第6話 ~二回目~ 困惑

 七時〇〇分。

 アラームを鳴らす目覚まし時計へ、ベッドから右腕が伸びる。

「う、・・・・・・ん。・・・・・・朝?」

 音を止めた時計の文字盤を見て、あくびを噛み殺す恵。

 寝起きでぼやけた意識をまとめている。

「・・・・・・あ、昨日っ」

 昨日の出来事を思い出した。

 倒れている女子。夕陽の赤。足下に迫る液体。置き忘れたカバン。

「っ! ・・・・・・ん、あれ?」

 自分の身体を見下ろすと、いつもの寝間着姿である。

 昨夜は制服のまま倒れこみ、そのまま眠ったはずなのに。

「あ、え? ・・・・・・カバン、ある?」

 ベッド脇の学習机を見ると、つい一ヶ月ほど前に買った自分の通学カバンが置いてあった。

 いつもの様に、前日のうちに必要な教材を入れて、確認の為にカバンの口を開けた状態で。

「あれぇ? えぇ? ・・・・・・なんで?」

 昨日のことは夢だったのか? 

 それにしてはあまりにも鮮明に覚えている。

 しかし現実は目の前にある。いつも通りの朝の風景。

 恵の脳内に無数の疑問符が浮かび上がるが、しかしそのどれも、答えの出るものではなかった。


 身支度を整えて、恵は一階の食卓に降りた。

 食卓には目玉焼きとウインナー、白ごはんと牛乳の朝食が一人分揃えられていた。

「おはよう、恵。あとはあんただけだから、食べたら片付けちゃってね」

「・・・・・・あ、うん」

 台所で洗い物をする母に返事をし、テレビを点けてぼんやりと食事をする。

「あ、そうそう。今日ね、仕事の後はアタシ近所の集まりに出なきゃだから、夜はお鍋のカレー食べててね」

「え、今日も?」

「え? そんなにいつも行ってないわよ。前は先週だったし。ご近所の親睦を深めるのよ。大事なことなんだから。あ、それともカレーのこと? いいでしょ、あんた好きなんだから。お父さんの分も残しとくのよ?」

「う、うん。わかった」

 電子音が鳴り、台所を出て洗濯機の方へ行く母。

 テレビのニュースでは、明後日から始まるゴールデンウィークに向けて行楽地の情報が流されている。


 上原江第一中学校。一年C組教室前。

 恵は教室の扉を前にして、開けるのをためらっていた。

 恵の頭から昨日の光景が離れない。教室の反応が気になる。

 しかし、いつまでもこうしていると不審な目で見られるかもしれない。

 意を決して扉を開いた。

 そこには、彼の予想に反して、いつも通りの教室の風景があった。

 まだまばらなクラスメイト。それぞれの席や窓際で談笑する彼ら。朝の日射し。

 間違っても、そこに倒れている女子や血痕など無い。

 自分の席の前にはすでに友人が座っていた。

「はよー、じんじんー」

「・・・・・・・・・・・・けんち」

 自分の席に着いた恵は、友人の健一をじっと見つめた。

 彼はあくびをしながら恵に話しかける。

「聞いてよじんじんー。実は今日寝ないでそのまま来ちゃったのよ。ハラ☆キルのブルーレイボックスが俺を離してくれなくてさ・・・・・・。ふぁ~あ」

「・・・・・・また?」

「え? 何が? いやー、昨日届いたんだけどさー、開けたら観たくなるじゃんー、観始めたら止まらないじゃんー、ふあぁぁ・・・・・・」

 眠そうに目元をこする健一。

 姉にされたと言っていたファンデーションが落ち、彼の目の下にクマが現れる。

「な、なぁ。昨日のことって、なんか話に出てたりする?」

 思い切って恵は尋ねた。

 しかし健一は首をかしげて問い返す。

「昨日? なんかあったっけ?」

「・・・・・・・・・・・・いや、別に」

 健一の視線から逃れるようにうつむく恵。

 机の上へ顔を向け、周囲の光景を遮断して想像する。

 これから担任がやって来る。それはきっと普段とは違う硬い表情だろう。

 そして朝の挨拶の前にこう言うのだ。

 ――実は昨日、この教室で事件があった。

 ――何か知っているか、神野?

 その時の教室の空気。周囲の視線を思い浮かべるだけでめまいがしてくる。

 恵は自分の席から右斜め前の席を盗み見た。

 黒川雫の席だ。当然、彼女の姿はない。

(頭から血を出してた。すごい量で。・・・・・・入院? それとも、もう・・・・・・)

 教室にクラスメイトが増えてきて、段々と賑やかになる。恵の他の友人もやって来て、朝の挨拶やゴールデンウィークの話題で盛り上がっている。

 そして担任がやって来た。

 顔を伏せた恵の耳に、担任の声が届く。

「はい、おはよー。それじゃ出欠取るぞー」

 恵は硬直した。

 恐る恐る顔を上げてみるも、担任は普段通りの様子に見える。恵の方を横目で窺ったり、そわそわと落ち着きなかったりしているようには見えない。

 名前は順に呼ばれていき、そして彼女の番がいよいよというところで、教室の後ろ側の扉が開かれた。

 入ってきたのは、長い黒髪をまっすぐ腰まで伸ばした女子生徒。

 昨日の放課後、教室で倒れていた彼女。

「お、黒川ギリギリだな。まぁ、点呼前だし今回はいいや。次から気をつけろよー」

「・・・・・・すいません」

 小さな声で返事をして自分の席に着く雫。

 その席の左斜め後ろに座る恵は、穴が空くほど彼女の姿を見つめていた。


 朝のホームルームがつつがなく終わり、一限目の授業が始まる前。

 恵は素早く立ち上がり、雫の下へ近寄って声をかけた。

「あ、あの、黒川さん」

「っ!?」

 身体を跳ねさせて驚く雫。

 跳ねた膝が机に当たりかなり大きな音が出た。

「な、なに・・・・・・?」

 周囲の目が集まっていることにも気づかず、恵は雫に問いかけた。

「昨日、さ。その、大丈夫だった?」

「・・・・・・昨日?」

 恵の方を向きつつも視線はやや下に置く雫。

 スカートの裾を握る手には力がこもっているのか、小刻みに震えている。

「・・・・・・な、何のこと・・・・・・? 別に、何も・・・・・・、なかったけど・・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・そう」

 彼女からの返答に、恵は呆然とした。

 ふらつく足取りで席に戻ると、健一がニヤニヤと笑みを作ってからかいにくる。

「どしたどした~。黒川さんと何かあったの~?」

「いや・・・・・・。ちょっと、気になってさ」

「えー? なに、好きなの? 黒川さんのこと」

「・・・・・・お、お前それさ、昨日も言ってただろ?」

 恵は努めて明るく、友人のイタズラを見抜いたような雰囲気で指摘した。

 しかし健一は、それこそ友人が冗談を言ったと受け取ってツッコミを入れる。

「おいおい、そんな記憶はないぜっ☆ お前はどこの世界線から来たんだよっ」

「・・・・・・・・・・・・いや、ごめん。・・・・・・何でもない」

 おちゃらけた健一の言葉にも表情を硬くし、恵は話を切った。

 視界が歪むような混乱を感じ、疑問符で埋め尽くされた頭はまともな思考を生み出せなかった。


 彼は気づいていなかった。

 この時、自分の席で顔を伏せていた雫が、その口端を密かに釣り上げていたことを。

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