9

「……………………はい」

 蔵乃下先輩から、視線を外さないで、時間は掛かったけれど私はそう答える。嘘をついているだなんて、何もやましいことは言っていないのだから、堂々と口にするが私の務めだと思った。

 その返事を確認すると、蔵乃下先輩は頷く。

「わかりました、少し待っていてください」

 そして教室を出て、何処かへ消えた。そこから二分ほど待っていると、彼女が戻って来る。

 手には、

「榎園さん。この鏡を、覗いてみてください」

 手鏡が一つ。プラスチックで縁取られた、何処にでも、それこそ売店でも購入できそうな代物だった。

 なんでそんなことをしないといけないのだろう。彼女の意図が、私には全く掴めなかった。

「覗き込んでください」

 鏡面を、真下に向けたまま、彼女は私に突き出す。

 どうすれば良いのかわからなくなって、私は後ろを見た。そこには、希巳江と、香代美先輩と、妃麻先輩が私を見ていた。逃げ場がなかった。

「なんでそんなことしないといけないんですか……?」

 私が耐えかねて、そう尋ねると、蔵乃下先輩は精一杯、私を憐れむような表情を見せた。

「あなたに何があったのかは、わたくしにはまだわかりません。あなたは嘘をついていないということも、疑いません。だからこそ、ここではっきりさせておきましょう。麻薬の影響、という線もありますから……」

「麻薬の影響って……微量じゃないですか私は。何を言ってるんですか」

「……これ以上言わせないでください」

「嫌ですよ。疑わないでくださいよ! 千鶴がいなくなったのは、本当なんですよ! 私、なにも嘘なんかついてない! 本当です!」

 私が喚くと、先輩は手で止めた。

「……では、はっきりと告げさせてもらいます」

 そして、

 唇が私の望まない動きをする。



「――あなたは榎園セリカさんではありませんね」



 、

 、

 、

 私は、

 口を、つぐんだ。

 何かを言うべきだったが、何も言葉が生み出せなかった。壊れてしまった調理器具みたいだった。

 目の前の女は、

 話を連ね続けた。

「最初から、おかしいと思っていました。ですが、なにか事情があるのだろうと。なにか、榎園さんを名乗っていなければならないのだと、そう思いました。気遣いの範疇です。ですが、麻薬の影響だったとは、思いもよりませんでした。これは、早急に指摘すべきだと思い――」

「ふざけるなよ! 先輩こそ、麻薬で頭がおかしくなってるんですか!? 私は…………榎園セリカですよ! じゃなかったら、誰だって言うんですか」

「鏡を見てください」

 差し出す蔵乃下。

「覗き込めば、自ずと答えは見えます」

「嫌ですよ! なんで…………」

「香代美さん」

 鈴本香代美が、後ろから私の頭を掴む。

「やだ! やめろ! おい!」

「ごめんね。でも、君は逃げちゃいけなんだ」

「何を言って…………」

 鏡を、そっと私の方に向ける、蔵乃下しづ。

 そこには、

 ……、

 なんだ、

 何も写っていない。

 この鏡は、壊れている。

「なんなんですか、これ、鏡じゃないじゃないですか」

 鏡面を見つめても、やっぱり何も写っていなかった。

 写っていないんだ。

 私がそう決めた。

「覗きましたよ! 私は榎園セリカ! 間違いありません! 天に誓って言います! 神にも誓います! 私は榎園セリカです! アロベイン女学院高等部一年生スパーホーク寮所属の、榎園――」

 蔵乃下しづは、

 私の顔を叩いた。

 痛い。

 痛い。

 なんで、痛いんだ。

「目を、覚ましなさい」

 彼女の顔を見ることが出来ない。

 何も見たくない。

 ――嫌だ。

 私の頭を、鈴本が撚る。

 ――嫌だよ。

 鏡。

 ――だって、見ちゃったら、

 そこには、

「あなたの正体は、」

 ――全部が現実になってしまうから。

「柚木脇千鶴さん、ですね」



 ………………………………。

 ………………。

 ……。

 自分の名前が、

 こんなにも遠くて、こんなにも気持ち悪かったなんて、忘れていた。

 まるで、害のある親のように、ずっと死ぬまで私につきまとっている。

「柚木脇………………千鶴…………」

 は、

 そんな名前だったな。

 口にして、ようやく実感を得た。私は、そんな名前だったんだ。

 綺麗サッパリ忘れていたっていうのに、なんで思い出さなくちゃいけないんだろう。

 涙が出た。

 たしかに私は、

 柚木脇千鶴だった。

 悲しいくらいに、何よりも哀れな自分のことは、自分がよく知っている。

 なんだって、私はそんなことすらも忘れて、

 榎園セリカでい続けたのだろう。

「……千鶴さん、やっと見つけました」

 蔵乃下しづは、なんて優しい声で、私の名前を呼ぶのだろう。

「…………はい」

「……だって、あなたの示した写真と、あなたの顔は同じなんですもの。双子かと思いましたが、そういう話は出てこない。これは、なにか訳があるなと思って、依頼はとりあえず引き受けました。そこからは裏であなたのことを調べましたわ」

「私もおかしいと思ってた」と釘崎先輩。「だって、私は榎園さんのことを知っていたから。確か、学内からインターネットに接続する方法を、私に聞いたことがあったんだよ。それで、先ずしづ先輩に打ち明けた。あの娘、榎園さんじゃないって。しづ先輩はとりあえず、何かあるみたいですから、黙っておいて調べましょうって方針だったから、私もそうしたけど……」

「……………………」

「詳しく、聞かせて下さる? あなたのことを」

 まだ混濁している。

 よく思い出せない。

「覚えていることだけで…………いいですか」

「構いませんわ」

「私は…………サーシャ女学院の生徒…………榎園セリカとは、親友だったんです。でも、セリカがいなくなって…………このままじゃ、この世界はうまく回らないって思いました…………セリカがいない世界なんて、生きてる価値が私には見いだせなかった…………だから、彼女の代わりに、私がセリカになって…………とりあえず、世界のピースをうめたかった」

「……そうだったんですの」

 よくわかったような、わからないような顔をしながら、蔵乃下しづは微笑んだ。

「入学してまもなくだったから…………別にセリカが私になろうとも、誰も気づかなかった…………うまくやれるかどうかなんて、そんなことは、考えもしなかった。セリカを演じると決めた瞬間に、私という存在は死にました…………。麻薬の、影響もあったんじゃないでしょうか…………。でも、しばらくすると、なにか大事なことを忘れている気がしました…………だって、榎園セリカには、大切な友達がいましたから」

「それが……」

「柚木脇千鶴です。つまり私…………セリカであれば、親友である私を探すのは当然だと思いました…………だって…………そういう人間じゃなかったら、私の友達じゃないんです……私を探してくれないセリカなんて、怖い。怖くて友達なんてできない。その証明として探したんです、私を。千鶴を。でも見つからなかった。当然です。だって千鶴は私だもん…………どんなに偽っても…………大嫌いな自分は、いつも最も近いところにいるんだ…………死にたい…………セリカ、何処へ行ったの…………ねえ…………しづ先輩、セリカは、どこ………………? 彼女がいないと、生きてる意味なんてないんですよ、先輩……しづ先輩……セリカ……」

 蔵乃下しづは、

 そっと私を抱きしめた。

 肉体と肉体が触れた瞬間、全てを許されたような気になる。

 許されたかった。

 ああ、

 私はただ許されたかったのか。

「もう……良いんです」

 しづ先輩は、私の耳元でささやく。

「あなたは、よく頑張りましたわ……」

「…………せんぱい……すみません…………わたし…………うそ、ついてました………………」

「嘘じゃありませんわ。あなたは、間違いなく榎園セリカさんでしたもの」

 泣いた。

 子供か、人目を引きたがる大人みたいに、ひどい嗚咽を漏らしながら泣いた。

 出来ることならこのまま涙を出し尽くして、蒸発して消えたかった。

 ひとしきり泣くと、体内の成分が調整されるのかは知らないけれど、少し落ち着いた。

 蔵乃下先輩は私を開放する。

「さて、落ち着きましたね。それで千鶴さん。本物のセリカさんは、何処に?」

「……………………思い出せません」

 いるのなら、とっくに私を探しているはずだが。

 何処にいるのだろう。

「うーん、どうしたもんか」

 香代美先輩が唸る。

「榎園セリカがいた証拠は、全部彼女が塗り替えたようなもんだし、これは骨が折れるよ」

「そうだ、先輩方」

 釘崎妃麻先輩が、手を上げた。

「榎園さんの部屋に行けば、なにか見つかるんじゃないですか?」



 移動した。私の、もといセリカの自室の前だった。

 こんなに見慣れたような気がした部屋も、もうすでに他人のものという印象しか抱けない。

 セリカはここに住んでいたんだ。

「では、千鶴さん。カードキーでロックを開けてください。いつもやっていたでしょう?」

 私は頷いた。

 そう。いつもの手順で、ロックを外すだけ。ここは私の部屋ではないけれど、その動きは身体が覚えていた。

 解錠。

 でも、

 ――このまま開けてもいいの?

「何やってるんだ?」

 ドアに希巳江が手をかけた。

 嫌な予感は消えない。

 本当に?

 ドアが開かれる。

 芳香剤の匂いがする。

 だけどそういえば、

 なんでこんなに?

「あ…………!」

 戒能希巳江が声を出す。

 急いで、脇から蔵乃下しづが覗く。

 何も見たくない。

 思い出した。

 思い出してしまった。

 だって

 ――現実になっちゃうって、言ったじゃない

「これは……」

 しづ先輩が口にした。

 香代美先輩が叫んだ。

 嫌だ、

 開けなければよかった、

 なんで…………。

 見なければ、なかったことにならないの……

 部屋の中。

 脇に置かれた、鏡の前には、

 榎園セリカの、

 死体

 が座っていた。

 そして私は、

 全てに耐えきれなくなって、気を失う



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