第2話 

車のキーがガチャガチャとなる音で目が覚める。

時計を見ると、「8時30分」となっている。

あれ、こんな遅くて大丈夫と思ったが、そういえば今日は土曜日だ。

優太を起こさないようにゆっくりと起き上がった。

「おきたか。おはよう。」

正志が、換気扇の下でタバコを吸いながら言った。

「おはようございます。」

そう言い、私はトイレに行った。

「詩織持って帰ってくるからな。」

トイレのドア越しに正志が言う。

「ん?あ、はい、いってらっしゃい。」

そうか、土日は詩織をうちで預かることになっていた。

実の娘を預かるって言うとなんか変だけど・・・。

玄関のドアがバタンと閉まる。

「持って帰ってくるって・・・。」

と小声で呟いた。


二人目の女の子の詩織が生まれてから、美幸の様子がおかしくなってきた。

しんどそうに見えても、

「病院の診断結果には問題ないから、産後ちょっとやる気が出なくなるのは普通のことらしいから。」

と言うばかりで、弱音は一切吐かなかった。

でも、だんだん朝起きるのが遅くなったり、部屋が片付けられなくなったり、

お金がもったいないからとずっとご飯は作っていたのが、

だんだんと食卓に冷凍食品が並び始めるようになっていった。

「最近冷凍食品が多いな・・・。」

「・・・ごめんなさい。妻失格ですよね?」

「いや、そこまでは言っていないよ。」

美幸はちょっと泣いているように見えたけど、

本当に辛くなったら、言ってくれるだろうと思っていた。

美幸は美幸で、いつか気づいてくれるだろうと思っていたらしい。

「洗い物は俺がするよ。」

俺は美幸がちょっとでも楽になるように気遣いで言った。

「・・・ありがとう。」

としんどそうな顔のまま美幸が言った。

洗い物をしていると、

カラカラっと、ベランダの窓の開く音がした。

なんだろうと振り返ると、美幸は窓の外に体を乗り出していた。

「バカ!」

とあわてて走り寄り、美幸を抑えた。

「何考えてんだ!」

その怒声にびっくりしたのか詩織が大声で泣き出す。

「私なんていない方がいいんでしょ、家事も育児もロクにできていない私に居場所なんてないんでしょ。」

美幸をこれまでせき止めていたものが決壊し、子供のように泣き出した。

美幸の尋常ではない姿に危機感を感じすぐに救急車を呼んだ。

美幸は、うつと診断を受けた。


”アジサイ学園”

ここが今詩織を預かってもらっているところだ。

家から車で30分ぐらいのところにある施設だ。

「高橋さんですね、詩織ちゃん良い子にしていましたよ。」

自分と同い年くらいの30歳くらいの女の人が出迎えた。

「そうですか。」

俺は、詩織をベビーシートにのせる。

「それじゃあ、山田さんまた明日の夜来ます。」

「はい。待っています。」


家に帰ると美幸は部屋着から着替えていた。

部屋はある程度片付いていた。

「お帰りなさい。今から病院行ってきます。」

「あーそうか、いつぐらい帰ってくる?」

「お昼の12時ぐらいになると思います。」

「あーそうか、いってらっしゃい。」

「いってきます。」

美幸は詩織の顔を一瞬見た後出て行った。

寝ている優太を起こさないように、

詩織をゆっくりとベビーベッドに寝かせると、

換気扇の下に椅子を置き、タバコに火をつけた。


美幸が帰ってきた。

時計は「11時58分」となっていて言って通りの時間に帰ってきた。

手には、1週間分の抗うつ剤と薬局で買って来た離乳食を持っていた。

「ただいま。」

「おかえり、昼は食べてきた?」

「さっき、軽く済ませてきました。」

「優太のご飯はもう済ませましたか?」

「まだ。」

「よかった、じゃあ今から作ります。」

と美幸は買って来た離乳食を作り始めた。

美幸が離乳食を作っていると、

「病気は治りそうか?」

正志がなんとなしに聞く。

「んーどうだろう、まだしばらくかかりそうです。」

美幸は離乳食を作りながら正志に背を向けたまま答える。

「そうか・・・。」

と正志は言い、それ以上は何も聞かなかった。

正志は、美幸にいつもより優しく接するように気を付けていた。

気をやまないように、安心できるように・・・。

でも、それは正志の勘違いだった。

全くできていなかった、寧ろその気遣いが美幸を苦しめ続けていた。

美幸が正志に求めていることは何もない。

何もしないでほしい。何も喋りかけないでほしい。


正志は不意に人を傷つける言葉を吐く。

悪意を持ってではなく、善意で言っているのがなんとなくわかるので

言い返せないし、言い返すのもしんどいと思っていた。

精神疾患を患っている人に対して、

”病気は治りそうか”なんて、絶対に言ってはいけない言葉なのに

正志は普通に言えてしまうのだ。

その言葉で相手はどう思うのかよく考えずに吐いているのではと思ってしまう。

そんな言葉を吐かれたら右から左に流すようにしている。

言葉の意味を考えても余計に傷つくし、多分深い意味もなく言っているから、

適当に返している。

正志もそんなに追求してこないので会話のラリーは基本1回だけだ。

”私の病気がなかなか治らないのはお前のせいだよ!”と言ってやりたい気持ちを抑えて私は母親を演じていた。


「しんどいなら、優太も預かってもらうか?」

「え?」

美幸は、今日初めて正志の方に顔を向けた。

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