第4話 分水嶺の男(1)


 微かに潮の香りがしていた。加藤かとう亮一りょういちワン神美シェンメイが仮住まいする部屋があるのは「死の豪華客船」事件が起きた港町である。神美シェンメイはまだここでやることがあった。そして亮一にも…。

「船のなかで、お前は喪屍ジャンシーに噛まれた人間を殺すのに躊躇していたな。あれが命取りになる。すぐに楽にしてやれ。それが、お互いのためだ」

 銃を手にしたままで神美シェンメイが言う。立ち入りが禁止されたこの町には、一般の市民はおろか、警察さえやってこない。物騒なことをしても咎める者さえいないのだ。

「引き金に指がかかっている。指を外せ。誤射するぞ」

 亮一が言う。

「安全装置がかかってる、はずだぞ」

 シェンメイは言う。しかし、次の瞬間、銃声がこだまし、弾丸は道路のアスファルトを穿った。

「言わんこっちゃない…」

「この銃の安全装置はどうなってるんだ!」

 逆ギレした神美シェンメイが声をあげる。

「グロックの安全装置はトリガーに指をかけると解除される。そういう銃だ。だから指をかけるな。素人だなあ」

 亮一はつぶやくように言った。

 さきほどの銃声に驚いたのは二人だけではなかったようだ。誰も立ち入りが許されていないこの場所で、歩み寄ってくるものの影があった。

「た、助けてくれ…」

 男の声。

 二人の前に現れたのは、傷ついた中年男だった。破られ剥き出しになった左腕は黒く染まりゾンビ化している。しかし、その腕の根本はしっかりと縛られ、ウイルスは身体にまでは入り込んでいないようだ。

 男は腕を突き出す。右腕は人間。左腕はゾンビ。男はいま、人と人ならざるものとの分水嶺にいた。

「助けて、てくれ」

 男は再び二人に助けを求めた。

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