第24話 ~五回目~ 襲撃

「ハロー」

 二メートル近い長身、無造作に伸ばしただけのぼさぼさの黒髪、無地の白いカッターシャツとジーンズ。その隙間から見える手や首筋はガリガリに痩せている。

 男は両手をだらんと下げた棒立ちで恵を見ていた。

 奇妙なのはその表情。

 見えない手で無理矢理口角を引っ張り上げられているかのような、不自然な笑み。

 両の瞳は眼球が飛び出そうなほど見開かれ、白目は無数の血管が浮き上がっている。

 明らかに正常な状態には見えなかった。

 男はゆっくりと、上半身を左右に揺らしながら、リズムを刻むように声を出し続けた。

「ニーハオ、オーラ、ズドラーストヴィチェ、ボンジュール、ナマステ・・・・・・」

「あ・・・・・・、はぁ・・・・・・?」

 意味不明な言葉を発し続ける不気味な男。

 恵は恐怖を覚え、固まっていた。

「こんにちは。・・・・・・こんにちは、こん、に、こんにちは、こんにちは」

「え、え? な、なに?」

 男はブツブツと『こんにちは』を繰り返し、ピタッと、上半身の揺れを止めた。

 血走った目をまっすぐに恵の目に向けながら、話しかけてきた。

「ごめんなさい。 私はあなたがニホンゴを使うことを予想していませんでした。 ニホンゴは少数民族言語です。 検索に時間がかかりました」

「な、なんだ、あんた・・・・・・」

 男がぎこちない動きで両手を広げる。まるで下手な操作で動かされる操り人形のようだ。

「翻訳が間違っているときは謝ります。私は今から自分を説明します」

 右ひじを折り曲げて右手で自身の胸元を指した。

 上半身を少し前傾させ、恵と視線の位置を合わせた。

 動作のひとつひとつがいちいち不自然だ。

「私は未来から来ました。クロカワシズクに会い、時間の変化のテクニックを与えました」

「み、未来人っ・・・・・・!」

 驚愕に目を見開く恵。

 未来人の男は、更に頬を歪ませ、いびつな笑顔を深める。

 男は一方的にまくしたてた。

「私は繰り返し中に人の行動がどのように変化するかをテストしたい。彼女は何度も続けたので、私は救われました。 実験に干渉しないでください」

「え、なに、なに? アルジャーノン、なんなのこいつ?」

 男の異常な様子に怯える恵。後ずさりながらアルジャーノンに助けを求める。

 アルジャーノンはと言うと、相手を警戒しているように、頭を低くして喉を唸らせていた。

「名乗った通りだ。こいつが黒川雫に接触した未来人だろう。まさか人間の身体に情報体をインストールするとは、我々とはまったく異なる倫理観を持っているようだ」

 男は突然身体を震わせ、首から上だけを前後に激しく振り出した。

「うわっ、わあぁぁっ!? なに、なんなんだよ!?」

 そしてまたも唐突に止まると、不自然に頬を吊り上げた笑みを浮かべた。

「ごめんなさい。この身体は私の意識に反する。この身体は長く続きません。後で残します」

 アルジャーノンが一度毛を逆立てて強く鳴いた。

 男はちらりとアルジャーノンを見たが、すぐに視線を恵に戻した。

「恵、以前私は君に説明したな。私の情報体を受け入れるのに適した物質体が、この時間軸ではこの猫だったと。適さない物質体にインストールした場合の状態があれだ」

「つ、つまり、この時代の人の身体に乗り移った状態、ってことか・・・・・・?」

「そうだ。いっぱいまで水を注がれたカップに更にもう一杯分の水を注いだと考えれば良い。当然、水はカップから溢れる。あの人間の脳はあと数分でオーバーヒートを起こし、持ち主の死を招くだろう」

「そ、そんな・・・・・・」

 男の耳の穴から血が垂れているのに気付いた。

 やがて口の端から泡を吹き始めた。

「私の言葉は伝えられていますか? もう一度言います。実験に干渉しないでください」

 恵は怯えて男を直視できない。

 視線を外しながら、なんとか言葉だけを返した。

「じ、実験って、繰り返し中に人の行動がどう変化するか、だったっけ? そんなの俺には関係ないだろ。さっさとやめてループから出せよ!」

「やめる。私はそれをすることはできません。クロカワシズクの行いなのです。また私にとって、私は彼女が繰り返すをやめさせるはしたくありません。なぜなら、私は十分な実験結果を持っていないのだから」

「は、はぁ・・・・・・?」

 絶句する恵の横から、アルジャーノンが男に声をかけた。

「横から失礼する。未来から来た者よ、君はこの実験における試行回数を何回に設定しているのかね?」

「猫が人間の言葉を使いましたか? これは非常におもしろいです。私はその質問に答えます。十分な実験結果が得られるまでこれを何度も繰り返します。数は無制限です」

「・・・・・・ふむ。その結果、対象に甚大な障害が発生してもか?」

「はい」

 そして男は更に笑みを深めた。

 その頬から、ぶちぶち、と音がして血が噴き出した。頬の筋肉が断裂する音。

 出血も意に介さず、男が続けた。

「とにかく、何が心配ですか?」

 男の両手が自身の首筋に伸びる。

 喉仏に爪を立て、掻きむしり出した。

「クロカワシズクも、ジンノメグムも、死んでも大丈夫です。別の人が現れます」

「歴史の収斂性を言っているのか? それは外部からの干渉が無い場合の現象であり、干渉した場合は・・・・・・」

「慌てることは必要ありません。ジンノメグムが死んでも、時間の変化のテクニックは他人が確立する」

 男は言いながら、ジーンズのポケットからカッターナイフを取り出した。

 彼の目はもはや白目を剥いた状態になり、目の端から血の涙を流していた。

 アルジャーノンが塀から飛び降り、恵を庇うように男の前に立ちふさがった。

「恵、離れろ。少しでも距離を取れ」

「お、おいおいおいっ! ヤバイだろ! 話通じなさすぎだろこいつっ!」

 もはや恵は男を見ることもできなかった。

 視界の端にカッターナイフが見え、足がもつれた。

 途端、恵の足から力が抜けた。

「うぁ・・・・・・、あ・・・・・・」

 恵が路上に尻もちをつく。

 夕陽が逆光となり、男を黒い影のかたまりにした。

 影は、ゆらりと右手を振り上げた。

「あぁぁ・・・・・・、あぁ・・・・・・」

「恵っ!」

 アルジャーノンが叫んだ。恵は動けない。

 男の手が振り下ろされる。恵は動けない。

 アルジャーノンが恵に駆け寄ってくる。恵は瞼を閉じた。

 何かが地面に叩きつけられる音がした。恵は動けない。


「・・・・・・あ? あれ? 俺、生きてる・・・・・・?」

 数秒か、数分か、数時間経っていたかもしれない。

 恵の体感では永遠にも感じられた時間が過ぎて、しかし痛みも何も感じないことにようやく気付いた。

「どう、なったんだ・・・・・・?」

 恐る恐る目を開ける。

 夕焼けに赤く染まった住宅街の路上に、うつ伏せに倒れた男の姿があった。

「へ? なに、が、あったの?」

「落ち着いたかね? 恵」

 聞きなれた無機質な声が脇から聞こえた。

 恵が振り向くと、アルジャーノンが背筋を伸ばして座っていた。

「どうやら身体の方が限界を迎えたようだ。もう動くことはない」

「え・・・・・・」

 恵は視線を動かす。

 倒れた男をよく見ると、耳から湯気が沸いていた。

 地面に伏せられた顔の位置には、夕焼けの中でもなお赤い、赤い水溜まりができていた。

「ひっ! きゅ、救急車・・・・・・」

「無駄だ。すでに死んでいる」

「死ん、でる?」

 恵は呆然と男の死体を見つめる。

 先ほどまで意味不明な言葉を吐いて、自分にカッターナイフを向けて襲いかかってきた相手が、死んでいる。

 死体など恵にとっては見慣れないものだ。目の前にあるもので人生二度目。

 しかし、見る間に量を増していく血だまりと微動だにしない相手が、現実的な説得力をもって恵に死を意識させた。

「・・・・・・うっぷ、・・・・・・おぇ」

 恵は口元を押さえる。

 目の前の物体からは早くも死臭が漂ってきた。生ごみの詰まったゴミ袋をぶちまけたような匂い。

 雫の死体を見たときよりも強烈に嫌悪感を覚えた。

「気分が優れないことは理解できるが、まずはこの場を離れるべきだ。第三者に見られると面倒だ」

「う、うぅ・・・・・・、わがっだ・・・・・・」

 死体から目を逸らして、恵は這いつくばって移動を始めた。

 思うように力の入らない足をどうにか動かして、死体の脇を通り抜けて現場を離れていく。


 涙と鼻水と吐き気でぐちゃぐちゃの思考。

 現実感などまったく無いのに、指先に感じるアスファルトの感触ははっきりしていた。意識は途切れ途切れとなり、気付いたときには自宅の玄関をくぐっていた。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ・・・・・・」

 階段を駆け上がり自室に飛び込んだ。

 崩れるようにベッドに倒れこみ、そのまま嘔吐した。

(死んだ・・・・・・。人が、死んだ・・・・・・)

(あんな、あっけなく、当たり前みたいに、人が死ぬのか?)

(なんだよこれ・・・・・・。俺、どうすればいいんだよ・・・・・・)

 恵は目を閉じた。

 暗闇の中に男の死体が浮かび上がる。

 それは早送り映像のように急激に腐敗が進み、氷が解けるように肉が崩れ去り、骨だけが残る。

 何度も何度もそのイメージが続き、何度も何度も恵は嘔吐し、やがて恵は吐き出す体力も無くなった。


 唐突に、恵の意識は途切れた。

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