5

 夜が明けた。

 明けただけで、まだ早い時間だった。

 私はこっそりと布団を抜け出して、床に爪先を接触させる。布団から出た身体は、急速に体温が下がっていく。寒い。やっぱりこんな時間に起きるもんじゃなかった。

 立ち上がって、音を立てないように歩いた。戒能希巳江はまだ眠っていた。朝は早い時間だと言ったが、それにしてももうじき朝食と礼拝の時間が迫っていた。呑気に爆睡している暇もないと思うけれど、彼女はなんとなく朝に弱そうなイメージがあった。

 廊下に出た。一層寒さを感じる。冬と変わらない。冬はずっと寒いので、まるで親の敵のように嫌いだった。身震いをしながらそのままこっそりと進んだ。

 監督生の姿はない。こんな朝早くから見回りなんてしないだろう。そう考えると、私みたいに夜中こっそり移動してお泊まり会でもして、さらに朝見つからない内に自室に戻る生徒が、それなりの人数は存在するんじゃないだろうかと思う。

 一人にならないでと言われたのに、もう一人になっていた。まあ、犯人も早朝から凶行に及ぶ可能性は低い。仮に私を殺したとしても、朝食までに遺体を処理できるかと考えれば、答えは限りなく不可能だった。

 そこまで計算に入れていない犯人の場合は、私の部屋でずっと待っているのだろうけれど。途端に、部屋に戻るのが怖くなった。

 希巳江にはメールを入れておいたから、朝いなくなっていたことを騒ぎはしないはずだ。

 二階に下りた。自室はすぐだった。誰も見当たらない。さっさと入って、着替えて、朝食に出て、礼拝だ。一人になる機会もほとんどない。

 ふと見る。

 ドアの下に、なにか見覚えのあるものが。

 嫌な予感がした。そのサイズと色合いは、昨日、すでに脳に焼き付いてしまっていた。

 真っ白い、紙。

 息を呑んで、周りを見る。誰もいない。真っ直ぐに伸びる、空虚な廊下がそこに存在するだけだった。

 ゆっくりと近づいて、その紙をつまみ上げた。軽い。当然だ。昨日触ったばかりの、紙だから。

 裏返す。

『これ以上 関わるな』

 それだけ書かれていた。他には、真っ白い余白が、無駄に残っているだけだった。このためだけに使われた紙は、なんて可哀想なのだろう。

 文面を噛み砕いた。これはどう読んだところで、脅し以外の何物でもなかった。どれだけ好意的に解釈しても、そう受け取る他なかった。

 池田だ。

 どうせ池田がやったんだ。

 気持ちが暴走しそうになって、私はそこで、自分の肩を掴んでその場に釘で打つように、自分を律した。

 ……早計だ。まだなにも確定していない。池田だなんて決まったわけじゃない。

 でも、注意するに越したことはない。これ以上関わるな、なんて、それは私が池田に対して抱くべき感情だった。

 自室を開けて、室内を覗いた。誰もいない。当然だ。たった今、カードキーをかざして開けたのだから、誰かが勝手に入っているはずもなかった。それでも、監督生や、寮長つまり寮を取り仕切る教員の持つマスターキーがあれば、そんな施錠なんて無意味なんだろうけど。それにカードキーのセキュリティは、それほど高度なものでもない。

 入る。芳香剤の匂いが、鼻をついた。いつもの私の部屋だった。

 窓際の青い花も、そのままだった。

 ふう。疲労感が押し寄せてくる。

 もうすぐ朝食、そして礼拝だった。



 礼拝堂。長椅子に腰掛けて、話を聞いた。

 神への信仰心なんて、そう熱心に持ち合わせていない私は、話に強く耳を傾けるでもなく、かといって蔑ろにする勇気もなく、暇そうに時が過ぎるのを待つ他なかった。

 祈りの前に、学校のことで話があった。全校朝礼が滅多にあるわけでもないこの学校が、全校生徒への連絡事項を伝える場は、y7への掲示とこの礼拝に限られる。礼拝があるから全校朝礼がないのかもしれない。礼拝のほうが、労力は四倍かかるのに、ご苦労な頃だった。

 毎度のことながら、内容にさほど興味は出なかったが、今日の話は、ほとんど私に関することだった。自然と顔が、教員の方を向いた。

 昨日、図書室であった事件がやんわりと触れられた。人為的なイタズラであるという可能性を考慮しながら、事故という処理はするが気をつけるように、という注意を撒かれただけで終わった。私のことは、特には触れられなかったが、少しだけ悪目立ちしたような気分になった。

 事故という処理には、すこし不満だった。犯人が名乗り出ない以上しょうがないのだろうけれど、自分の殺されかけたという感情が、無理矢理に被害妄想にされてしまったみたいで腑に落ちなかった。

 それから、私達が保健室に運び込んだ、ヘッドセットディスプレイをしたまま倒れた生徒の話も付け加えられた。さすがに、麻薬中毒であるという憶測が出たわけでもなかったが、問題のある生徒の例が報告されているとして、私達への戒めに還元されていた。前からそういう生徒は、礼拝の場でのネタとして取り上げられていたけれど、ここに来てようやく明らかに様子がおかしい生徒が一人出てきたわけだ。教員側としては、利用しない手もない。

 あの生徒……結局どうなったのだろう。妃麻先輩が調べてみると言って、まだ結果は聞いていない。時間がかかるとも口にしていた。

 麻薬……。

 都会からそんなものを持ち込めば、こんな学校では一気に広がるんだろうな、と私は漠然とそう感じる。娯楽が何もなければ、危ないと知らなければ、私だっていつ手を出すかわからない。

 そうならないように、蔵乃下先輩にゲーム機の使い方でも教えてもらおうか。

 全ては千鶴が見つかってから。

 犯人だって、この中にいるかも知れない。

 私は、そこにいるともわからない犯人を、睨みつけた。



 授業の合間だった。

 ちょうど近くに来たこともあったのと、どうせ奴らは授業なんか出ていないと踏んで、私は新聞部の部室に向かった。

 まあ、それでもあまり期待はしていなかったのだけれど、部室のドアに手をかけると鍵が開いていた。中には、本下と池田がいた。まさか、本当に授業をサボって作業をしていたのか。

 椅子に座っている本下は、手に顎を乗せてこちらを睨んだ。

「どうしたの? あなた次は物理じゃない。教室はすぐそこだって言っても、早く向かったほうが良いわ」

 気味が悪くなる。

「……なんで把握してるんですか?」

 なんでそんな当たり前なことを尋ねるんだ、という表情を隠そうともしないで、本下は答えた。

「全校の時間割に、何度も目を通す必要があるからよ、新聞部をやっていると。そしてあなたのことはマークしてる。そりゃ、失踪事件の手がかりだもの」

 本下のことは無視して、池田を睨んで私は言った。

「どうしてノートを受け取ったんですか?」

 池田は本下の隣でモニターを見ていたが、面倒くさそうに私を横目で見て答えた。

「どうしてって、そりゃ情報が入ったからよ。良いじゃない、別に」

「何処から知り得たんですか? 盗聴でもしてるんですか?」

「人聞き悪いわね。谷端先輩の勉強会に、うちの部員が参加してんのよ。そこから知ったってわけ。納得した?」池田は本下の近くから離れる。「悪者扱いしてくれも結構だけど、こっちも部活動の一貫なのよ。なんなら、謝礼だって出すわよ」

 私は奥歯を噛んだ。

「何が謝礼ですか。こっちは……殺されかけたんですよ」

 そう口にすると、本下は興味深そうに身を乗り出す。

「へえ。詳しく訊かせてくれる?」

 骨まで抜かれそうだった。

 私は口をつぐんだ。

「いいえ、なんでもありません……」

 それを聞いて、池田が急に真剣な表情になって、言った。

「ほら、手を引けっていうのは、危ない目に遭うからやめろって意味だったんだよ。だから首を突っ込むなって、そう言ってるだろ」

 何も言い返せないのが悔しくなった。

 ひねり出した言葉をぶつけた。

「…………そこまでして、なにがしたいんですか。新聞部だって、次は授業でしょ。あなた達も授業出なくて良いんですか」

 本下は、まるで幼児にわかりやすく説明するみたいに、それと同時に呆れた風な口ぶりで、私に告げた。

「授業なんて、必要な単位を最低限取るだけでいいのよ。池田は皆勤賞も狙っているから、早く行ったほうが良いでしょうけど。私は別に、そんなんじゃない。y7への情報の供給と、それに伴う広告収入の安定化。それだけだよ。でも、余計なことをされると困るんだよ。私達が無事に解決する。だけど邪魔はしないで」

 結局、そのまま黙ることしか出来なかった私を、池田は連れ出した。

 授業に向かう池田の背中が、妙に気に入らなかった。

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