第5話 ~一回目~ 逃亡
そして時間は一時間と少し進む。
十七時五十分。
夕暮れの陽が射しこむ教室の扉を、恵が開いた。
「は~あ、結局こんな時間になってるし・・・・・・」
時間通りに図書室を出ようとした恵に、司書教諭が突然頼み事をしてきた。
すぐに済むから、と言われ手伝わされた書架の整理は確かに三十分ほどで済んだ。
しかし約束の時間までに戻らなかった恵を、職員室で待機していた担任が大げさに心配し、恵が事情を説明し、そしてその会話を通りすがりに聞いた学年主任の教師になぜか恵が説教された、という顛末だった。
「なんか、無駄に疲れた・・・・・・。今日は早く寝よう・・・・・・」
教室の前側から入った恵。机の並びを縫って、窓際後方の自分の席に近づく。
そして、目的地まであと数歩のところ。
教室後部の空間、机が途切れて床を見下ろせる位置まで来たときに、それに気づいた。
床に広がる、真っ黒な何か。
「・・・・・・・・・・・・え?」
真っ赤な夕陽に染まり、なおも黒だとわかる純粋な色。
影のように不定形に広がる、異物。
「な、なに・・・・・・?」
一目見ただけで得体の知れない恐怖心に駆られる恵。
しかし、よく見てみればそれは女子の制服を着た人間であることが分かった。
すなわち、女子が放課後の教室で倒れている、という状況。
「・・・・・・あ、ね、ねぇ! どうした!? 大丈夫!?」
我に返り、声をかける恵。
真っ黒なシルエットは長い黒髪がそう見せていたのだ。
クラスメイトの黒川雫。放課後の教室で一人倒れているなど、普通ではない。
「黒川さん、だよな・・・・・・? どうし、」
一歩踏み出すと、ぴちゃ、と水音が響く。
「ひっ!?」
倒れている雫の頭は濡れていた。
床に広がる黒髪を浸すそれは、夕陽に照らされて鮮烈な赤色をしている。
「は、え・・・・・・? うそ・・・・・・。赤い・・・・・・。これって・・・・・・」
身体が重い。思考が混濁する。意識に霞がかかり、何かを考えてもすぐにその何かがこぼれて消える。
「なに・・・・・・。え、なに・・・・・・?」
自分の口から発しているはずの言葉が、遠く聞こえる。
がちがち、がちがち、と耳障りな物音が響く。
うるさい。
そう感じた恵は、すぐにその物音が自分の口から聞こえるものだと気づいた。
知らず、その身体は震えていて、自分の歯が擦れる音に脳が支配された。
がちがち。
がちがち。
がちがち。
がちがち。
(黒川さん・・・・・・、倒れてる・・・・・・、濡れてる・・・・・・、赤い・・・・・・)
がちがち。
がちがち。
(誰もいない・・・・・・、放課後だ・・・・・・、図書当番の手伝い・・・・・・、どうして・・・・・・)
がちがち。
(主人公・・・・・・、この状況は? ・・・・・・何か、・・・・・・始まる?)
がち、
そして恵は駆け出した。
その場から一刻も早く離れるために。
倒れている『もの』を視界から消し去るために。
逃げるために。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
階段に差し掛かる。あとは一つ下の階まで下りて昇降口を出るだけ。
そこに、足音が響いた。
「っ!?」
足音の方角は後方、自分が今離れた教室に近づくものだと気づき、恵は壁を背にうずくまった。
扉を開く音が聞こえる。
「あれ? まだ誰かいるのかー? もうとっくに下校時刻すぎて・・・・・・」
自分のクラスの担任の声と、その後に続く悲鳴。
それを聞き再び恵は駆け出した。
気が付くと、恵は自宅の玄関にいた。
――学校で倒れている女子を見た。黒川さんだった。
――その場から逃げ出した。
――担任の悲鳴を物陰から聞いた。
それからここまで、記憶はすっぽり消えていた。
彼の認識では、気が付いたら家に帰っていたのだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
息が苦しい。頭の中で心臓の音が鮮明に響く。
とにかく落ち着きたい。
何もない、今まで通りの退屈な、それでいて平和な毎日が続いていると実感したい。
靴を脱いでフローリングに足を乗せたところで、自分の手の違和感に気づいた。
「・・・・・・あれ、俺、カバンは?」
急速に記憶が遡る。
――息を殺した階段前。持ってなかった。
――駆け出した教室。持ってなかった。
――倒れている女子。思い出したくない。
――代理の図書当番。その後の教室。机にカバンがある。
「・・・・・・あ、・・・・・・あぁ、あぁぁぁ・・・・・・」
恵はめまいを覚えた。
嫌な想像が、いやこのままではほぼ確実な未来の予想が、頭に浮かび上がった。
(あの時間に俺がいたのは、先生なら誰でも知ってる・・・・・・。黒川さんはいつからあそこに? ・・・・・・そんなの知らない。・・・・・・でも、俺がいたことは、誰でも知ってる・・・・・・)
ふらつく足取りで階段を上る。
頭の中では同じ言葉が堂々巡りを繰り返している。
自室に入り、電気も点けずベッドに倒れる。
制服のまま、毛布を身体に巻き付けて縮こまる。
身体の震えが止まらない。寒くはない。むしろ頭を冷やしたい。汗が止まらない。服が身体に張り付いて気持ち悪い。着替えたい。あぁ、でも着替えてしまったら眠れるかもしれない。眠ってしまえば、明日が来る。雫のことで自分に不運が訪れる明日が。
「・・・・・・・・・・・・明日なんて、来なければいい・・・・・・。もう一度・・・・・・、もう一度今日を」
恵の意思は眠りを拒む。
それでも、肉体と精神は疲労している。
自分の歯が鳴らす乾いた音を耳にして、毛布に包まれた狭い暗闇を視界に入れたまま、
唐突に、恵の意識は途切れた。
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