にはもう祈る時間も残されてないのに。だってほら、お別れを言うこともできなさそうだし。
「いい加減一思いに死にたいんだけどなあ………」
生命力が強いのも考え物だ、と思う。明らかにもうすぐ死にそうなのに、蓬生くんとお話ししていた精神世界から無事に帰ってこれてしまったし、意識は朦朧とするのにやたらとゆっくり流れる空の雲を眺めているんだから嫌になりそうだ。
私としてはしっかりと独り言を呟いたつもりなのに、喉から抜けたのは苦しげな呻き交じりの言葉だから余計に往生際の悪い体だなあ、なんて悪態をつきたい。つけないけど。
「——————そんなこと言わないでよ」
膜が張ったように聞こえる音がこもっているけど、誰かが私に話しかけている。
人の手の温もりが、お腹の傷口の上にのせられて痛いというより温かい。
あれ、この声。どこかで、聞いた、ような。
「そのおかげで私が、朱雀に会えた」
私は、紅と名乗った。月華の友人だった朱雀の名前を呼ぶ人はここにいない。心の中に住み着いている蓬生くんと—————あと、たった一人を除いて。
「助けに来るのが遅くなってごめんね、朱雀」
「つき、か………?」
「久しぶり。随分酷いことになってるね」
さっき見た顔だ。微動だにしない、心が壊れた月華がどうして、時間の止まった世界の中に、いるの。どうして私のそばに膝をついて、穏やかな声で話しかける。
—————今にも死にそうな私に動じずに、続ける。
「私のことをヒーローみたいって、かっこいいって思ってくれたみたいだけど」
私は血まみれで月華の服は泥まみれで、感動的な再会とは言い難い。
こちらを見つける月華の顔はやつれているし、傷口に当てられた指は折れそうなくらい細い。ずっと寝たきりだったんだから当たり前だ、それでも月華は死にかけの私のそばに来てくれた。これを、奇跡と呼ばなくてなんて言うんだ。
「でもさ、私、朱雀のために頑張れたんだよ。私も強くはないから、何回だって逃げ出したし戦うのを放棄したけど—————朱雀が私を呼ぶから、戦えた」
だからね、朱雀が私のすることを気に病む必要はないんだよ。私は朱雀のおかげでヒーローの真似でもできて、楽しかったんだから。
「………まねごと、じゃないよ」
死んじゃいそうな私の手を握って、当たり前みたいに私の心にずっと刺さっていた棘も後悔も消し去ってしまった月華はヒーローだ。月華が来たならもう大丈夫って、思えるくらいに。ずっと死にそうで死ねない苦しさがあったけれど、月華がいれば怖くない。
「つきか、は、ほんものの」
瞼が思い。声が出ない。話したいことはいっぱいあるのに、おかしいなあ。勿体ないなあ。私、月華に、いっぱい話したいこと、
「——————おやすみ朱雀、お疲れ様」
紅ではなく朱雀、と。呼ばれることに安堵して、私の意識は薄れて消えた。
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