第14話 ~四回目~ 彼女は彼を振り回す
昼休み。
健一を含む友人たちと談笑していた恵のもとに、学級委員の飯野美智が現れた。
午後の授業の教材運びを手伝ってほしい、とのことだった。
(これも、やらなきゃいけないんだよな・・・・・・)
ループの原因候補者へのアプローチ以外は一回目の事実をなぞるべし。
未来人であるアルジャーノンからの指示に従うことには納得した恵だが、美智の依頼には気が重くなっていた。
(なんか、飯野って怖いんだよなぁ。またくっつかれるのかなぁ・・・・・・)
恵の脳裡に一回目と二回目の音楽準備室の光景が浮かぶ。
彼女の潤んだ瞳、甘い匂い、小さく抑えられた声に、女子の身体の温かさ。
それらは男性にしてみれば女性の魅力ではあるが、まだ思春期に入りかけのこの時の恵には、欲情よりも未知への恐怖が勝っていた。
(ラブコメとかの主人公が女子から逃げる気持ち、わかるなぁ。あれにドキドキするって難しいよ。冷や汗しか出ないよ)
「――で、どうかな?」
「え? あ、あぁ、まぁ、それくらいなら別に」
心中の葛藤で恵の返事が一拍遅れた。
苦し紛れに苦笑いを浮かべる恵に、にっこりと微笑んでいる美智が明るい声を出す。
「よかった! それじゃ一緒に来て。音楽準備室ね!」
「・・・・・・はぁ」
教室を出る彼女の背中を見て、ため息をつく恵。
その彼に健一が笑みを含んだ言葉を投げた。
「やれやれしょうがねぇなぁ、ってか? それなんてラノベ?」
「・・・・・・う、うるせえよ」
昼休みの音楽準備室。
狭い室内で女子と二人きりの状況に、恵は居心地の悪さを感じていた。
美智が棚の段ボールを確認している横で、彼は床に腰を下ろして棚の下側を探すふりを続けていた。
目的の『鱒』の楽譜が入った段ボールの場所はすでに把握している。
これはただ、美智との接触を避ける時間稼ぎだ。
不意に、美智が声をかけてきた。
「・・・・・・ねぇ、神野くん」
「ん? 何?」
彼女の方を向いた恵。
その至近距離に、美智の顔があった。
「・・・・・・っ!?」
恵は驚愕に固まった。
座っている彼を四つん這いで覗きこんでくる美智。
美智の顔は動けなくなるほど近くにあり、互いの鼻先が微かに触れ合っていた。
恵の鼻腔に、美智からの甘い匂いが届く。
「ねぇ、神野くん。ひょっとして、私のこと怖がってる?」
「・・・・・・へ・・・・・・、や・・・・・・」
恵の口からは、声とも息ともつかない音が漏れた。
喉の奥が渇いて苦しかった。
彼の胸に手を置く美智。その仕草だけで男を魅了することができる、成熟した色気を醸し出している。
「ドキドキ、してるけど・・・・・・、うーん。やっぱり怖いドキドキだよね?」
「あ、あぁ・・・・・・」
ついに身体の震えが止まらなくなった恵。
一見するとロマンスのある光景だが、彼にしてみれば完全にホラーの領域だった。
「あ、もしかして」
気づいたように、さっと身体を離す美智。
立ち上がり、翻ったスカートの裾を押さえて、呆然としている恵を見下ろす。
「神野くん、こういうの苦手なんだぁ。そっかそっか。緊張してただけなんだね。ふふっ」
美智は笑顔を浮かべていたが、恵にはその表情が、相手を馬鹿にするものに見えた。
しかし、彼には反発する気力もない。
身体の震えが止まらなかった。
「・・・・・・な、なんなんだよぉ」
「あぁ、ごめんね? 私、友達からも距離が近いってよく言われるんだ」
美智は腰を屈め、座り込んだ恵に顔を近づけた。
視線は彼から一度も逸らさない。
「でもねぇ、私、神野くんとはもっと仲良くなりたいなぁ」
「な、なんで」
「なんだかねぇ、神野くんは面白いっていうかぁ、うーん・・・・・・、前にもこういうことしたような・・・・・・、一回だけじゃなくて、何度も・・・・・・」
彼女の言葉に息を飲んだ恵。
(まさか、飯野にはループの記憶があるのか!?)
まじまじと凝視する恵に向けて、美智は先ほどまでとは違う柔らかな笑みを浮かべた。
「不思議だよねぇ。こんなこと今までしてないのにさ。これって運命って言うのかな?」
「い、いやぁ、どうかな・・・・・・」
その時、予鈴のチャイムが鳴り響いた。
美智はさっさと目当ての段ボールを引き出し、記憶の通り重そうな音をたてて床に置かれたそれから楽譜を取り出した。
「じゃ、またね。これからもちょくちょく遊ぼうね」
そう言い残して、美智は先に準備室を出ていく。
恵は声も出せず、ただ彼女の背を見送っていた。
それから放課後まで、恵の思考は美智で埋め尽くされていた。
(分からない。飯野が何をしたいのか、全然分からない)
今回を含め三度、彼女と準備室で過ごした恵だが、相手の行動に翻弄されるばかりで終始していた。
(言ってることをそのまま受け止めるなら、俺がからかいやすそうだからちょっかいかけてるだけ、ってことなのかな)
恵の脳裏に美智の熱い眼差しと押しつけられた身体の感触が浮かび上がる。
その時は混乱してばかりだったが、思い返してみれば扇情的な情景だ、と恵でも理解できた。
(確かに・・・・・・、確かにこういう展開のラブコメもあるけど・・・・・・、それだとタイムリープ、いやループもので進んでるこの物語が収集付かないだろ)
美智の柔らかい身体、甘い芳香をまざまざと思い出し、にわかに熱がこみ上がるのを感じた。
(いや、ないない! 仮に、そう仮にだ。飯野が本当に俺のことを好きなんだとしても、あまりに脈絡が無さ過ぎるんだよ。今まであんまり話したこともないのに突然抱きつかれるとか、そんなの地雷だ。ただのラブコメヒロインじゃない。間違いなく、裏があるに決まってる!)
悶々と思考の渦に飲み込まれる恵。
彼の耳に、周囲の音はまったく入っていなかった。
(たとえ俺の物語がラブコメ路線なんだとしても、ヒロインには、もっとこう・・・・・・)
「神野。おーい、神野ー?」
「・・・・・・っ! あ、はいっ」
教師からの呼びかけにとっさに返事をした恵。
教師は教壇の前で苦笑いをして、彼を諫めた。
「今日最後の授業だからって気ぃ抜くなよー? 授業中にぼんやりされると、先生悲しいぞー?」
「あ、はい。すいません・・・・・・」
自分の席で縮こまる恵。そこかしこから小さな含み笑いが聞こえる。
そんな中、彼に向けられる視線が三つ。
彼から、彼女から、彼女から。
恵のカバンの中から、アルジャーノンはそれらの視線の持ち主をしっかりと捉えていた。
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