この橋渡るべからず

 鹿苑寺に向けて歩く二九休にくきゅう。川に差し掛かった。


「おや、橋のたもとに立て札があるぞ。真新しいから最近立てられたものだな」


 足を止めて立て札を見上げる二九休。そこにはこう書かれていた。


『この橋渡るべからず。泳いだり船などを使うのもダメ。もし言い付けを破ったら厳罰に処す。生きて帰れないと思え』


「あらら、さっそくトンチ合戦の開始ですか」


 これが将軍義教の仕業であることは間違いない。知らん振りして橋を渡れば確実に仕置きを受けるだろう。二九休はしばし思案する。


「一番簡単なのは別の橋を渡ることだけど、それじゃあ時間がかかり過ぎて遅刻しちゃうなあ」


 義教から届いた書状には『もし約束の刻限に遅れることあらば厳罰に処す。生きて帰れないと思え』と書かれていた。遅参は絶対に許されない。


「あ~、困ったなあ。漢字じゃなくて『このはしわたるべからず』って平仮名で書いてあったら端ではなく真ん中を渡りましたって言い訳ができたのに、残念」


 頭を抱える二九休さん。その姿を木陰からこっそり覗き見ている者がいた。将軍義教である。


「ふっふっふ。困っているな。父上の日記をつぶさに研究しておいてよかったわい」


 義満の死から二十年、義教は無為に時を過ごしていたのではなかった。なぜ父は一休に勝てなかったのか、その敗因を徹底的に分析し勝利への方策を模索し続けていたのだ。

 そして今回、橋を端と言いくるめられないようにわざわざ漢字表記に改め、泳いだり船の使用を禁止する文言まで追加した。


「これで川を越えることはできまい。諦めて寺へ帰るか。別の橋を渡って遅参するか、いずれにしてもわしの勝ちだ。二九休、破れたり!」

「しようがないな。奥の手を使うとするか」


 突然二九休が座禅を組んだ。目を閉じ、右の人差し指で左の手のひらを突っついている。


「ぷに、ぷに、ぷに、ぷに……」

「あやつ、何をしているのだ」


 義教は知らなかった。二九休の知恵の秘密、それは左手にある肉球なのだ。鎮静効果のある手のひらのツボ、手心しゅしん。二九休のその部分は猫の肉球のように盛り上がっている。見た目だけでなく感触までそっくりで、指で突くとぷにぷにしてとても気持ちが良く、やがて精神は天界のように澄み渡り、その結果人智を超越した閃きを生じさせることができるのだ。


「ぷに、ぷに、ぷに、チーン! うん、閃いた」


 二九休は座禅を解くと堂々と橋を渡り始めた。何の躊躇もない。義教は驚愕した。


「ど、どういうことだ。あの小坊主、血迷ったか。問いただしてやる」


 木陰から飛び出そうとする義教。しかし従者がそれを止めた。


「殿、お待ちください。このような場所で将軍が小坊主を詰問するのは見栄えが悪うございます。ここは一旦鹿苑寺に戻り、その場で詮議するのが得策かと」

「それもそうだな。よし、戻ろう」


 義教は従者の意見に従い、馬に乗って鹿苑寺に戻った。しばらくして二九休がやってきた。さっそく目通りする。


「こんにちは将軍様。安国寺の二九休です。本日はお招きいただきありがとうございます」

「うむ、よく来た。第六代将軍足利義教である。ところでここへ来る途中、橋がなかったか」

「ありました」

「立て札には『この橋渡るべからず』と書かれていなかった」

「書かれていました」

「ではどのようにして川を越えたのかな」

「あの橋を渡って川を越えました」


 悪びれることなく話す二九休に義教のイライラが募っていく。


「橋を渡れば厳罰に処すと書かれていなかったか」

「書かれていました」

「書かれていたにもかかわらずあの橋を渡ったのであれば、罰を受ける覚悟はできているのだな」

「いいえ。できていません。だって私は立て札に書かれていた橋を渡ってはいないのですから」

「なんだと。先ほどと言い分が違うではないかっ」


 ここに来てついに義教の怒りが爆発した。


「わしをからかっておるのか。あの橋を渡って川を越えたと申したであろう」

「はい」

「ならば罰を受けねばならぬ。おい誰か鞭を持て。この小坊主を叩きのめしてくれる」

「お待ちください、将軍様。確かに私はあの橋を渡りました。しかし立て札に書かれていたのは『この橋渡るべからず』です。私が渡ったのはあの橋です。この橋ではありません」

「橋が違う、だと」

「はい。私が渡ったあの橋がこの橋である証拠はどこにありますか。そもそも立て札に書かれていたこの橋とはどの橋のことなのでしょうか」

「それはもちろんあの橋に決まっておろうが」

「そうでしょうか。本当にあの橋がこの橋なのでしょうか。あるいは上流にある別の橋がこの橋である可能性もあるのではないでしょうか。もし将軍様が私を罰したいのであれば、立て札に書かれていたこの橋が私が渡ったあの橋であるという証拠を見せてくださいませ」

「うぐぐ……」


 しくじった、と義教は思った。この橋などと曖昧な書き方をすべきではなかった。橋の名を書いておけばこのような言い逃れは回避できたはずだ。父と同じくまたも言葉遊びによって足をすくわれてしまった。


「もうよい。橋の件はこれにて終了だ」

「ふふふ。まずは私の一勝ですね」

「く、くそ」


 二九休の邪気のない笑いが一層義教のイライラを募らせる。


(まあいい、初戦は勝ちを譲ってやろう。だが覚悟しておけ二九休。ここからが本当のいくさなのだ)


 義教と二九休の戦いはまだ始まったばかりだ。

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