3
その一時間ほど前。
私――柚木脇千鶴は、ベッドの上で目を覚ました。
何が起きたのだろう。随分と、自分の名前を思い出すのが、久しぶりだった。長い夢でも見ていたというか、何処かへ旅行にでも行っていたような気分だった。
目を開けた。
そこには、知っているけれど、後ろめたい面々が並んでいた。
戒能希巳江、鈴本先輩、釘崎先輩、平松先輩、谷端先輩。準・文学部とその友人。蔵乃下先輩は、いない。
「……大丈夫?」
一番近くにいた谷端先輩が、私を見て口にする。
思い出す。手探りで水の中に手を入れるみたいな感覚。
ああ、
そのまま、私の死んでいればよかったんだ。
涙が勝手に流れた。
「ねえ、ちょっと……釘崎さん、なんとかしてよ」
「……柚木脇さん」
釘崎先輩ではなく、鈴本香代美が私に近づいて、顔を覗き込んだ。
「少し聞かせてくれるかい? しづに、頼まれているんだ。あの日、なにがあったのかを」
嫌。
首を振ったが、彼女は引き下がらなかった。
「そういうわけにもいかないよ。これは、榎園さんのためにもなるんだ。彼女を殺した犯人を追い詰める証言だと思って……」
聞きたくもない。
セリカが死んだなんてこと、聞きたくもない。
首を回して、鏡の方を覗き込む。セリカはいなかった。セリカの部屋じゃない。机の方に視線を向けると、青い花がなかった。でも様子に見覚えがあった。ここは、戒能希巳江の部屋だったのか。
渋々身体を起こした。吐きそうだった。また眠りたくなった。そのまま死んでしまいたかった。
鈴本香代美を睨んだ。ただの逆恨みだってことはわかっていた。
「……君の気持ちは、わかるよ」
「…………」
「でも、教えて欲しい。君たちになにがあったのか」
「…………先輩……」
泣きながら、私は説明した。もう、全部を思い出していた。辛いとかそんな気持ちを、考慮している余裕なんてなかった。食ったものを吐くような感覚で、文章を連ねていた。
既に述べたとおりだけれど、私はアロベインの生徒ではない。
榎園セリカと一緒にアロベインを受けたが、私だけが落ちた。惨めな思いをしてサーシャ女学院には合格し、そこの生徒にはなったが、友達を作るつもりも興味もなかった。ここに通っているという事実が、私の失敗を常に眼前に掲げられていることと同じだった。
それでも、セリカとは連絡をとっていた。彼女は、アロベインについて楽しそうに教えてくれた。私もその話を聞いて、自分が行くはずだった学校へ思い馳せていた。ここへの連絡も、パソコンを弄ってインターネットに接続することで可能にしている、という苦労話のおかげで、向こうはy7という専用のサーバーがあるとを知った。ここからでもy7に接続できるように、私の端末の、設定の変え方を教えてくれたこともあった。y7なんてここから何に使うのかは、その時はまだわからなかった。
何もかも知らない世界だった。羨望と悔しさを、常に私は彼女の話から捻出していた。
そんな平和も、そう長くは続かなかった。文面のやり取りは誤解を招くこともあって、ちょっとしたすれ違いで喧嘩をしてしまった。向こうにとっては大したことではない、いずれ謝れば済むような問題だっただろうが、私には、それが地獄の底に突き落とされるよりも辛い話だった。
すぐ翌日か、二日後か。耐えきれなくなった私は、彼女に会いたいというメッセージを送った。アロベインの立地と校則のことを鑑みると、それが無理なお願いということは十分わかっていた。
だけど、私は心の何処かで、
本当に私のことを大切に思っているなら、そんなものをかなぐり捨てて私に会いに来るだろうと思っていた。
甘えだと言っても良い。私は、最低の人間だった。
結果は、断られた。当然だった。下山するだけでも大変だと言うのに、時間ももう遅かった。セリカの判断はごく正常としか言いようがなかった。
それを鵜呑みにして諦めればよかったのに、私は怒った。怒った挙げ句に、アロベインまで徒歩で向かった。その様子をメールで送りつけた。心配させたかった。心配してほしかった。私のこの惨めな気持ちが、少しでも伝わるように呪いを込めていた。
アロベインに近づくと、次第にインターネットが使用できなくなった。地図も開けなくなった。電波が届かないのではなく、インターネットの接続が権限によってブロックされているみたいだった。生まれてはじめて、ここでy7への接続設定の経験が生きた。端末をいじると、すぐにy7へつながった。
セリカは呆れた。私のことなんて、まるで昔から嫌いだったみたいに言った。それを聞くたびに、胸に針を直接差し込まれるような思いがした。
それでも歩いた。
道もわからなかった。
当然、そんな状態で山道を進んでも、目的地にたどり着ける確率は低かった。私は迷った。そのうえ夜道だった。死ぬかも知れないと感じた。セリカを恨むことすらあった。
いくつかやり取りをした後、セリカを決定的に怒らせたことを確信した。もうダメかもしれないと思った。ここで死のうと考えたこともあった。
それでも、と最後かもしれないメールを送った。我が儘をひけらかせば、彼女は絶対にどれだけ怒っていようとも、私のところへ来ると思った。
『どうして探してくれないの?』
そのメールの返事は来なかった。ただ待つだけで時間を潰した。その経過が、次第に理不尽な怒りに変わっていった。
――私を見捨てやがった。
絶対にアロベインに行って、セリカに直接会う。それまでは、遭難するつもりなんて無い。
会って…………謝ろう。怒られるだろう。見捨てられるだろう。でも、ただ私は、謝りたかった。欲を言えば許されたかった。あんたとのつながりを、失うことが何よりも怖かった。
ごめん、セリカ。私は、こんなにも馬鹿だった。
意を決した私はまた歩き始めた。次第に、偶然とも言えるだろうが、人工物が私の目に触れる。
たどり着いた。アロベイン女学院。誰が見るともわからない校門に、そう書かれている。よかった、私は死ぬこともなくセリカの元にたどり着けるようだ。
寮の部屋番号は記憶していた。勝手に訪ねていって、無理やり説き伏せて謝れば、またセリカは私の元に帰って来てくれる。そんな愚劣な考えに支配されていた。
榎園セリカの自室。スパーホーク寮だという話は完璧に覚えていた。
たどり着くと、ノックをした。藁にもすがるような思いだった。
返事がなかった。鍵がかかっていた。どうしよう。窓から回ることを思いついた。とことん私は外道に落ちていくことを実感していった。
外に出る。あの窓だ。窓際には、青い花が飾ってあった。彼女の趣味だろうか。そんな話は、一度としてしてくれなかった。
石を投げて、呼び出した。何の反応もない。今ならまだ引き返せるって思ったけれど、諦めて何かを得られるとは思えなかった。
外壁を登った。ちょうど、足を掛けるところがあった。自分の運動能力が、ここまで出来るものだったとは、私自身も信じられなかった。
窓を開けた。鍵は掛かっていなかった。不用心だ。私みたいな人間が、勝手に入ってくるというのに。
「セリカ?」
声をかける。
「ごめん、来ちゃった」
返事なし。
次第に私は、一体何をやっているのだろう、という自責の念を抱えていった。
花瓶を倒さないように、そっと室内に侵入した。
明かりすら点いていない。寝ているのだろうか。ベッドを確かめてみたが、肉体の一つすらもそこにはなかった。
ふと、部屋の隅を見た。鏡の前で、座っている人影があった。
「セリカ……? ごめん、でもこれにはわけがあって」
弁明しながら近づいた。
途中で、その人影が、生きていないことに気付いた。
気付いてしまった。
「セ…………セリカ!」
死んでいた。
彼女は。
私の全てだった人間が、失われていた。
なんだよそれ。
理由すらもわからなかった。
なんでセリカが死んでいるの…………
なんでセリカが殺されないといけないの…………
耐えきれない。
だって彼女は、この世に必要な人間で、世の中の重要な損失であることは、目に見えていた。
そう私が決めた。
セリカ……………………
どうしよう。どうしたらいいの。どうしたら取り繕えるの。
この世の損失を。
私の平常心を。
冷静になることなんて出来なかった。頭がはじき出した答えは、平常を保つものではなかった。
私という存在を殺してでも、榎園セリカを存続させることを選んだ。そうじゃないと、更に私は壊れてしまいそうだった。
すぐに服を脱いだ。頭はもう狂っていた。
彼女の服と、自分の服を取り替えた。端末も、交換した。
鏡を見た。立派なアロベインの生徒にしか見えなかった。完璧だ。
これで私は何処からどう見ても榎園セリカに違いなかった。
鏡は、私が誰なのかを思い出してしまいそうで、遺体の後ろに隠した。
服は汚れていたけれど、何があったのだろう。
そんなことはどうでもいい。
榎園セリカとして振る舞わなければならない。
この学校の生徒として。
基礎知識は得ていた。
大丈夫だ。
出来るつもりだった。
少し練習すれば、必ず再現できる。
だって私は、榎園セリカの一番の理解者だった。
私にしか出来ないんだ。
ところで、
その私って、
一体誰なのだろう。
そこは考えてはいけないと思って、胸の奥底に捨てた。
窓際に青い花が、全てを見透かすように咲いていた。
話し終えて、セリカの部屋に行った。
壁に座らされた遺体を見つめた。
間違いなく、彼女は榎園セリカ。
私のいちばん大切な、親友。
「セリカ…………どうして……」
なんで死んじゃったんだ。
なんで殺されないといけなかったんだ。
教えて、しづ先輩。
そうだ、
「しづ先輩は……?」
後ろで心配そうに私を見つめていた香代美先輩に尋ねた。
彼女は首を振った。
「しづは、犯人のところに行ったよ」
そこでしづ先輩が言い残していった仮説を聞かされた。
犯人が本下であることも、そこで初めて知った。
本下…………。
「でも、彼女は自分では取り押さえられないとも言っていた」
「それは、どうしてですか……?」
「しづの瞳が、なんとなくはじき出した算段だろう。彼女の機能は、単なる未来予測だ。五秒先のことを予測するが、ごくたまに、もう少し先の未来の予感みたいなものを教えてくれるらしい。もし格闘になってしまった場合、彼女では太刀打ちできない。運動能力が高いからって言っても、しづは護身術などを納めているわけではないからね……」
「そんな……じゃあどうすれば良いんですか……? 警察を呼ぶにしても、こんな山奥じゃ時間がかかります! 校長先生? 教員? 機械化能力者を抑えきれる人なんていませんよ!」
どうしよう……しづ先輩が危険だ。何やってるんだあの人は……なんだって一人で向かうのか、全く理解できなかった。
「希巳江、喧嘩強いんじゃないの?」
「おい馬鹿を言うなよ」希巳江が口を開く。「あたしの素行が悪いって言ったって、別に喧嘩が趣味ってわけじゃないよ。平松先輩なら剣道得意じゃないですっけ」
「何処からそんな話を聞きましたの……?」平松先輩は嫌そうな顔をした。「得意ですけど、それで暴徒を制圧できるかと言うと、話は別ですわ。それにブランクがありますし……」
「私じゃ頼りにならないしな……」香代美先輩が自嘲気味に呟いた。「妃麻、君は? 機械化能力者だろう?」
「足の力が少し強いだけです。無力なのは変わりません」釘崎先輩は、腕を組みながらそう言う。「私だって、基本的には香代美先輩ぐらい運動音痴ではありますよ」
どうすれば良いのか全くわからない。
しづ先輩は、どうするつもりだったのか。
何も考えなしに危険な場所に行く人だとは……思えなくもないけれど、こんな無謀なことをするのはおかしい。
なにか、未来が見えたのだろうか。
一体何が。
セリカ、どうすればいいの。
彼女を見た。
腐りかかっている。芳香剤のおかげが、まだ腐臭はない。
と、
おかしなものが、視界に入る。
これは……
私は彼女に近寄る。
彼女の右腕が、綺麗なままだった。
「セリカ、機械化能力者だったんだ……」
「何?」
私が呟くと、妃麻先輩がセリカを眺めた。右腕を手にとった。
「……確かに。でも、何の機能……」
そうだ。思い出す。彼女のパソコンに、変わったファイルが有った。すぐに立ち上げて、開いた。
『柚木脇千鶴用』。
フォルダには、そう書かれている。そこには覚書というファイルが有る。中のテキストデータ。読むと、自分の機能の使い方が書いてあった。
「なんでこんなもの……」
「何かもう一つ別のデータがあるけど」
妃麻先輩が口を挟んだ。開く。
そこには、セリカの書いた文章があった。
『千鶴がこれを見るかどうかはわからないけど、とりあえず、彼女のことを考えてこの文章を記しておこうと思う。結論から言うと、私は、この機能を使いこなせる気がしない。いや、使ってはいけないと思う。これは、千鶴を危険に晒す機能だから。機能のことは覚書として置いておくけれど、私は出来ることなら忘れてしまえるように務めたいと思っている。だけど、私が機械化能力者であることを、千鶴に言えないことのほうが、もっともどかしかった。あんたがこれを読むことにはならないと思うけど、あんた宛に書くことで鬱憤を晴らしたかった。それだけ』
「セリカ…………ちゃんと言ってよ……」
そこで、自分の腕のことを思い出した。
そうだ。私の右腕も、機械。忌まわしいほどの、そのことは覚えていた。
そして彼女の機能。犯人を制圧するのに、もっとも適した機能だった。
私は、口にする。
「釘崎先輩。このセリカの腕、私に移植できますか」
馬鹿なことを言っているような気がした。声に出した瞬間、羞恥心すら生まれた。
だけど笑い飛ばすこともなく、彼女は、
「私、そういうのの専門家よ」
と言って、優しく微笑んだ。
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