第41話 そして少女は少年に救われた

 廊下に、恵は立っている。目の前には一年C組の教室の扉。

「・・・・・・スキップした、ってことか」

 振り返る。廊下の窓から見える外の景色は夕方のものだった。

 恵は深呼吸をする。

(ヤバい。緊張しすぎて気持ち悪い・・・・・・。無事を確認しろったって、あの血の量は・・・・・・)

 何度も深呼吸を繰り返すが、恵の鼓動は速くなるばかり。

 首筋には冷や汗が滲み、気を抜くと奥歯が鳴り出す。

 がちがち。

 がちがち。

 がちがち。

 がちがち。

(いや、でも自称神様があそこまで言ったってことは・・・・・・、何か仕掛けがあるのか・・・・・・?)

 がちがち。

 がちがち。

(ハッピーエンドが好き、とも言ってたっけ・・・・・・。でも、そうならない可能性だってある・・・・・・。読者を裏切る物語なんてたくさんあるし・・・・・・)

 がちがち。

(わからない・・・・・・。わからないけど、結局、動かなきゃ何も始まらない・・・・・・。だったら、動かなきゃ)

 がち、

「俺は、・・・・・・主人公なんだから」

 恵は教室の扉を、勢いよく開けた。


 夕焼けに赤く染まる教室。

 誰もいない空間はいつもより広く見える。

 壁に掛けられた時計が示す時間は、十七時五十分。記憶の通り。

 ゆっくりと、机の間を進む。

 そして、床に広がる真っ黒な何か。

「い、いた・・・・・・!」

 黒い制服に黒い長髪。肌の白さは生気を感じさせない。

「く、黒川さん・・・・・・?」

 一歩踏み出すと、恵の足が水音をたてる。

「ひっ!?」

 赤い水。雫の頭を中心に広がる、鮮烈な赤。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ」

 赤い。赤い。赤い。

 夕陽に染められてもなお赤く、眩しいほどに光を反射して、

「・・・・・・え? 夕陽?」

 恵は恐る恐る身を屈めて、床に広がる赤い水に手を触れる。

 赤い。だがそれは、水だった。

 指に付いた水を影の中で見れば、明らかな透明度が分かる。

「・・・・・・あ。あぁっ! 夕陽で! 確認しろって、そういう・・・・・・」

 恵は安堵の息を吐き、目の前にいる、目を閉じて横たわる雫に声を掛ける。

「黒川さん。・・・・・・黒川さん! 大丈夫? しっかりして!」

 彼女の頬に触れる。生気を感じさせないほどの白さなのに、確かな温かさがある。

 当たり前のはずだが、その温かさに恵はひどく安心した。

「・・・・・・ん、んん・・・・・・」

 雫がゆっくりと目を開く。

 何度か瞬きをして、ぼんやりと恵を見上げる。

「じ、神野くん・・・・・・?」

「黒川さん、よかった・・・・・・。大丈夫? どこか怪我してない?」

「あ・・・・・・、わ、私・・・・・・」

 身を起こす雫。彼女は恵に抱きつき、彼の胸に顔を押しつける。

「えっ!? く、黒川さん?」

「こ、怖かった・・・・・・。私、怖かったです・・・・・・」

「な、なに? 何があったの?」

「わ、私、急に水を掛けられて・・・・・・。志木さんと、和光さんに・・・・・・」

「え・・・・・・?」

 志木と和光は、最後のループの際に雫と友達になった二人の女子だ。

 離れた場所から見ていた恵にも分かるくらい、彼女たちは楽しそうに雫と話していた。

「私、びっくりして、転んじゃって・・・・・・。あの人たち、それを見て笑ってて・・・・・・」

 雫は顔を上げて恵を見つめる。

 彼女の瞳は涙で潤んで、庇護欲を掻き立てられる。

「これから、ずっと、あの人たちにいじめられるの・・・・・・? 怖いよ・・・・・・。神野くん、助けて・・・・・・」

 だが、それは││

「それは、嘘だよね?」

「え?」

 雫は呆然として言葉を失う。

「あの二人がそんなことするわけないよ。他の誰でもない黒川さんに対して、そんな酷いこと」

「え、で、でも・・・・・・」

「仮に」

 恵の強い語調に、雫は言葉を飲み込む。

「・・・・・・仮に水を掛けられたとしても、何か事情があったんだ。笑って、馬鹿にして、そのまま放り出すなんてことしないはずだよ。だって――」

 あの二人は雫と友達になった。彼女とまた話したいと言った。

「だって二人とも、黒川さんのこと大切にしてくれてたんだ。あの二人だけじゃない。クラスの皆、黒川さんのこと受け入れてくれたんだよ」

「じ、神野くん・・・・・・?」

「ねぇ、本当は何があったの? 志木さんと和光さんじゃない、いやクラスのやつらな訳ない。誰にやられたの?」

 恵の必死な問いかけに、しかし雫は更に表情を暗くする。

 彼から目を逸らし、小さく呟く。

「・・・・・・私が、やったの。・・・・・・自分で」

「・・・・・・えっと、どういうこと?」

 雫はいまだ恵にしがみついたまま、だが逃げるように顔を逸らす。

「誰かに、いじめられてるように見せれば、神野くんが構ってくれると思って」

「・・・・・・俺を騙したかったってこと?」

「違うっ!」

 雫が勢いよく振り向く。

 先ほどまでとは違い、歯を食いしばる悲壮な表情で、涙が溢れ出している。

「一人が、つらかったから! 誰かにそばに、そばにいてほしかった! 優しい神野くんなら、友達のいない可哀そうな私に構ってくれると思って、でも神野くんは気づいてくれないから、もっと私が可哀そうになれば神野くんは優しいから!」

 雫の溢れる感情を叩きつけられ、恵は何も言えなかった。

 彼女の必死さが、身に詰まる不安が、決して慣れることのない寂しさが、感じられたから。

(いや、これは言い訳だ。俺はビビってるだけなんだ。本当に黒川さんを救えるか、自信が無いんだ。・・・・・・俺が本当に主人公だって言うなら、なぁ自称神様、俺に一歩踏み出す勇気をくれ)

 雫は掴んだ恵の袖を、強く握りしめる。

「助けて神野くん。私のそばにいて。私を、一人にしないで・・・・・・」

「・・・・・・わかった。君を一人にはさせないよ」

 恵は彼女の手を取って、しっかりとその瞳を見つめる。

「これから、友達をたくさん作ろう」

「え・・・・・・?」

「最初は俺の友達を紹介するよ。けんちはオタクだけどいい奴だよ。坂戸と若葉も楽しい奴らなんだ」

「わ、私は・・・・・・」

「それから、他の皆とも少しずつ話をしよう。始めは怖いかも知れないけど、大丈夫、俺が一緒にいるから」

「・・・・・・あ」

 雫が目を見開く。

 彼女の瞳に映る恵は、朗らかに笑っている。

 どんな困難にも負けない、物語の主人公のように。

「黒川さんにはこれからたくさん友達ができるよ。俺はその一人目だ」

「じ、神野くん・・・・・・」

「一歩踏み出す勇気があれば友達になれる。きっかけが欲しかったら俺が作る。ね? 明日からが楽しみだよね」

「うっ、うぅ・・・・・・」

 雫の瞳からボロボロと零れ落ちる涙。

 しかし彼女はもう悲壮な表情などしていない。

 その口元は、慣れない形に戸惑うように、震えながらもゆっくりと上がっていく。

「黒川さん。俺と、友達になってよ」

「・・・・・・はいっ」

 泣きながら笑う雫。

 その頬は、夕焼けに染められて赤く色づいていた。

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