第3話 四日目の危機(結果編)
——————あれ。私、何をしてたんだっけ?
「目が覚めた?」
ゆっくりと目を開ける。同時に弾むような少年の声がぼんやりと耳に届いた。
「よかったね、運よく死なずにすんで」
「え、っと」
ここは、どこ。そして目の前にいるこの人は………人?これは、なんだろう、
「まったくもう、まだ外に出て四日目なのにこんな風になるなんて、予想通りっていうかなんていうか、酷い有様だなあ」
ぺらぺらと言葉を紡ぐ、目の前のソレはなんなんだろうと首を捻る。棒立ちになった私のちょうど目の前には、黒というか、灰色のようなこんもりとした物体があった。
「あなたが喋ってる………?」
「僕が喋ってる。あーあ、君の心の中は居心地が悪いなあ」
だけど口もなければ目も見えないような相手に、恐る恐る声をかけてみたらきちんと肯定されてしまった。ということは、この少年のような声は生物なのかも怪しい謎の物体から発せられているということで間違いがなさそうだ。
「誰………?っていうか、何………?」
「僕?君の心の陰の部分、って言いたいんだけど、そういうわけでもなさそうだなあ。あ、ちょっとあんまりこっち来ないでよ」
「うわ」
「しかも引かないでよ」
よく分からない真っ白な空間に私と灰色の塊だけ。くるくると周りを見てみると、灰色の塊にはお札みたいなものがべたべたと貼られていることに気付いた。それはもう、テレビの心霊番組特集でしか見たことがないくらい、読めない赤文字の書かれたお札が隙間なくぎっちりと貼られていて、そのせいで私からは輪郭もはっきりしない塊のようにしか見えないんだ。
「せっかく君のことを心配して憑いてきたのに、こんな扱いって酷いよね?」
「あなたはなんなの………?というかここはどこ?」
「何回も言ってるけど君の心の中だってば」
灰色の塊、もといお札の山みたなものがふるふると少し動くけれど、それ以上は動けないようですぐに大人しくなる。
「君の心の中、なんだか知らないけど何かに守られてるし、加護ってやつ?入るだけでかなり苦労したのに君は全然マイナスの感情なんて持ってないし、せっかく潜り込んでも動けないし、嫌になっちゃうよね」
「はあ………」
「何その興味ありませんって顔。ムカつくなあ」
私の顔をムカつくと言ったけれど、実際そんなにお札を貼られて人の顔を見えているのかも不思議だ。それに加護とか、心の中とか、話の内容が精神的すぎて全く理解できない。
「しかも全然理解できてないし、あーやだやだ。こんなんなら憑いてこなきゃよかった」
お札の塊はそのおどろおどろしい見た目のわりに、無垢な少年のように現状を嘆く。相手の表情はまったく見えないけれど、嫌気がさしているという感情は口調の端々に滲んでいた。
「しょうがないから、言わなきゃいけないことだけ先に伝えとくよ」
「言わなきゃいけないこと?」
首を傾げた。このお札の山に見える生命体は、私に何か伝えたいことがあるなんて、すごく変な話だ。言わなきゃいけないことがあると言うけれど、私は何か言われる心当たりは全くない。なのに。
「死んだら地獄に落ちても祟るよ、朱雀」
「………………え?」
今、なんて。
「あ、もう時間切れっぽいね。だからまあ、精々頑張って生き延びて」
「ちょっと、待って!」
視界がぐるぐると回る。さっきまでしっかりと聞こえていた灰色の塊の声が遠くなる。それでもどうしても聞きたいことがある。
「どうしてその名前を………!」
朱雀。このお札の山はどうして、私が捨てた私の名前を知っているんだろう。
問いただしたいのに声が遠い。それなのにどうしてか、この声に聞き覚えがあるような気がしてしょうがない。
「精々、その加護に守ってもらいなよ」
吐き捨てるように呟かれたその言葉に答える前に、真っ白な空間は消えていく。待って、聞きたいことが———。
※
(………あ、生きてる)
意識が浮上して真っ先に思ったのは、そんなくだらないことだった。瞼は重いけど音だけが耳に届く。
「これは思ったよりひでぇな………とりあえずは簡単でいいから手当してやれ」
「しょうがねえなあ」
「そう言うなよ、寝てる間に済ましてやった方が本人のためだ」
「絶対痛いから嫌なんだよ」
ため息と誰かの話す声。そして。
「いっ!?」
すさまじい激痛に、はっきりと覚醒した。そして目の前の光景を二度見する。
「ああ、起きちゃった………ごめんな、痛かったよな」
包帯と消毒液のボトルのようなものを片手に持って、気づかわしげに私に声をかけてくれたのは、狐のお面だった。いや、正確には狐のお面を顔につけた誰か、なんだろうけど。
訳も分からず目の前に現れるものにしては情報量が多すぎて、私の頭はたやすくパンクした。だってさっきまで魔法使いと対峙していたはずなのに、どうして狐面の人物が目の前にいるかなんて、エスパーでもなければ理解できない。
「な、なに、キョウさん!?キョウさんは!?」
混乱するとやっぱり、一番頼れる人の名前を呼んでしまうのは人の常のようだ。………キョウさんだって魔法使いで、味方と言い切るには少し怖い存在なんだけど、現状私の仲間と呼べるのはキョウさんだけなんだからしょうがない。
「はいはい、俺はここだよ。落ち着いて?無茶しちゃったね、紅」
「よ、よかったあ………」
思ったより近くから声が聞こえて、振り返ると半分体を起こした私の肩を持って微笑むキョウさんがいた。とにかくキョウさんとはぐれていなかったことに少し安心する。
「キョウさん、無事?」
「俺はね?でも紅が重傷だから、早く治療した方がいいよ」
「そうそう、痛いかもしれないけど応急手当だけでも我慢してな?」
恐る恐るキョウさんに向けた目を外し、自分の後ろを見ればそこにはやっぱり。
「狐………?」
「ああ、お面な?諸事情あって外せないけど、別にとって食ったりしないから」
どうやら私はキョウさんとこの狐面の人物に挟まれているらしい。何がどうなってこんな状況になったんだと首を傾げたいが、それよりも両手に鈍い痛みがはしることが気になって視線を向けて。
「ひっ………」
「見ない方がいいと思うけど………って遅かったか」
狐面の人物の制止は一歩間に合わず。見下ろした自分の手が焼け爛れていることに気が付いて息を呑む。
何、これ。火傷、なんていうレベルじゃない。皮膚がそのまま溶けてしまったみたいな、元の手の形が分からない状態。痛い、とは思っていたけれど、こんな状態になっているとは思っていなかったんだ、嘘だ、こんなの、こんな風になってるなんて。
「大丈夫、だいじょーぶ」
「これっ、は」
「うんうん、ゆっくり深呼吸しようね?」
つい数時間前まで、自分の手「だったもの」を見下ろして固まった私の両目を、キョウさんの片手が塞いだ。そのままゆったりと、背中を一定のリズムで軽く叩かれているのが分かる。
「偉かったね、紅」
「なんでこんなっ、こんな」
「もう大丈夫だよ、よく頑張ったね」
とん、とん、と。小さな子供を寝かしつけるようなリズムで、背中を叩かれている。それでも目に焼き付いた酷い状態の自分の手が脳裏をよぎって、呼吸は荒くなる一方だ。
怖い、痛い、それに何より—————情けない。
「いたい………痛い、痛く、ない………痛くないから………大丈夫だから」
「うん?痛いよ、それは痛いことだ。変に意地張らなくていいんだよ」
うわ言のような呟きにも言い聞かせるように、キョウさんは答え続ける。………この人は、魔法使いなのになんでこんな人間みたいなことを、言ってくれるのか。
でも、違うんだ、違うんです、キョウさん。
—————キョウさん、私は泣いちゃいけないの。
「あの子は………泣かなかったの………」
泣くことも叫ぶことも、立ち止まることさえしなかったのに。どうして私はこの程度の傷で、泣き叫びそうになっているんだ。そんなの、情けなくてあの子に顔向けできないじゃないか。
「私が、こんなことで泣いてたら、ずるいから」
「………ずるくないよ、大丈夫」
目を隠していた手がどかされた、と思ったら、キョウさんが上を向いた私の顔を、後ろから覗き込んで笑った。ぼやけた視界に、深い紫色をしたキョウさんの片目がさかさまに映り込む。
「痛いのも辛いのも、慣れれば笑って誤魔化せるけど、慣れないうちは泣いてればいいよ」
視界に逆さに映り込んだキョウさんをじっと見つめながら、考える。もしかしてだけど、彼もこうやって笑えるようになるまで、いっぱい泣いてきたんだろうか。
—————何もなくても笑っていられるくらい、痛い思いをしたんだろうか。
「ごめんな。きっとすごく痛いと思うけど、麻酔はないんだ。でも放っておくと酷くなるから、少しの間だけ、我慢してくれるか?」
私が落ち着いたと見たのか、狐面の人物が優しげな声で問いかけて首を傾げた。こうなればもう腹を括るしかない。
ぽろぽろと涙は零れてきたけれど、情けないなんて言ってられない。頑張らないと。
「………はい」
「舌噛むかもしれないから、この布を噛んでおいた方がいいかも。で、えっとそこの………リボン眼帯くん?この子が暴れないように押さえて」
「できるだけ頑張るよ」
キョウさんが私を抑え込めないなんてことはないと思うけど、私の骨が折れないかが心配だ、なんて、他人事のように考えた。狐面の人物が私の目の前で包帯とガーゼ、それから消毒液のようなものをテキパキと用意して、じっとこちらを見つめる。
「脅かすわけじゃないけど、すごく痛いと思う。頑張って」
「………」
口に布を含んでいたから声は出せない、しょうがなく頷く。私の体を押さえつけるキョウさんの手に、ほんの少し力が入ったのを感じて、狐面の人物がこちらに手を伸ばすのを見て、ぎゅっと強く目をつぶって息を止めて。
「————————っ!」
脳髄が焼かれるような痛みが、はしった。
※
「よく頑張ったな、もう大丈夫だ」
「………」
「息も絶え絶えだね」
救急箱のようなものに包帯やガーゼをしまい込みながら、私をねぎらう狐面さん。ちなみにキョウさんは狐面さんの指示で横になった私に大人しく膝を貸してくれている。
「痛かった………」
「喋れるなら大丈夫だよ」
膝を貸している片手間なのか、キョウさんの片手が気まぐれに私の頭をなでている。
痛みのあまり暴れたし叫んだし、おまけにかなり泣いてしまったから、全身がだるい。このまま寝れちゃいそうだ。じくじくと鈍い痛みは続いているから、寝ようとしても寝れないかもしれないけど。
「もう少ししたら先生も帰ってくるから………っていうか私、自己紹介してないな?」
「………」
「え、今さら?」
息も絶え絶えの私に代わって、いとも簡単につっこんでくれるキョウさん。狐面の人物が「いや焦ってて」と言い訳するのが聞こえた。
「私、諸事情あって本部のことはよく知らないけど、人間の味方だから安心して!えっと、名前は波蝶って言うんだ、よろしくな」
「そう、よろしくね」
キョウさんがそう言った後、しばらくの沈黙。そして。
「いやお前も名を名乗れよ!」
私も薄々思っていたことを、波蝶さんが言ってくれた。ナイスつっこみだ。声はくぐもって分かりづらいけど、一人称と声のトーンからしておそらく女性だろう。その割には口調が荒いけど、キョウさんよりは当たり前に常識が備わってるようだ。
狐面に、日本人の名前なのに苗字は名乗らない不自然さだけど、本人の言う通り「悪い人」ではないようで少し安心する。
「俺はキョウ。魔法使いだよ」
「私は紅………人間です」
言ってからふと、キョウさんはそんな風に正体を明かしてしまっていいのだろうかと考える。ほとんどすべての人間が「魔法使いは敵」と認識しているのに、そんな風に言っちゃって、波蝶さんを敵に回したりはしないんだろうか。
「そっか、二人とも危ないところだったな」
けれど私の心配をよそに、波蝶さんはにこりと笑っただけだ。………なんだろう、この対応の違和感は。
「じゃ、私夕飯の準備するから、二人はちょっとそこで待っててな」
「ありがとうございます、何から何まで………」
「気にすんな~」
私の謝罪を軽くいなして、背を向けた状態でひらひらと手を振る波蝶さん。
「紅があんな風に突撃してなかったら、ここらへん全部焦土になってたしな。その恩はきっちり返さないと、ダメだろ」
「そんなことは………」
そもそも、あの炎の魔法使いは「キョウさんが秘密を洩らしかけたから」襲撃をしてきたわけで、その狙われたキョウさんと魔法使いの話をしていたのは私だったのだ。
それなら、原因は私とキョウさんと言えるわけで、いくら焦土になることを防いだとしても、マッチポンプに代わりがないというか。
「痛………」
色々と考えなくちゃいけないことは山積みなのに、火傷の痛みが気になって思考がまとまらない。包帯で包まれてしまえば綺麗な手の形になったけれど、ちらりと見た原型を残さないくらいに爛れていた手が元通りになるとは考えれない。困ったなあ。
「加護なんてないじゃん………」
「加護?」
「いや、えっと、こっちの話です」
ふわりと頭に夢うつつで交わした言葉が蘇って愚痴を零したけれど、キョウさんがいぶかしげな顔を浮かべたので笑顔で誤魔化した。
「火傷、痛いね」
「あはは………でもこれ、自分が馬鹿なことをしたせいなので」
私の顔を見ることもなく、キョウさんは片手間に私の髪をくるくると指に巻き付けて遊んでいた。頭を撫でるでもなく、こちらに顔を見せるわけでもなく。
—————そういえば、キョウさんはいくら炎をぶつけられても表情を変えなかったなあ。
「キョウさんは、怖くなかったんですか?」
特に考えることなくぽつりと言葉が零れた。
「あの時、出力最大の攻撃は防げないって言ってました。あそこ一帯を焼き払われそうになって、キョウさんは怖がってなかったから、もしかしてキョウさんには何か考えがあって、私が余計なことをしちゃったのかなって」
久しぶりにこちらを見た表情は、暗くなった空のせいでぼんやりとしか見えない。彼が、何を考えているかなんて、一割だって分からないままだ。
「余計なことじゃないよ。あの魔法はさすがに俺も防げなかったし、君がああやって自分が燃えることも厭わずに特攻してくれたおかげで、助けが来たんだから」
「それならなんで、」
死ぬ間際まで、彼は笑っていられたのか。
「………なんでだろうねえ」
ふふ、っと。笑いをこぼすキョウさんが、何を面白いと思ったのかも分からない。
「そうだなあ、じゃあ昔話をしようか」
「昔話?」
「ご飯ができるまでもう少し時間はあるだろうし、さっきはフレアに邪魔されちゃったしね。暇つぶしにでも聞いておいてよ」
私の瞳を覗き込んで、深い紫色の瞳が三日月みたいに細められた。
※
昔話、って言っても、紅にはきっと分からない、違う世界の話だよ。
そうだね、紅たちの住んでいる場所の科学の世界っていうなら、俺の住んでいた世界は魔法の世界だ。当たり前みたいに色んな人が魔法を使ってた。
—————ところで、魔法の動力ってわかるかな。
魔法を使うためのエネルギーが必要なんだよ、なんとなくわかるだろ?君たちの世界のことはよく分からないけど、俺たちの世界での動力はエネルギーだった。
もっと詳しく言うと、生きるためのエネルギー。魔法の正体って、結局は生命力なんだ。少しの量なら自分が生きるために必要なエネルギーから魔法にまわしちゃえばいい。でも大きい魔法を使おうとすれば、それは他から奪わなきゃいけないわけで。
………なにか物騒なこと考えてない?他の人を殺したりなんてしないよ。俺たちにだって倫理観はあるんだから………なけなしの、だけど。
それじゃあどうするか、簡単に言うと世界から借りるんだよね。
※
「世界から生命力を借りる………?」
「別に人だけが生きてるわけじゃないでしょ?風だって土だって木だって、生命力を持ってるんだから。そういう身の回りの自然から借りて、大魔法は使われてたんだよ」
つまり彼らの言う魔法とは、地熱発電や風力発電とあまり変わりはしないのかもしれない。吸収したエネルギーを、どういう形に形成するかの違いはあるけれど、そこが違うだけで。
「でも生命力って無限じゃないんだ。俺たちが大魔法を使えば使うほど、世界は死んでいった。世界が死ぬと魔法は使えない。それどころか生きていくこともできなくなっちゃって」
「………じゃあ地熱発電っていうより、化石燃料なんですかね?」
「………俺、人間の世界のことはよく分からないけど、紅がそう言うならそうなんじゃないかな」
ちょっと困ったように眉毛を下げるキョウさん。うん、確かにその通りだ。
「どんどん生命力を、魔力を吸い上げて、使いすぎて、俺たちの世界ってもう『生きれる場所』じゃなくなっちゃったんだよね」
「だからこっちの世界に………?」
「察しがいいね、紅は」
つまりこれは、この世界の滅亡の原因は、結局戦争だったんだ。資源をめぐって、生き残りをかけて、魔法使いは私たちの世界にやってきて、そんな戦争に巻き込まれていたことさえ知らない人間はたやすく蹂躙されるしかなく。
「簡単に言っちゃったけど、こっちの世界に来るのも、こっちの世界のエネルギーを奪うのも、本当はすごく大変で色々準備が必要だったみたいだよ」
「そもそも、どうして魔法の世界はそんな風になっちゃったんですか?」
土地を枯らしてしまうほど、魔法を使用する状況にどうしてなってしまったのか。問いかければ、キョウさんはまたもあっさりと口を開く。
「そりゃあ戦争だよ、戦争。国盗り合戦。魔法の世界の。紅だってさっき見たでしょ?フレアはその気になれば、半径十キロを完全に焦土にできるんだ。その分、すごい生命力は吸い取ってるけど、それはともかく。そんな魔法使いたちが自分の利益を巡って争えば、どうなるかは分かるだろ?」
「それは………街が燃えて土地が焼けて………人が住めなくなるんですかね?」
「そういうこと。賢いね、紅は」
………キョウさん、魔法使いなのにこんなに色々教えて大丈夫なんだろうか。フレアさんっていう魔法使いに狙われてしまうのも分かる気がする、キョウさんみたいになんでも敵方に喋ってしまう味方は敵よりも厄介だ。
「————こっちの世界、俺はすごく好きだよ」
「………そうなんですか?」
「うん」
私から見れば、今の世界は滅んだ世界で、私の知る快適な世界には程遠い。それでもキョウさんはこの世界が好きだと言う。文字通り「住む世界」が違う。
「紅、俺にご飯、分けてくれたでしょ?」
「ああ、そんなこと、それはもう脅されていたので」
「でも紅は、怯えるよりも『食べ物くらいあげるよ』って言ったんだよ?生のネズミを食べようとしてた俺を止めて、そういうの、すごく………」
ふと、言葉が途切れた。キョウさんの顔を下から見上げたけれど、表情は見えない。
「キョウさん?」
「ごめん、どう言えばいいか分からなかったや」
口元を綻ばせてこちらに笑顔を向けるキョウさんは、どこにでもいる至って普通の青年のようで息を呑みかけて————ぎゅっと目をつぶった。
まるで普通の人のような仕草に騙されそうになるが、彼は魔法使いだ。きっと、人を殺している。だから、信用してはいけない。そう思うのに、可哀そうだと思ってしまうのはなぜなんだろう。
「お、仲良くしてるな~、いいことだ!」
その時、狐面をかぶった小さなシルエットが、両手に鍋を抱えてこちらに歩いてくるのが見えて、慌てて体を起こした。
「あれ、寝ててくれてもよかったのに。まだ痛むだろ?」
「いえ………だいぶ治まってきました」
「んー?そういうものなのか?私、火傷はしたことないから分かんないんだよなあ」
波蝶さんは話しながら、てきぱきと私とキョウさんの前に鍋を置いた。そのまま蓋を開ければそこには。
「シチュー!」
鍋の中にはたっぷりとシチューが入っていて、思わず声を上げてしまう。しまった、子供っぽいと思われたかもしれない。でもテンションが上がるのはしょうがない。
私はしばらく本部にいたけれど、それでも素うどんや乾パンを食べることが多かったのだ。それに食べる人数も多かったから、こんな風に出来たてで温かいシチューを食べる機会はなかった。助けてもらった上に、こんないい物を食べさせてくれるなんて、至れり尽くせりすぎる。
「へえ、これシチューっていうんだ」
「そうだよ、キョウさんは………」
鍋の中を興味深々で覗き込んだキョウさんが、感心したように呟くので話しかけようとして、言葉に詰まった。キョウさんは魔法使いだから、私たちが当たり前に知っていることを知らない。ということはつまり、こうして波蝶さんと一緒にいれば、キョウさんが魔法使いだということが分かってしまうわけで、魔法使いと言えば世界を滅ぼした人たちなわけで。
慌てて波蝶さんの方をうかがうと、小さく首を傾げられる。
「あ、あの、キョウさんは魔法使いなんですけど………さっきも私のことを守ってくれて、その、だから悪い魔法使いではないというか………」
「あ、もしかして、私が気にするって思ってる?」
お皿にシチューを分配しながら、波蝶さんが笑い声を上げた。
「安心して!私、魔法使いだからって嫌いだとは思わないし………。っていうか、魔法使いの全部が悪い奴だとは思わないしさ」
「へえ、それは珍しいね。危機管理能力足りないんじゃない?」
「キョウさん!」
せっかく魔法使いだってことを気にせずに料理まで作ってくれた人に、なんてことを言うんだ!と睨めば、ひょいっと肩をすくめるキョウさん。絶対反省してない。そのわりにシチューはきっちりと受け取るんだから、肝が据わっているのか常識が消えているのか。………後者じゃないといいなあ。
「ごめんなさい波蝶さん………」
それはともかく、キョウさんはさっそくシチューを食べ始めていて謝る気はまったくなさそうなので、お皿を受け取りながら謝罪。
「いいっていいって、魔法使いって多かれ少なかれちょっと常識違うところあるしな」
「へえ、詳しいんだね君。君ももしかして魔法使いだったりする?」
スープを口に運びながら、キョウさんがちらりと波蝶さんの顔をうかがう。とはいえ波蝶さんは狐面装着なので、表情はうかがえないはずだ。
「いや?私はなんの変哲もないただの人間だよ。ただちょっと、魔法使いで知ってる奴がいたってだけの話」
私とキョウさんにお皿を配り終えた波蝶さんは、なんてことない口調でそう言って立ち上がった。
「あれ、波蝶さんは食べないんですか?」
「ん、私はさっき携帯食料食べたからな。今から先生を迎えに行ってくるから、二人ともここでゆっくり休んでてくれ」
「先生………?」
波蝶さんの言葉に首を傾げると、腕組みしたまま一度頷かれた。
「そう。あんまり魔法使いの前で言うことじゃないとは思うけど………魔法使い退治の先生だな」
その言葉を聞いて、笑顔のキョウさんの目に一瞬怪しい光が浮かぶ。ああ、これはまた荒れそうだ。
キョウさんは今でこそ私に協力してくれているけれど、実態は魔法使いでこちらの世界にやってきた侵略者だ。原理もよく分からない能力で、私たちが抵抗する間もなく世界を蹂躙した。
だけど生き残った人が数名いる以上、魔法使いに対抗する人間が現れてもおかしくない。魔法使いだって万能ではないということは、本部にいる魔法使いの話やキョウさんがフレアさんに対抗できなかったことからも明らかだ。
つまり魔法使いも『倒せる』。
それなら、魔法使い退治の専門家とキョウさんが急に戦い始める可能性はかなり高い。うっかりキョウさんが「先生」を食べてしまわないように気を付けないと。
………と思っていたのに。
「遅れてごめんね~、どう?手、酷い火傷になってたみたいだけど」
「あ、はい………波蝶さんが綺麗に消毒してくれたので」
四輪のジープに乗って現れたのは、言ってしまえば近所にいるおじさんみたいな人だった。へらへらと笑っている様子からも、凄腕の魔法使いキラーとは思えない。
現に、包帯に巻かれた私の手を見て、うんうんと頷いている姿は一周回って近所の診療所の先生みたいでほっとする。
「君のおかげで助かったってのもあるけど、あんまりあんな無茶しちゃダメだよ。君はほら、特に女の子なんだから」
「あはは………でも、どうやってあの魔法使いの動きを止めたんですか?」
「ああ、あれね。液体窒素だよ。一瞬はなんとかなるけど、すぐに溶かされちゃうからあんまり意味ないんだがねえ」
どうやらこの「先生」は、私がフレアさんに掴みかかったあの瞬間、液体窒素のボンベを投げつけたらしい。
「キョウさん、液体窒素で魔法って防げるの?」
「んー、まあ魔法にも色々な原理や制約があるしねえ。フレアにとってああいう強烈な冷気は弱点だったのかもね、っていうか」
お皿にあった分のシチューは食べ終わってしまったらしいキョウさんが、鍋から無断でシチューをおかわりしながら口を開く。
「俺、液体窒素が何か知らないし」
「………あ、そっか」
言われてみれば至極当然。液体窒素なんて化学物質を、魔法の国からやってきた魔法使いが知っているはずもないのだ。私たちが魔法使いのことについて何も知らないのと同じように。
「魔法使いも万能じゃないっていうの、案外そういうところなのかもね」
残念ながら(?)戦う間もなく人間の世界はめちゃくちゃにされてしまって、化学兵器で立ち向かおうという暇もなかったけれど、実際に一対一で戦えば勝ち目はあったりしたのだろうか。
————もしくは化学兵器じゃなくて、あの子みたいな能力があれば。
「かなり距離はとったから大丈夫だとは思うけどな、一応これ食い終わったらまた移動するか。君らは目的地、どこなんだっけ?」
物思いにふけっていた私に、先生が声をかけてくる。そういえば、こんな危険地帯をふらふらと二人で移動していた理由をどう説明すればいいんだろうか。なんにも考えてない、どうしよう。
「俺たちは魔法の国に行くつもりなんだけど………どっちか、道を知らない?」
しかしキョウさんはあっさりしたもので、簡単に自分が魔法使いで魔法の国に行きたいのだと言ってみせたのだ。
「………この二人は魔法使いだったのか?波蝶」
「あ、いや………紅は………どうなんだ?」
「私は魔法使いじゃないです!」
本来だったら魔法使いが動き回っている場所を出歩くことさえできないくらい、非力でどうしようもない人間だ。
「………本当に?」
————だから。こんな風に私が疑われることは、まったく想定していなかった。
先生の、さっきまで優しく細めていた目に疑いの色が浮かぶのを見て、慌てて大きく首を横に振る。
「え、えっと、私は本当に人間で………魔法使いのことは何も知らなくて………」
「あ、いや言い方が悪かったな。魔法の国から来た魔法使いじゃないってことは分かってるけど、人間でも特殊な能力を持ってる奴っているだろ?違うか?」
ああ、そうか。本部にいた吸血鬼や、一度本部を襲撃した土人形の少女のように、人間の世界にいても神秘の片鱗を宿している人はいる。つまり先生はそういうことを聞きたかったようで。
「私は何も特殊な能力は持ってないです」
きっぱりと言い切って………ほんの少しの罪悪感。嘘はついていないけれど本当のことは言っていない。今の私はなんの特殊能力も持たないただの人間だけど、もっとずっと前、私が覚えていない間、私はどこかおかしかったのだから。
「ふーん、そっか。いやごめんね、見た目じゃ分かんないからさ、こういうのは」
果たして。先生はへらりと目尻を下げて笑った。ごまかせた………みたい。
ごめんなさい、と心の中で謝る。本部の人に何度聞かれても、魔法使いに見てもらっても、どうして私にあんなおかしなことができたのかは分からなかった。
匙を投げて「奇跡でも起きたんじゃないの?」と言った人もいるくらいだ、説明できないことを中途半端に明かして余計に不信感を招くことは避けたい。
「あー、安心したら腹減ったな。波蝶、俺にもシチューくれる?………ありがと」
「先生、なんか収穫あった?」
「いやなーんも見つかんない。参っちゃうよねえ」
「参ってる場合かよ………」
このおじさん、先生と呼ばれている割にあまり敬われている雰囲気はしない。さっき私を詰問した時の雰囲気は少し怖かったけれど、波蝶さんと同じで魔法使いのキョウさんに突っかかったりはしないし………。
「そうだ、君たちの話だったな。とりあえず魔法の国に繋がってる道まで案内するよ。と言っても一つしか知らないんだけどね………俺たちも」
私にとっては、魔法の国に繋がる道があることさえ初耳だし、それを先生たちが知っていることにも驚いたのだけど。キョウさんが当たり前みたいに「よかった、歩くの疲れたんだよね」と笑ったから、そういうものかと納得することにした。
※
波蝶さんと先生が話しながらにぎやかな夕食は終わって、四輪ジープで荒れた道を走り抜けて。月明りでしか道が確認できなくなったところで、先生が車を止めた。
「もうしばらくかかりそうだけど、とりあえず暗くなったら危ないからここで野宿するか」
「はいっ………」
「ごめんな紅ちゃん、手が痛いだろ」
先生の気遣い通り、激しい道をジープが走り抜ける振動でさえ傷に響いて痛い。波蝶さんが懐中電灯で照らせば、包帯はすでに赤く染まっていた。
「ありゃ、これは酷いなあ」
横からひょいっと覗き込んだキョウさんが、小さく首を振る。
「フレアも本当に容赦ないなあ、動くものは全部燃やし尽くすんだから」
「えっと、元はと言えばキョウさんを狙って現れたんじゃなかった………?」
「俺がいないと友達を助けれる人には出会えないよ?」
そう言って完璧な微笑を浮かべるキョウさんとしばらく睨みあったけれど、根負けして視線を落とした。
今のところ、私がキョウさんに勝てる要素なんて少し多めに食べ物を持っていること以外何もないのだ。その食べ物だって、キョウさんがその気になったら奪われてしまう。かなり私が不利な立場の取引関係なことは最初から分かっていたから、今更言ってもしょうがないことだけれど。
「紅は私の隣で寝なよ、キョウと先生はそっちで寝な」
「あれ、いいの?俺魔法使いだよ?魔法使い退治のプロなんて物騒な奴、夜のうちに食べちゃうかもよ?」
「………ぞっとすること言うなあ、お前」
鳥肌でも立ったのか、自分の二の腕をしきりにさすりながら、それでも先生はキョウさんの隣に寝袋を準備していた。
「できれば殺さないでほしいんだけどねえ」
「殺さないよ、食べるだけ」
「あ、あの、私があっちで寝た方がいいんじゃないですか………?」
先生とキョウさんの間の空気が険悪な気がして、波蝶さんの方を向いて首を傾げる。しかし波蝶さんは片手をひらひらと振って、「大丈夫だよ」と軽い反応だ。
「先生はそう簡単にやられないよ。簡単にやられないから先生なんだ」
「でも………」
「それに、私が紅と喋りたいしな」
「私………ですか?」
なんの面白みもない私なんかと喋って、何が聞きたいんだろう。というか波蝶さん、寝る時はその狐面をどうするんだろうか。
「………あ、これ?寝る時は息苦しいから外すよ」
「あ」
あまりにもあっさりと狐面を外して、寝袋の頭の方に丁寧に置く波蝶さん。ランタンに照らされた顔はぼんやりとしか見えなかったけれど、顔に傷があるとかではなく、普通の女性の顔だと思った。
それならなおさら、どうして狐面で顔を隠しているのかと思ったけれど、きっとこれは聞いちゃいけないことなんだろうなあ。
「ほら、紅は手が使えないんだから手伝ってやるよ」
「何から何まですみません………」
波蝶さんが広げてくれた寝袋にごそごそと潜り込んで息をつく。視線をキョウさんと先生の寝袋がある方に向ければ、すでに明かりは消されていた。
「んじゃあ、私たちも光消すからな」
「はい、お願いします」
ランタンの光が消されて、視界は闇に閉ざされた。人の作り上げたすべての明かりが壊された世界で、何もない場所に寝転がって寝るなんて、昔は想像したこともなかったけれど。やっていれば慣れるものだ。この状況で誰かとガールズトークまではしたことなかったけれど。
「………紅、嘘ついただろ」
しかし波蝶さんが口にしたのは、私の気持ちを強く揺さぶる言葉だった。
「………なんの話ですか?」
「なんにも特殊能力がないってやつ。あれ、嘘だろ?」
とりあえずしらばっくれてみたけど、こうもはっきり嘘だと言われてしまえば、言い返すことも難しい。
「………喋りたくないなら、いいけどさ。誰にでも話したくないことの一つや二つ、あるわけだし」
「すみません、あの………」
真っ暗闇の中では、波蝶さんの声しか聞こえない。どんな表情をしているかわからない。さっき確認したけれど、キョウさんと先生の寝ている場所からはかなり距離がある。
ここなら、何か言っても聞こえないか、どうだろう。言わない方が安全なことは分かる、けど。
「私、消えちゃいたいって思ったんです」
————安全策よりも。誰かに聞いてほしいという気持ちが勝った。
「私のこれまでの行動で、私の知らないところで傷ついてる人がいるってことを知ったんです………あの、世界が滅亡しちゃった日に」
何度も夢に見た。何回も後悔した。心の中で、もう私の声なんて聞こえない彼女に何度も何度も謝った。だけどそんなことが一体なんの役に立つというんだろう。
「だから消えちゃいたいって思った。彼女の人生を狂わした私ごと、私の影響力ごと、全部消えてしまえばもしかしたら、なんとかなるんじゃないかって」
「うん」
結局それは自分勝手な逃げでしかなかったけれど、それでもその時はそう思ってしまったのだ。もちろんどうにもならなかった。当たり前の帰結だ。
ここまで深く傷つけておいて、私が姿を消したからと言って解決するはずもない。それなのに私が咄嗟に願ったのは、自分が逃げることだった。
そして何よりも最悪なことに。
「逃げたいって願って、そんな自分勝手な願いが叶っちゃったんです」
私の自分勝手な願いは、どういう原理か分からないが叶ってしまった。叶うのなら、もっと違うことを願えばよかったなんて思ってももう遅い。私が心の底から強く願った思いが、きっと神様に届いてしまったのだ。
「覚えてないんですよ私、願ってから私が何をしていたか。でも世界のどこかで現れたり消えたりしながら、ずっと逃げ続けてたみたいなんです」
そうやって、気が付いたら全部が終わっていた。目が覚めた時に私に残されていたものは、私から逃げる能力を奪いとった刀傷と、逃げ続けたせいで以前よりも傷ついてしまった友人だけだったのだ。
「現れたり消えたりって、要は透明人間みたいになってたってことか?」
「そう………らしいです。自分では何も覚えてないので分からないですけど」
こうして私の自分勝手な願いと、逃げ続ける生活は終わりを告げた。終わったところで私には何も残されていなかったし、あの子にも何も残っていなかった。
「卑怯じゃないですか。なんだかよく分からないけど自分だけ願い通りに守られて、私のことをずっと探していた人が傷ついて」
「………うん。ずっと探すの、辛いよな」
そう言う波蝶さんの言葉に不意に仄暗い響きが混じった気がしたけれど、顔を見ても表情にはなんの変化もなかった。
「今更全部、手遅れかもしれないけど、せめてここから先は逃げないようにしようと思って」
あの子の傷を癒すために。言葉を締めくくると、波蝶さんは納得したように頷いた。
「そっか。だから今日も、逃げなかったんだな」
—————両手が焼けても溶けても、逃げなかったんだな。
ほんの少しだけ咎めるような口調だったから、咄嗟に言い訳が口をつく。
「本当に馬鹿なことをしてるなって、思うんですけど、」
「いや、いいんじゃないか?それがお前の………紅の望みなら」
ふう、と息をついて。波蝶さんが私の肩に載せていた手を引っ込めた。
「私もさ、気持ちは分かるよ。紅と同じで私も後悔してるから、こうやって危なっかしいことしてるわけだし」
「そうなんですか………?」
「そうなんだよ、恥ずかしい話なんだけどね」
横を見てみれば、波蝶さんはどうやら夜空を眺めているらしい。ぼんやりとした輪郭しか見えなかったけれど、今は月が雲に隠れているし見上げたところで夜空は何か面白いものだとも思えない。つまりは物思いにふけってるってことだ、それならと私も夜空を見上げてみた。
当然のように真っ暗な空が広がっているだけで、何も見えはしなかったけれど。
「私のこれは………なんだろうな、後悔。うん、後悔だ。それも紅と同じ、私の知らない人をたくさん、きっと紅よりももっとたくさん、傷つけちゃった。せめてこれ以上誰も傷つけないために、私がなんとかしなきゃいけない」
波蝶さんの言うことは難しくて、私にはこの人が一体何を悔やんでいるのかさっぱり分からなかった。表情だって分からないのだ、細かい言葉のニュアンスなんて、私に分かるはずもない。
「私はきっと誰かを幸せにできる人間になりたかったんだけど………ああごめん、なんかださいな。でも普通の人には言えないから、紅が聞いてくれないか?」
「………はい、聞きます」
頷いた、けれどその動きも見えないだろうと思って、言葉で肯定する。波蝶さんはそんな返事を聞いて、「ありがとう」と小さく呟いた。
「こんなこと、誰にも言えないんだけど」
月にかかっていた雲が流れたのか、弱い月明かりに照らされて泣きそうな顔で微笑む波蝶さんの顔がほんの少しだけ見えた。
「—————私のせいで世界が滅亡しちゃったって言ったら、私を憎むか?」
それはまるで、懺悔のような言葉だった。
波蝶さんの言葉が真実なのかは私には分からない。一瞬頭をよぎったのは、傷つきながら戦ったあの子のことで、いまだ目を覚まさないあの子のことで。だけど、でも。
「憎まないです」
思ったよりも悩むことなく、答えは簡単に口から零れ落ちた。
「分かんないですけど、私は世界がこんな風にぐちゃぐちゃになったことなんて気にしてないんです。私の大切な人は生きてる、でももうすぐ死んじゃうかもしれない、それが嫌だから今はこうして旅してるけど、原因は世界の滅亡じゃないから」
言い切ってしまえば自分の言葉が自分でも腑に落ちた。私は単純な性格でおまけに馬鹿だから、仇討なんて考えないし世界がどうして滅亡したかなんてどうでもいい。
取引しているキョウさんの話は詳しく聞きたいけれど、波蝶さんは魔法使いじゃない。
それなら波蝶さんが何をしていてもいい、私はただあの子の後悔と摩耗する命を助けるためだけに動いている。
「あの、正直に言っちゃうと、波蝶さんに対する憎悪なんて抱えてたら、重くて動けなくなっちゃうじゃないですか」
「………だからいらないって?」
「そういうことなんですかね………?」
分からないけれど、私は不思議なくらいに波蝶さんを憎めない。キョウさんだって憎めないんだから、もしかしたら人を憎む、みたいな感情があんまり発達してないのかもしれないけれど、それでもいいと思えてしまう。
私の目的は変わらない、波蝶さんがどういう出自の人間で何をしようとしたかは、それを気にする人がなんとかしてくれるはず。
「………そっか」
言い切れば、波蝶さんは何が面白いのか声を押し殺して喉で笑った。
「あの、私何か変なこと言いましたか?」
「いや?言ってないよ。でもその言い方、やっぱ普通の人間には聞こえないから気を付けた方がいいんじゃないか?」
「そうなんですか?」
そういえば昔から、「あなたは少し周りと違うよね」なんて言われてたっけ。
「私、やっぱりちょっと変ですか?」
「ってことは、やっぱり普通の人間じゃないんだな」
「誘導尋問ですね!?だからさっきも言った通り、私はもう何もできないんですって!」
「ははっ、別に紅が普通の人間じゃなかったからって私は気にしないけどな」
どこか愛おしそうに、波蝶さんが目を細めたのが月明りでぼんやりと見える。
「………波蝶さんはどうして人間じゃないものに対する耐性がそんなに高いんですか?」
「言っても信じないと思うけど、私もっとずっと昔に牢屋から魔法使いの犯罪者を連れ出して脱出して、ついでに魔法の世界も救っちゃったんだ」
「………さすがに冗談、ですよね?」
「さあ、どうだろうな。でもそういうちょっと常識からずれたところが、私の知り合いに似てて懐かしくなったんだよ」
波蝶さんは上手く私の質問をはぐらかす。誤魔化されないです、という気持ちを込めてじっと顔のあたりを見てみたけれど、再び雲が月を隠してしまったせいで何も見えない。
「ん、話してくれてありがとな。暗くなったしもう寝よう。明日に備えて、な?」
「………はい」
上手いこと丸め込まれた気がするけれど、しょうがないか。まずは休むことが先決、だ。
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