コーヒーとラッパを
扉の向こうは白を基調とした清潔な空間だ。
10mほど薄暗い病院らしい廊下が続くと、両サイドのにくの字形のカウンターがある。病院の受付のようにも、バーカウンターのようにも見えるが、中に人はいない。
右側はものは少なくきれいに整頓されていたが、おそらく左側は使われていないようだ。人気が無い。人の存在がないだけでこんなにも薄暗くなるものなのだろうか。同じ形のカウンターでも別物に見えた。
カウンターを超えると、病院らしさは終わる。突然天井の高さがぐっと上がり、開放的な空間になる。土足にも関わらず白く保たれている床、大きいガラス張りの窓からは庭の芝生が30m近く広がっている。中央には、白い天使がラッパを吹くオブジェが乗った噴水に、ピンクと黄色の花が寄り添って並んでいる。
ガラス窓の手前に、丸テーブルが5つ、それぞれに2つずつ椅子が配置されて、嘘のような光景だ。
オカルトが作り上げた暗がりにうっすらロウソクの火が灯るようなお堂とは程遠く、現実の安楽死の現場は、手入れの行き届いた美術館のカフェや高級ホテルのような雰囲気だった。
あまりのギャップに、「まるで天国のようだ」と今からそちらへ向かおうとしている人たちも思わず口走るようだ。
唯一天国ではないと確信できるものが、広大な敷地の果てにそびえ立つグレーの高い塀だ。あの塀によってどこかの世界と隔てられているような、守られているような、不思議と安楽死の現場だと意識されられる。
おそらく、こんなにも綺麗な庭園に塀がなくては、地元住民の注目の的になっていただろう。こっそりひっそりがお約束の安楽死に塀は必要なのかもしれない。
ぼーっと天国を眺めていた丸田の前に、1人の男が、待っていたよと言わんばかりに現れた。
「やあ、まるちゃん!」
看護師や患者がカイ先生と呼ぶこの男こそが、安楽死堂の責任者、篠津カイ。精神科医であり、丸田を1週間前に拾った変人でもある。
カイも、この安楽死堂のイメージとは真逆の容姿をしていた。
さっぱりとは言えない長さの髪型で、毛先が無造作に散らばり、日本人離れした目鼻立ちとスタイル。そして異様に白い歯と清潔感が胡散臭さをより誇張している。
白衣を着た男性モデルだと言われれば誰も疑わないだろう。
高級そうなスリーピーススーツをラフに着こなし、ジャケットの代わりに白衣を身に纏う姿は絵になった。
さらにこの背景がますます撮影っぽさが強くするのだ。
「秋元さん、まるちゃんにカルテ見せてくれた?」
カイが秋元へ視線をやり、秋元は何かを諦めたようにため息をつき、口を開く。
「カイ先生、本当に私は知りませんからね!」
秋元が念を押すようにファイルをカイの胸に差し出し、先程の機能しているカウンターの中へ入った。
広角を上げながら鼻で息を吐き、受け取ったファイルを手で弄ぶ。子供のような動作で、へらへらと丸田に微笑みかけるのだ。
「まるちゃん、調子はどう?」
「…元気です」
白衣の男に調子を聞かれる意味を考え、慎重に答えるが、カイの表情からカジュアルな会話だったと丸田は気づいた。
「今日から頑張ります」と言い直し、本題へと話題を移す。
「ところで、私は何をすればいいんでしょうか」
丸田の切実な質問にも、適当に書類を眺めながら頭をポリポリかくカイは呑気だった。
「ん?そのまんま。オトモダチになるんだよ。」
カイと丸田は出会ってからこの会話を何度か繰り返している。何度訊ねても丸田の求める説明はなかった。
「最期のオトモダチ」以上の言葉は返ってこない。もはや「オトモダチ」に説明など存在しないのかもしれないと丸田も納得し始めていた。
よくわからない説得力と脱力感がカイにはあった。「もうやるしかないのだ」と思わせる天才なのだろう。丸田も秋元もカイにまんまと脱力させられ、逃げもせずこの場に在るのだ。
「わかりました。では、澤井さんはどこですか」
覚悟を決めた丸田が、先程見たカルテの名前を口にした。
「うん、もうすぐ来るはずだよ。今高橋が迎えに行ってる。」
高橋学はカイの同期で大学病院で精神科医をしている。ここに来る患者の窓口の一つだとカイから説明を受けた。
「とりあえずもう書類も揃ってるし、横井さんが到着したら、もうまるちゃんの出番だからね。」
カイが秋元から先程とは違う分厚いファイルを受け取り、パラパラとめくって、改めて丸田と目を合わせた。
「基本僕は必要ないんだよ。よろしくね。」
驚くほど爽やかで偽物っぽい笑顔のカイに丸田はゾッとした。
患者をど素人に放り投げるとは、とんでもなく重要なことなのに、カイに言われるとそうでもなく聞こえるから不思議だ。
それでも丸田は今から初対面の人と、最期の7日間を過ごし、さらにはオトモダチにならなくてはないのだ。
顔と名前以外は知らない。合うか合わないかも分からない。出会う前から友達になると決まっている不可解な状況だ。
更に丸田からすれば、未来のない友達。置いていかれる側だ。
それでも相手を知り、理解し、友達になるのだ。
どんな心持ちであればいいのかすら分からず、丸田は、庭の見える大きなガラス窓へ向かった。右寄りの丸テーブルを選び、椅子に腰掛ける。カフェで友人を待つような雰囲気になるだろうかと期待したが、何も変わらなかった。
ふと顔をあげると、秋元が書類の整理を始めている。彼女の隙のない動きとは対照的に、カイはカウンターに膝をかけ、あくびをしながらファイルをやる気なくめくり続けていた。
忙しい看護師とていたらくな医者のコンビに見える。
自分は何をしているのだろうか。丸田はふと思う。
医者でも看護師でもな自分は何のためにここに存在しているのか。自分にはめくる書類はない。友達を待つコーヒーもない。
何も持ち合わせていない虚無感に襲われていた。
反対を振り向けば、噴水の上で天使が天に向かってラッパを吹いている。
今の自分には、友人を歓迎するラッパもないのだ。
丸田はあまりの準備不足の自分に呆れた。
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