エッジ
戸中井
オトモダチ
「安楽死が法的に認められて今日で10年が経ちました。」
男性アナウンサーが訓練された舌でニュースを読み上げた。
当時「安楽死法」という言葉が連日報道され、命の尊さを問う反対票と、自由を掲げる賛成票が、数年かけて議論を交わした。
最終的に、自殺者の増加を食い止める措置として異例の法案可決となり、当時は大きな話題を呼んだのだ。子供までもが安楽死という言葉を気軽に使う異様なムーブメントだった。
「痛くない、失敗しない、他人に迷惑をかけない」と、安っぽいキャッチフレーズをつける者、「眠るような死」を望む人の生きる希望になれば」と矛盾した言葉を残す者が目立ち、反対意見として「辛くても生きるべきだ」という力のみなぎった者たちが勢力を増した。それはパワハラ文化であると声を上げれば、軟弱な人間が多いと噛みつき、もっと優しい人が増えればいいのに嘆く。
安楽死法をきっかけに様々な問題が取り沙汰され、しばらく連鎖が続いていた。
しかし10年経った今、安楽死の現状は存在しないに等しい。
安楽死の施術を受けるための条件に叶う人間がいなかったのだ。
定期的に病院とカウンセリングに通い、「死ぬ価値がある」と2人以上の医者に認められる必要がありるが、その診断を下すための専門医は今もなお存在しない。現段階では精神科医が担うことになっているが、医者も治る希望と「長生きしたい」というニーズに全力で答える仕事でありたいと願うはずだ。
それに加えて、この際の医療費に保健は効かない。妥当ではあるが死を望む人間に資金援助はない。
それによる多額の医療費の工面が多くの志願者を苦しめた。更に三親等以内の署名をもらい、借金のある者は完済し、問題がある者は解決し、身の潔白を証明しなくてはならない。
その後、大量の法的書類への記入が待っている。安らかに眠りたいと願う人にとって過酷な選択肢になった。
結局、朝の線路への飛び込み、首吊り、一酸化中毒、どれをとっても減少せず、自殺を選択する者の助けにはならなかった。
中には必死に条件をこなし、「眠るような死」を目指す者もいたが、準備している間に、皮肉にも長生きしてしまうのだ。
最期の時をホテル並の施設で過ごすと謳った高級ホスピタルの宣伝もいつしか見なくなった。ただでさえ金のかかる安楽死に、更にラグジュアリーさを加え、「金持ちの道楽」と揶揄された。
しかし、金持ちはわざわざそんな場所で死を選ばない。誰からも必要とされないホスピタルは姿を消した。
そして、いつしか安楽死の言葉さえ聞こえなくなった。
しかし一部で、ひっそりと低価格で闇営業している施設の存在が「安楽死堂」と呼ばれ始めた。
自殺志願者が暗い夜道を歩いていると後ろから大男に連れ去られ、非合法安楽死として眠るように殺されるといった新しいオカルト映画のジャンルだ。
これも、殺人なのかよく分からないものである。自殺志願者を安らかに眠らせてくれるのならいっそボランティアと呼ぶべきだろうか。
今となっては、安楽死を望む声よりも、肝試し用の「安楽死堂」という言葉の方が圧倒的に使われているのだ。結局なにも変わらない。むしろ安楽死へ関心が向かなくなったといえる。
これが政府の目的だったのなら、大成功だ。
"死んではいけない"と叩き込まれたのだから。
「まるちゃん」
画面からではない声に丸田はハッとした。
「大丈夫?まるちゃん。ぼーっとしちゃって。」
顔を上げると、週に2度ほど掃除をしに来る松崎がこちらを覗き込んでいた。
小柄でころっとした丸いフォームの掃除のおばちゃんだ。
人懐っこく、初めて会った日に丸田を「まるちゃん」と呼び、「でもまあ私の方がまるちゃんって感じよねー」と豪快に笑った。
「あ、お疲れさまです。」
丸田の声かけも虚しく、松崎は急にテレビ画面に振り向き、叫んだ。
「あらー!私このアナウンサーイケメンよね!好きなのよ!」
松崎はテレビの画面から視線を落とすことなく、丸田の横の椅子に座り、テーブルの上のお菓子を慣れた手つきで貪った。
「まるちゃんとは男の趣味が合うわー」
「やっぱり声がいいのよねー」
「うちの旦那は声が高くてねー。威厳がないのよねー。」
「それが息子にも遺伝しちゃってて、長男も次男もなのよねー。あーあ、残念。」
どうやら松崎は、己の家族構成を暴露しがちな性格らしい。
どんな話からも必ず自分の家族の話に変わる。丸田とは3回しか顔を合わせてはいないが松崎の曽祖父の名前と職業まで聞かされていた。
今日も、孫の夜尿症が治らないと声にしながら、視線は画面、手は器用に新たな菓子を開封している。
きっとこの人はこうやって何年も生きてきたのだろう。
松崎につられて丸田も画面を眺めた。
先程真剣な顔でニュースを読んでいた中年のアナウンサーはおらず、いつしか若いアナウンサーがスイーツを紹介するコーナーに変わっていた。
長男の嫁の母親と気が合わないと松崎が愚痴り始めた頃、ドアが開き、50代の女性が顔を出した。
「丸田さん、先生に呼ばれてる。」
ぶっきらぼうな呼びかけに丸田は静かに立ち上がり、ドアへと進んだ。
「あら、まるちゃん。お仕事?残念ね。また話しましょ」と言う松崎の視線が画面から離れることはなかった。
秋元はベテラン看護師。多少無愛想だがテキパキと動き、無駄がない。松崎とは対照的に秋元が家族構成など話すことはない。
ここではナースの制服はなく私服だが、紺色のカーディガン、白いズボン、白いナースサンダルが、長年の看護師という仕事を続けてきたせいか、とても似合っていた。
給湯室として使われている離れから、長く白い廊下と洋風な庭を越えて、本館に向かう間、丸田の斜め前を歩く秋元は静かに語った。
「丸田さん。私は正直反対です。先生が決めたことだから仕方ないとは言え、私は未だによくわかっていません。今は仮にってことで耐えてるだけです。分からないことがあっても私には聞かないでくださいね。」
秋元はいつも言葉が丁寧で短くまとまっていて、感情をあまり乗せないが、丸田を歓迎していないことは伝わってくる。
丸田自身も、自分に課せられた仕事をよく分かっていないこともあり、秋元の発言に共感していた。
「はい。」
短く返事をし、秋元の背中を追った。
「カイ先生はなにを考えてるんだか」
ため息と共に小さく秋元の言葉がこぼれ落ちた。
廊下の果てに両開きになった白い扉がそびえ立つ。
ずっと前を向いて歩いていた秋元が丸田と向かい合い、まだ納得していないという感情ともう諦めたという感情が入り混じった顔が現れた。
「はい、これ。カルテね。」
秋元がずっと右脇に抱えていた深い緑色のファイルを手渡された。
中には、大雑把な履歴書のようなものが挟まっていて、免許証のコピーのような顔写真の横に「澤井貴子」と書かれていた。
「カイ先生は必要最低限の情報でいいと言ってるから少ないけど、澤井さんは末期癌で、長年の闘病生活を経てここに来た人よ。危害を加えるようなことはないと思うけど、人間死の間際になるとヤケになって何をするかはわからないから充分気をつけて。」
先程までの業務的な話し方とは打って変わって、秋元は真剣に丸田に注意を呼びかけた。
「あと最後に一つ。ここでは先輩面とか教育係なんてするつもりなかったんだけど。」
秋元には似合わない歯切れの悪い前置きに続いて、少し考えたようにふうと息を吐いた。
「カイ先生は、知ってると思うけど無茶苦茶な人よ。医者としてはちゃんとしてたけど。だからさっきは頼るなって言ったけどカイ先生には任せられない。なにかあったら言いなさい。力になれるかは分からないけど。」
年齢的にも看護師の大先輩クラスの彼女だ。おそらく初仕事の後輩に諭すこんな場面は何度も経験したのだろう。
だが、丸田は看護師の後輩とは明らかに違うものだった。
「あなたはオトモダチ。安楽死を求める人たちの最後のオトモダチよ。」
秋元がドアノブに手をかけ、鈍い音と共に開いた。
そこは、本物の安楽死堂だ。
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