8

 今日も授業が終わる。一日はこうやって無情に繰り返されるんだな、と言うことを、今日も窓の外を見ながら漠然と考えていた。

 希巳江と合流して早速部室に向かおうとしたが、彼女はすこし顔をしかめていた。調子が悪そうだった。

「悪いけど、保健室によって行かないか」

「ああ、うん。大丈夫?」

「平気だけど、鎮痛剤が欲しいな……」

 私はもう必要なかったけれど、二人で保健室に向かった。毎度思うけれど、保健室よりかなり遠いところにいる生徒が体調を崩してしまった時は、なかなか怖い想像をしてしまいそうになる。

 それなりに歩いて保健室にたどり着く。

 上中と、もうひとり先客がいる。

「榎園さん?」

 新聞部部長、本下藤子だった。その顔を見た瞬間に、声に出して「げ」と言ってしまったが、気にしないで、さっさと上中に希巳江を渡した。

 上中はいつもの事務的な態度を取りつつ、素早く診断を下した。

「ま、いつものやつだね」

 薬棚に向かって、痛み止めを数錠持ち出した。希巳江は、待っている間にベッドで横になった。

 気になるのが、本下。頼んだわけでもなかったが、私の隣にいて、じっと希巳江の様子を心配そうに見ていた。悪役がポイント稼ぎに見せる善意みたいだった。

 薬を飲んだ希巳江は、効くまでそのままの姿勢を保っていた。

「その薬、やっぱり効きます? 私はまだ飲んだことないんですけど」

 本下が上中に話しかけた。

「うん、評判結構良いよ。ちょっと頼り過ぎな娘もいるけど」

 随分親しげな印象だった。訝しんで二人を見つめていると、本下と目が合った。

「なに? 珍しい?」

「いえ、知り合いなのかな、と思って」

「そりゃ当然よ。教師と生徒だから」

「もう藤子ちゃん、意地悪なこと言わないでよ」上中が割って入った。「昔からの知り合いなんだよね。藤子ちゃんが幼いときから」

 なら、親戚か何かなのだろうか。歳の差は、見た目から換算すると、十歳程度だろう。なんだか、年の離れた姉妹のようでもあるが、本下が騙した社会人という見方しか、私には出来なかった。

「そう言えば房江さん」

 本下は言った。上中の名前が房江だということを、同時に思い出した。

「まだずっと眠れないんですか」

「おそらく、そうなのよ。ここ数年、ずっと。薬を飲み続けてるから、別にそのおかげで眠れているけど、今度は逆に、どれだけ眠っても足りなくて。かといって、飲まないと眠れないだろうし……始業式の日にも病院に行って貰ったんだけど、良くなってはいます、でも飲んでくださいって。実感ないわよね」

 上中は錠剤の入ったケースを見せびらかした。目ざとく数えてみたが、確かに始業式の日から欠かさず飲んでいるみたいな減り方だった。私なんかは、一日くらい忘れてしまいそうだったけれど。

「そうですか……薬、効いてるなら良いじゃないですか」

「でも身体がぼろぼろになっていくのを感じるわ……」

 そんな世間話が、ずっと聞こえた。本下も忙しいのではないのか。池田は夜中まで部活動の残作業に追われていることを、私は知っているのだけれど。

 しばらくすると、希巳江が身体を起こした。

「ああ……だいぶ効いてきたかな。なんだか気持ちがいい」

「大丈夫?」

「平気だよ。さて、そろそろ部活に行こうかな……」

「蔵乃下先輩には連絡を入れたから、もう少し休みなよ」

 本下と上中の話が聞こえる。よく喋る二人だ。こんな楽しそうな上中の顔も、なかなか見ることはなかった。

「藤子ちゃん、また授業に出ないで学外取材に行ってるの?」

「ええ。別に、学業に支障はありませんよ。ちゃんと勉強はしています。出席日数なんて、最低限で良いんですから。私にとっては、取材の方が大事です」

「まあ、そうなんだろうけどさ……」

 彼女のそういう話は何度か聞いた。教師にまで得意げに話すとは思わなかったけれど。

 学校にあまりいないことが、教師にも知れ渡っているのか。教員側としても、許可を出した手前、強く言えない面もあるのだろう。

 なんというか、評判にあぐらをかいているみたいな女だった。

 希巳江の調子が戻ったので、適当に挨拶をして私達は部室へ向かった。

 あまり本下の近くに長い間いたいとも思わなかった。



 部室に顔を出すと、まるで私達を待っていたかのように、全員がこちらを向いた。揃っている。

「希巳江さん、調子はどうですか?」

 蔵乃下先輩が挨拶をすると、希巳江は頷いた。

 私達は、椅子に腰掛ける。妃麻先輩の周りに蔵乃下、鈴本両先輩が集まっていたので、私達もそれに従った。

 まさか、あの件だろうか。私は直感で悟った。

 妃麻先輩は、パソコンを眺めていたが、全員揃ったことを確認すると、ディスプレイを指差して口を開いた。

「しづ先輩、榎園さん。驚かないで聞いてください」

 彼女の表情はいつになく真剣だった。

「この間の血液検査の結果が出ました。私のツテで、然るべき機関にお願いしていたんです」

「あら、結局何もないから、意味なかったのかと思いましたわ」

 蔵乃下先輩が飄々とそう言ったが、釘崎先輩は意に介さなかった。

「……端的に説明します。あの生徒から検出された血液から、それなりの濃度の麻薬反応が見られました」

 ――。

「それ、間違いありませんの?」

「はい。然るべき機関、だと言いました。この薬物は、脳の快楽物質の分泌と同時に、思考力の低下をもたらします。つまり、懐疑心が失われ、思い込みが強くなるんです」

「その薬、昔からあるの?」

「結構最近で回り始めたもの、だとか」

 妃麻先輩は、そこで言葉を切って、私と蔵乃下先輩をじっと見た。

 その目はどう見たって、私達を訝しんでいた。

「……先輩、榎園さん。そして、私もですが、あなた達の血液からも、同じ反応が微量ながら見られています」

「な……」

「なんですって」

 蔵乃下しづが、身を乗り出してディスプレイを睨んだ。私もその後ろから覗き込んだけれど、変わったグラフが数本あるだけで、私には見方がよくわからなかった。

 妃麻先輩は、蔵乃下先輩を、心配そうに見る。

「先輩…………私は薬なんてやっていませんよ」

「何を言うのよ。わたくしだって、そんな麻薬に頼る人間に見えます?」

 見える、と言いそうになったが、ややこしくなるので私は口をつぐんだ。

「しづ……」

 鈴本香代美が後ろから声を発した。

「なにか、心当たりはない?」

「なにかって……」

「何処かで飲まされたのかも知れない。もしかしたら、食事に混ぜ込まれていたのかも」

「食事なんて……心当たりが多すぎますわ。みなさんも毎日口にしているでしょう」

「出てるかもしれない。私達からも」

 鈴本先輩は、窓の外を見る。運動場で遊ぶ生徒。

「……なあ、ちゃんと病院で診てもらったほうが良いのか?」希巳江が心配そうに釘崎妃麻に尋ねた。「あたしだって、こんなだけど、麻薬なんてやらないぜ? それに、身体になにか影響があるんじゃないのか?」

「そうね。これを見てくれる?」

 妃麻先輩が違うグラフを出す。どうせ意味はわからなかった。チカチカして綺麗だった。

「榎園さんとしづ先輩、そして私の、成分濃度の結果です。榎園さん、私、しづ先輩の順に濃くなっています。こっちの……倒れた生徒のものと比べるとそれでも低いですが、それでもこのままでは、それなりのフィードバック、つまり依存性に苛まれてもおかしくありません」

「どこでそんな……」

 わからない。

 いつの間に、こんな身体にされていたのか……。

 空気を介して麻薬成分を注入する機械化能力者でもいるのだろうか。それでも、目的は全くわからない。y7の電子人間みたいに、千鶴が妄想の産物だとしたら、薬はそれなりに効果を上げているらしい。

 そんなわけないだろ。

 千鶴は現実なんだから。

「おそらく……全校生徒から検出されても、おかしくないでしょうね」妃麻先輩が画面を見ながら呟いた。「しまったな……もっと無作為にサンプルを選べばよかった」

「しづ、身体はなんともないかい?」

「ええ。薬のおかげで幸せだわ。この幸せすら偽りだったなんて、思いもしませんでしたけど。三年間の幸せが、どの程度作られたものだったのでしょうね」

「そういえば……いつからなんだろう」

 そうだ。私まで麻薬の反応が出るのはおかしい。入学してから、二週間程度しか経っていないからだ。その期間の内に、麻薬成分を何処からか体内に入れる機会なんて、そう多くはないだろう。

 食事に混ぜたことが最も可能性としてありえるか? それなら食堂の職員を問い詰めればいいが……。でもそれなら、なんで人によって成分の濃淡が、

 いや、

 待て。

 なにかあった。

「待ってください」

 私が口にすると、全員がこちらを向いた。

 これからある種の辱めを受けるみたいで、少し恥ずかしかった。

「……心当たりがあります」

「どこだよ?」

 希巳江が尋ねると、私は彼女の胃のあたりを一瞬見てから、答えを口にした。

「保健室」



 あの痛み止めがまさか麻薬だったなんて、そんなことは誰かの死の報告ぐらい信じたくなかった。

 だけど、食事以外に、全校生徒の大半が訪れるとすれば、ここしか思い当たらない。可能性は潰すべきだろう。

 上中は先ほどと何も変わらない様子でいた。本下はいなくなっていた。

「ちょっと、どうしたの大勢で」

「すこし、お尋ねしたいことがありまして」

 そして蔵乃下先輩は、あの倒れた生徒から、麻薬が検出されたことを告げる。然るべき機関とやらから送られた、グラフデータも添えて見せた。

 なにか悪い妄言を聞いた時みたいな顔をして、上中は答えた。

「そんなバカな……」

「これは現実です。あの薬は、一体何なんですか」

 机に拳を打ち付けて、上中は苦しそうに呟く。

「……あれは……生理痛の薬として買っているものよ……」

「それはわかっていますわ。麻薬だということはご存じないんですの?」

「麻薬なんて流すわけ無いだろ!」

 上中は肩で息をしていた。蔵乃下先輩を睨む。

「なんてこと…………こんなの、バレたらどうなるの私は…………なんなのあの薬は……」

「ごく最近導入されたものですの?」

「…………そうよ。今年に入ってから、口コミによって購入要望が高まったの。都会じゃ、新しい生理痛の薬だって……副作用もなくて効き目も良いって……」

「あなたは、どんな薬か知りませんでしたの?」

「知らない…………都会には出ないから……最近はそんなのがあるんだってことぐらいしか……」

「あの生徒は、よく服用していたんですの?」

「ええ…………人によっては、痛みが治まらないからって、追加で出した事もあった……それがまさか、依存性の兆候だったなんて……」

 蔵乃下しづは腕を組みながら、恨むでもなくただ淡々と表情も崩さず、上中に訊いた。

「何処の業者から仕入れているんですの?」

 上中は、端末を開いて連絡先を表示させた。名前と電話番号とアドレス。釘崎先輩がそれをメモする。一見、何処にでもありそうな業者だった。

 蔵乃下先輩は、上中先生の背中に手を置いた。

「……わたくしから校長先生に伝えておきますわ。それでいいですか?」

「…………お願い。耐えきれそうにない」

「わかりましたわ」

 保健室を後にした。

 部室に戻りながら、麻薬のことを話した。なぜか、そうせざるを得ない空気を感じた。

「……なんでそんな麻薬なんかが撒かれていましたの」

 蔵乃下しづが漏らす。私達を先導して歩いている。

「思い込みを助長する効果、だっけ」香代美先輩が呟いた。「それがあるから、上手くいくような機械化能力なんじゃないかな。たとえば……」

「電子人間の存在を思い込んでいる」

 釘崎先輩が口にする。

「いるはずのない人間の記憶を植え付けられているんですよ」

「まあ、薬と機能を用いれば可能だと言うけどね……」

「思い込み、ね」

 そうして、

 釘崎先輩は、

 私を睨んだ。

 足を止めた。

「…………なんですか」

「私は、いい加減はっきりさせておきたいです。しづ先輩」

 あの目。私を最初に睨んだあの目。

 助けを求めるように、蔵乃下先輩に視線を送ると、彼女も気まずそうな顔を見せた。

 なんだ、その顔……。

「……部室に急ぎましょう。そこでお話があります、榎園さん」

 首筋に、刀を突きつけられたみたいな気分になりながら歩く。

 希巳江が、私を支えている。

 なんなんだよ。

 私は何を尋ねられるのか。

 部室に戻った。

 いつもの部室が、急に私がいてはいけない場所に見えてきた。壁や机のそこかしこから、居心地の悪さを感じた。

 中央の椅子に、私は座らされる。

 目の前に立って、蔵乃下しづは、私をまっすぐに見つめた。このどちらかの目が、機械で出来ているなんてことを、今になって実感した。

「榎園さん」

 何も言えない。

「あなた、私に嘘をついていないって、誓えますね?」

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