第2話 逃れの部屋

 コンクリート打ちっぱなしの半地下の部屋。明り取りの窓から差し込む光はいったん床面に反射して間接照明のように仄かに室内を照らしている。

 病室を思わせる白い鉄枠のベッドの上に男が一人。差し込む光のせいで眠りから覚めようとしていた。

 意識レベルが高まると共に厭な記憶が蘇る。死の豪華客船事件の記憶だ。鳴り響く非常ベルの音と燃え上がった室内の真っ赤な色。黒い煙の向こうから、ゆらりゆらりと歩いてくる者がいる。助けを求める声をあげるわけでもなく、ただ手を伸ばしている。SAT隊員のひとりが助け出そうと駆け寄る。しかし、次の瞬間には逆に逃げ出そうとしていた。助けようとした相手に噛みつかれたからである。相手はもう人間ではなかった。背中が炎に焼かれることさえ気づかぬ死者だったのである。歯牙は制服の耐火性の分厚い生地さえ突き破り、ウイルスを隊員の身体のなかに送り込んだ。タクティカルベストをつけていても腕は無防備だった。ゾンビに噛まれた者はゾンビと思えと教えられ、大きな外傷を負った者を助ける必要はないと命令されていた隊員たちだったが、自分たちの仲間がそうなったときは逡巡が生まれた。その隙をつくかのようにゾンビたちが迫る。気づくと炎をまとった黒い影に取り囲まれていた。無慈悲な死が男に襲いかかる。男は叫びをあげた。

 目覚めると目の前に女の顔があった。男と同じ東洋人だ。髪の毛が濡れていた。バスローブだけを羽織っていた。女の身体からは花の香りがした。男が死の船で嗅いだのと同じ匂いだ。

「目覚めたんだね。おまえは随分とうなされていたよ」

 女は言った。流暢な日本語だった。

 そして女は男の手を握る。白く長い指が節くれだった男の指に絡みついた。

「夢を見ていた」

 男が言う。

「ああ、知ってる。あの船の夢だった。だから様子をみに来たんだ」

 女が微笑む。ずっと男の夢を覗いていたような言いようだった。

「なぜ、あの日、俺だけ助けた…」

「さあ。気まぐれさ。お前は私の好みの顔をしている、っていうのは理由にならないか」

 女は言い、男の頬を撫でる。

「俺はお前に何もしてやることができない。ただ、助けられるばかりだ」

「いや、そうでもない。銃の撃ち方を教えてくれないか。私が知ってるやり方はまず筒の先から火薬と玉を入れるんだ」

 ジェスチャーでやってみせる女。その仕草にはかすかに色ごとのニュアンスが感じられる。

「ああ、そうだ。少しだけごちそうになっていいかな。お腹がぺこぺこなんだ。ここにはお前しかいないし」

「勝手にするがいいさ」

 男が言う。言い終わらぬうちに女は男に口づけをした。生気が吸い出されるのはこういうことかと男は思う。男のなかの何かが女に移っていく感触があった。そして、それは決して不快な感覚ではないのも不思議だった。

 この逃れの部屋で男は女にすべてを委ねていた。

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