ラベンダーの約束
庭園とカウンターの間ですっかり成す術を失った丸田が顔を上げた。
10mほど離れた白いドアが開き、青みの強い紺スーツを着た高橋が顔をのぞかせた。彼はいつも主張の激しい高級スーツを着ている。一歩間違えたらコメディアンになりそうなものの上手く着こなす。カイ同様ルックスは良いようだ。
高橋はこの街で一番大きな総合病院の跡取り息子だ。本人は「姉ちゃんも医者だからなぁ」と呑気な様子で、継ぐということに関心すらないようだ。
丸田もこの数日で何度か顔を合わせたが、いつも友達の家に遊びに来る雰囲気でふらっと現れる。
カイとは大学時代からの友人らしいが、二人から強い親しみは感じない。数年に1度会う親戚のようなよそよそしさと、勝手知ったる絶妙な距離感があった。しかし言葉少なくも分厚い信頼は存在するようで、カイが丸田を「こちらはまるちゃん。この間拾ったんだ。」と紹介しても、数秒驚いていたが、すぐに「よろしくね、まるちゃん」と受け入れる柔軟さがあった。
丸田はその笑顔に違和感を覚えたが、カイも十分変人であると気付かされてから気にならなくなっていた。
高橋がドア前のカウンターで作業していた秋元に軽く挨拶をし、カイと目を合わせた。カイとは言葉を交わさず、そのまま体を捻り丸田を見つけると、ポケットに両手を突っ込み、にやりと笑う。
「あー本日デビューってことか。花でも持ってくればよかったかな。」
「そうだな。」
高橋の後ろからカイが小さく笑い、ファイル片手にドアとは反対側の長い廊下へと消えていった。
カイと高橋はどこか似ていてるが根本的に少し違う。
高橋は軽さとチャラさでふわふわ浮いた羽のような軽快さがあり、いつも笑顔を絶やさない。ジョークなのか本気なのかわからない発言も多い。つい先日も「俺はね、血が怖いから精神科医なの」「カイも俺も医者一族だからね仲良くなるかと思ったのにあいつちょっとサイコ入ってるっしょ?」とヘラヘラ笑っていた。
カイもつかめない性格ではあるが、発言に冗談っぽさはない。そしてなぜか軽さは感じなかった。ゆるやかな木陰を作る大木のようなどっしり感を添えている。
再び静かにドアが開き、すらりとした女性がボストンバッグを下げて立っていた。170cm程ある身長で白いチェスターコートとラベンダー色のマフラーをきっちり前で止めており、そのままマネキンにできそうだ。
胸元まで伸びた黒髪がさらっと揺れ、秋元とカイに会釈した。
「澤井貴子さんですね。」
秋元が声を掛けると「はい。お世話になります。」と、先ほどよりも深く頭を下げた。
「では、そちらの椅子で少しお待ち頂けますか」
秋元の上げた腕が丸田の方を指し、澤井はその通りに動く。
そこで初めて丸田が視界に入ったようだ。少し驚いたような顔をした後、何かに納得したようにゆっくりと微笑み会釈をした。
丸田とは2つ離れたテーブルを選び、椅子の横にカバンを置き、丁寧にマフラーをコートを外した。
白いコートの下から、黒いニットとタイトなロングスカートが現れ、一瞬で雰囲気が変わったが、どちらもよく着こなしている。
丁寧な所作で畳んだコートを膝に置き、ゆっくりと椅子に腰掛けた。
3m程の距離で見る澤井は、カルテで見た照明写真よりもずっと美人だった。
化粧っ気はないが、形の良い眉毛と大きな瞳はそんな小細工なくとも輝いており、うっすらピンクの口紅がよく似合う。俯きがちに座る姿は絵画のようだ。
丸田が見とれていると、澤井は顔を上げ微笑んだ。
「みなさん、いなくなっちゃいましたね」
気付けば秋元や高橋の姿はなく、白い空間に二人きりになっていた。
こういうときの気の利いた言葉は一体どこで習得するのだろうか。
これから友好な関係を築かなければならない相手で、その相手が今から7日後にはこの世を去ろうとしている人だとしても通用する言葉。
元々口数の少ない丸田には、小さくお辞儀する事が精一杯だった。
「あのお名前伺っても良いですか?」
澤井が沈黙を破った。
予想外の声かけに驚いた丸田を見て、澤井は慌てて胸の前で手を振った。
「あ、ごめんなさい。無理だったらいいんです。」
出逢って数分で、澤井の几帳面な気遣い屋だということはよく分かった丸田は、同じような動作で、否定する。
「あ、ちがうんです。丸田です。」
「丸田さん。私は澤井です。私てっきり他の患者さんはいらっしゃらないかと思っていたので、こんな若くて可愛い人がいるなんて驚いちゃって。しばらくよろしくお願いします。」
どうやら彼女は、丸田を同じ患者だと思ったようだ。
丸田は否定すべきか迷ったが、これもまた説明の仕方が分からない。
「よろしくお願いします。」の言葉で精一杯だった。
しばらく静寂に包まれ、またも澤井が口を開く。
「こういうときって何を話せば良いんでしょうかね。」
ふふと眉を下げて笑う彼女は案の定美しい。
お互いこういった場面での話題には困っているようだ。
澤井はしばらくテーブルの一点を見つめ考えたのち、諦めたように丸田と目を合わせた。
「だめですね、何も思いつきませんでした。」
今度は少し歯を見せて微笑んだ彼女につられ、丸田も笑う。
少しリラックスしたのか、澤井はテーブルの上で丁寧に畳まれたラベンダーのマフラーが丸田の視界に入っていることに気付いた。
「ああ、これ?」
丸田は凝視している自覚はなかったが、バックは床に置く澤井が大事そうに扱うことには少し関心があった。
少し自嘲地味に微笑むと「似合わないでしょう?」と澤井は続ける。
「本当はこんな色のコートもマフラーも初めて買ったの。背が高いからって避けてきた淡い色をどうしても最後に着てみたくて。」
「いえ、モデルかと思いました。」
丸田は本音を言ったつもりだったが、澤井にはお世辞として届いてしまったのだろうか。「ありがとう」と遠慮気味にお礼を言った。
「もし良かったらもらってくれる?」
澤井が優しい目で丸田を見てくる。
「遺留品は破棄されちゃうのは分かってるし、使わなくてもいいの。なんとなく持っているのが恥ずかしくて。」
返事に困ったが、遺留品という言葉に丸田は戸惑った。
数分前に出逢った女性に対して、あと7日で別れる現実に寂しさを覚えていた。
ここで断ってもと「じゃあ、いただきます。」と頷くと、澤井が嬉しそうに「あとで洗濯するね」とマフラーを大事そうに抱えた。
「あ、そうだ。じゃあ軽く自己紹介するね。」
明るい表情で澤井が丸田を見つめ、穏やかに話し始めた。
「澤井貴子。36歳です。でも来週誕生日だからたぶん享年は37歳になるかな。」
世にも奇妙な自己紹介だった。
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